クリスマスの次の日にの鉢雷の裏話。Route66の設定。



鉛雲がずっしりと広がっていて、街全体から色が奪われたような暗い朝だった。冬の朝は夜に等しい。まだ日が昇るまで時間があるな、と覗いたカーテンを再びきっちりと閉じて、それから電気とヒーターのスイッチを入れた。部屋の中に入り込んだ隙間風に悪態を吐きながらも暖まるのを待つ。テーブルに転がっていたリモコンをいじってテレビのチャンネルをローカル局に合わせれば、一日中雪のマークの天気予報が飛び込んできた。

「はぁ」

この街に来て三週間。自分にしては珍しく長くなった滞在だったが、この天気予報で雪マークを見なかった日は一度もなかった。



***

「やぁ、サブロー」

左ポケットが重たく垂れさがるジャケットに降り積もった雪を払って店に入るなり、赤茶色のひげをたっぷりと蓄えた親父がカウンターごしにいつものように声をかけてきた。中途半端な時間のせいか店の客足はまばらだったが、どれもよく見知った顔ぶれだった。わざわざ老眼鏡を額へと上げて新聞を読んでいる老女、クロワッサンを頬張りながらクロスワードを解いている女性、夜勤明けなのか作業服姿でぼんやりと窓の外を眺めている男性。これもいつもの光景。互いに関心を持ち合わない彼たちはまるで凪いだ海のように静かだった。この中に東洋人の私が増えた時でさえ、特に波風が立つこともなかった。静寂の中にある暗黙の了解と踏み込み合うことのない関係を私は気に入っていた。

「今日は特に冷えるな」
「一日中、雪だとさ」

朝見た天気予報を告げれば、珍しいことでもないはずなのに親父は「oh」と両手を広げて首を傾けて大げさに呻いた。最初に見た時は芝居がかっている、と思ったが、慣れてしまえばそんなものなのかもしれない。ポケットから代金を漁っていれば親父は「いつものでいいだろ」と私の方にいつも食べてるベーグルとブラックコーヒーを出した。夜を煮詰めたような黒々とした色のコーヒーからは、つんと酸っぱい匂いが漂っているような気がした。

「マフィンも付けるか? 焼きたてだぞ」
「止めとく。釣りが変わってくるし」

ポケットにねじ込んだままぐちゃぐちゃになった紙幣を押しつければ、親父は不思議そうな面持ちをした。レジスターをいじって「釣り?」とたずね返してきた親父から手渡されたのは、ぴかぴかと銀色に光ったコインが2枚と銅褐色の小さなコインが3枚。大きい方は左手の掌でしっかりとくるみ、小さいの額の方はどうせ使えないと、カウンターに置きっぱなしの籠にチップとは別の意味合いで、これまたいつものように投げ入れる。バラバラに飛び込んだせいか、軽い金属音が響いた。

「電話を掛けるのに」
「そういや、サブローはよくその前に立ってるな」

親父の視線につられて、俺は店の奥ほどの、トイレの少し前に置きっぱなしになっている公衆電話へと視線を向けた。店のなかにあるのだ、携帯電話が主流になっても撤去されることはないのだろうが、確実に使う奴は限られているのだろう。プラスチックのそれはうっすらと埃に覆われているような気がした。

「誰に掛けるんだ?」
「雷蔵に」

俺がその名を告げれば、親父は聞きなれぬイントネーションに眉を寄せて鸚鵡返しのように「ライゾニ?」と片言で俺の言葉を真似た。それを「雷蔵、に」と訂正してやれば、親父は面白がって再び「ライゾーニ?」と尋ねてきた。稚い幼子が喋るような舌足らずな感じがして、ちょっと心が弾む。なんとなくもう一度聞きたい、なんて思惑に俺は再び彼の発音を正した。

「雷蔵」
「ラゾ?」
「雷蔵」
「ライゾー」
「らいぞう」

何度も繰り返す彼の名は、まるで呪文のようだった。いや、魔法なのかもしれない。その名を口にするだけで、冬の晴れた日の夕暮れの少し前、空がぴかぴかと黄昏に染まって輝いているような、そんなどうしようもなく淋しく、そして温かな気持ちになるのだから。



***

「それで、そのライゾウってやつは、サブローの恋人か?」

完璧とまでは言えないものの、それなりに近くなった発音で雷蔵の名を含めて喋った親父はにやりと笑った。そう思った理由を聞くのが面倒で口を噤んでいると「そんだけ毎日電話してるのなら恋人だろ」と自説を繰り広げ出した親父に隠れて呟く。「恋人、ね」と。よく分からなかった。好きなのか、と問われれば全力で肯定する。体の全てがそう叫ぶ。だが、恋人なのか、と改めて問われれば、即答できなかった。日本にいた時は、近すぎて分からなかった。友だちというか家族というか、とにかく、そういった時間が長かったから。------------今は遠すぎて、分からない。

「サブローがそんな惚れこんでる奴の顔を見たいよ。さぞかし美人だろうな」

こっちの苦悩も知らずに親父は勝手に想像しては一人楽しそうに「一度、連れてこい」なんて続けた。

「無理」
「何でさ」
「雷蔵は日本に住んでるから」

こちらの言葉に親父は「日本!?」と素っ頓狂な声を上げて、大きくのけぞった。たっぷりとした髭が大きく揺れて、丸っこい目がさらに見開かれる。まさしくオーバーリアクション といったところだろうか。

「何でそんなに驚くんだ? 私が日本人なの知っているだろう?」
「いや、そうだけどよ…だって、毎日、電話してたじゃないのか? そのお釣りで」

011の81の……何度も繰り返して指に刻みこまれた番号。自分の家、雷蔵が待っている私の家。けれど、それはいつも、繋がることがなかった。当然だ。掌を解放させれば、そこには握りしめていたせいかすっかり温まった硬貨。ワンコールにも満たない、2枚のコイン。幻聴が耳を過る。受話器を上げた瞬間のツーという機械音と、なだらかな英語で料金不足を告げるオペレーターの声が。それから切った後の、混線の中にある静寂さが。

「国際電話だと、これじゃ足りないだろ」
「そっか。けど、ならカードでも買えばいいじゃねぇか? 通話時間を気にせず掛けれるし」
「いや。いいんだ……私に電話をする資格なんてない」

自分の中で出した答えを告げることができず、私は雷蔵から逃げ出した。待ってろ、とも待ってて欲しい、とも言わなかった。怖かった。勝手に国を出ることを決めて勝手に電話して勝手に雷蔵の元に帰って勝手にまたいなくなって。--------雷蔵が「もう、いい」と愛想を尽かすのを待っていた。そのくせ、雷蔵からその言葉が出ない様に、消息を絶って、向こうから連絡させない様にして。

(本当に、私は極悪人だ)

「サブロー」

まだ何か言いたそうな空気を感じたその時、水気を含んだ冷たい風が足元を通り抜けた。二重になったドアの間には、分厚いジャケットにすっぽりと包まれた顔見知りの老人。親父は俺の方にもう一度視線を投げ、それから老人のためにコーヒーメーカーに体を向けた。内心、ほっ、と息を付きながら、掌のコインをジャケットの左ポケットに収める。ポケットの中にある硬貨とぶつかったのだろう、ちゃりん、と甲高かい音が悲鳴を上げた。ほんの少しだけ、また、重たくなったような気がしたが、無視して冷めかけのコーヒーとベーグルを運ぶことにした。ちょうど公衆電話の見える、店の隅の席へと。窓の向こうはまだ明けぬ夜のような墨色が覆っていて、蛍光灯の明かりがガラスに反射してピカピカと輝き、そしてその下にいる冴えない顔つきの自分を映し出していた。



***

雷蔵の元を離れてどれくらいになるのだろう。四季の移ろいがはっきりしない国や日本と逆転した季節を過ごす場所にもいったから、どうもその辺りの感覚が鈍くなってしまった。春が来て夏が来て秋が来て冬が来る。ひたすらその繰り返しの中で、老いていくごとに肥えていく年輪のように時が経ていく、そんな国で雷蔵は生きているのに、自分はそこから随分と遠い所に来てしまっていた。

怖かった。雷蔵に近づくのが。だから離れた。---------そしたら、近づくのがもっと怖くなった。

1本のラインで世界の裏側にいたって、雷蔵の声が聞こえる。お金さえ用意すれば、いつだって、雷蔵と繋がることができる。便利な時代だ。1枚だけコインを入れれば甲高い金属をんが落ちていった。耳に受話器を当てればツーと独特の音が待っていた。それから、目を瞑っても間違えない彼に繋がる番号を押せば、雷蔵とは全然違った陽気な英語が迎えた。その番号に繋げるには料金が足りません、と残りの金額をオペレーターに告げられる。ポケットに手を突っ込んでかき混ぜれば、じゃらじゃらとコインが存在の声を上げた。その中から1枚を掴む。けれども、いざ、不足分のコインを入れようとすれば、指が投入口で彷徨った。吸いついてしまったみたいに離れなかった。----------そうして、ジャケットの左ポケットの重みだけが増えていく日々。

(雷蔵の声を聞きたい。雷蔵に逢いたい。けど、)


***

そうやって身動きが取れぬまま、気が付けば年の瀬も押し迫っていた。

「サブロー」

いつものように、多くの者が家族や愛しい人と過ごすという聖なる日だ、と気付いたのはドアを開けた時だった。踵を返そうと思った瞬間、大声で笑い合う渦の中から呼ばれ、諦めて店のカウンターへと歩を進める。いつもの様相とは全く違う。新聞を読んでいる老婆もクロスワードをしている女も夜勤明けの男もいない。どうやら、店にいるのは昨晩から飲んでいるメンバーらしく、店の親父も赤ら顔ですっかりと出来上がってるようだった。

(コーヒーは出てこないだろうな)

「お前がサブローか」
「今日は男同士、飲もうぜ」
「そうそう、どうせここは淋しい独り者の集まりさ」

四方八方から飛び交う言葉に答えれずにいると、賑やかさの中心にいた親父は「飲め飲め」とグラスに、がばがば酒を注ぎ込んだ。雷蔵の髪を想起させる琥珀の色が透いた影を落とす。昇り立つ芳醇な香りだけで酔えそうだった。言葉に甘えて一気に呷れば、粘度の高そうなアルコールが喉に貼りついてカラカラに灼いていく。カウンターに空にしたグラスを放せば、周りにいた連中らが口笛ではやし立てられ「もう一杯。今日は俺の奢りだ」と知らないおっさんに新たに満たされた。それも、一気に空ける。今日は聖なる日。子どもにも大人にも老人にも善人も、そして極悪人にも平等に訪れる日。 ぐにゃり、と歪んだ窓の向こうでは雪が狂うように踊っていた。死の世界のように冥い空。

(逢いたい。逢いたい。逢いたい---------雷蔵に、逢いたい)

溢れてくる気持ちに瞼の裏がじわじわと熱くなってきた。ジャケットのポケットを裏返し、中に入っていたものを、ずっと溜めてきたものをカウンターにぶち撒かす。コイン、それから、そこに込められた雷蔵への想い。天板に跳ねかえった大量の硬貨はあちらこちらに転がり散乱した。店の明かりに跳ね返ってきらきらと銀色の煌めきを放つそれ。ぶつかったせいで聞こえた耳障りな金属音の残響は尾を引いて-------やがて、静寂が落ちた。皆がかたずを呑んで私を見ているのが分かった。親父の口ひげが軽く上がった。

「サブロー。ライゾウに、電話掛けてこい」
「けど、」
「足りなかったら店の金を使え。それでも足りねぇなら、みんなからも硬貨をかき集めてやるから」



(視線を店の奥に向ければ、そこに鎮座する公衆電話は優しい光に包まれていた)
音を掌で掴めたら








title by heaven's blue