ぎりぎりの時間になって朝の鍛錬から戻ってきた小平太からは、饐えた吐瀉物の匂いがした。
力を抉り取られてしまったかのように彼からは覇気が全く感じれない。
窪んだ眼窩に収まった目は濁りきっていた。



「食べないのか?」

米粒から仄かな甘みを漂わせた湯気は、すっかりと消えていた。
漬け物の最後の一切れを口にしようとして、目の前にいる小平太に声をかける。
問いかけた言葉に小平太は顔を上げると、今にも泣き出しそうな顔であやふやに微笑んだ。



「今朝、仙ちゃんを見かけた」

それと今の彼の状態がどう繋がるのか分からず、「仙蔵を?」と相槌に近い言葉を返す。

「まっ白な服で、その上から水を浴びていた」
「……あぁ、」

そこから導き出された一つの答えは、たぶん、外れることはないだろう。
何か感傷が生まれるかと思ったが、僅かに浮かびあがったものはそのまま滔々とした流れに呑まれて消えていった。忌みを払う仙蔵の姿も、看取った伊作の姿も、そして何よりもその死んでしまった人物の姿も見ていない自分にとって、それは当り前のことだ。






古今東西、死を忌み嫌い、なんとか死を避けようとするのは人間の性らしい。
だからだろう、東洋や南蛮、新書や古書に関わらず、そういった本が図書室に集まってくる。
消えかける命を引きとめようとする医術から死んだ人間を何とかして生き返らせようとする呪術まで。

(死というのは、それほどまでに受け入れ難いものなのだろう)

周りから見れば、己は冷静に受け止めているのだろう。
しかし、それは関わりが薄いからなせている、ということもよく分かっていた。
酷く冷たい目でそれを観察できるのは自分が智慧としてではなく知識としてしか知らないからだ。






「誰か、死んだね」
「あぁ……」
「誰か、死んだ」

自分に言い聞かせるかのように小平太は爪を掌に深く突き立てた。
血がせき止められたせいで、どんどん白くなっていく彼の皮膚は、痛々しくみえる。
けれど、自傷に近いその行為が彼をこの世界に繋ぎとめていることは長い付き合いで分かっている。

(痛みは、その人にしか分からない)

離れた所で笑っている仙蔵にしても、腫れた瞼で微笑んでいる伊作にしても。









***

無理矢理、かけ込むように食べ物を押し込んだ小平太は「先に行く」とその勢いのまま立ち上がった。



「小平太には悪いことをした」

温くなってしまったお茶を啜っていると、乾いた声が頭上から落ちてきた。
見上げると盆を持った仙蔵が自嘲気味な笑みを浮かべて立っていた。
出口から出ていく小平太の背中に、視線を投げる。



「仙蔵。気がついてたのか?」
「あぁ。朝から一度も話しかけに来なければ、な」

離れていた時は気づかなかったが、こうやって近くで見ると仙蔵の艶やかな髪に疲れが滲み出ていた。
元々色白なところはあったが、ざらりと乾いた肌は生気を失っていて。
だからこそ、珠のような輝きの瞳が恐ろしかった。



「すまない、」

咄嗟に出た言葉に、仙蔵は「なぜ、長次が謝る?」と小さく呟いた。
さっきの小平太とは対称的な、研ぎ澄まされた仙蔵の双眸が俺を覗き込んでいた。
わからん、と正直に答えると仙蔵の疲れた唇が何とか引き上がり、ゆるやかな弧を描いた。



「誰も悪くない」

誰に対しての言葉なのかは分からないけれど、それは本質を突いていた。



(自分にしか分からない痛みは、自分で何とかしていくしかないのだ)

悼む人

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