まるで人の抜け殻のような痕が残る布団は、けれども、とうに冷たくなっていた。 「伊作先輩、」 手に通う温もりを確かめつつ、その布団をぼんやりと眺めていると、あどけない声が背後から届いた。 戸口に重篤人を示す札がなかったからだろう、振り返れば保健委員の後輩が立っていた。 いつもと変わらぬ、にこやかな表情に、彼がまだ何も知らないのだろうと思う。 --------------札がなくなった、その意味を。 「……乱太郎、か。どうしたんだい?」 「あ、今日は天気がいいから、布団を干そうかと思って」 「あぁ、ありがとう」 明るくのびやかな声が「それも持っていきますね」と続いた。 まだ何も知らない、小さくて丸っこくて柔らかな掌が布団に伸び掛けたのを見て、思わず「乱太郎」と遮る。 つい、声を大きく出したせいか、部屋に僅かに滞っていた陰鬱な黄泉の匂いを、勢いのまま呑み込んでしまった。 「はい?」 「……これ、大きいから僕が運ぶよ」 「そうですか?」 「うん。だから乱太郎は、さっき洗った手ぬぐいを干してきてくれるかい?」 僕の提案に何の疑いもなく至極当然のように「はーい」と返事をすると、乱太郎はくるりと踵を返した。 水色の井桁模様の背中と共に、パタパタと軽い足音が遠ざかって行くのを見届けて。 それから、おくりだされた彼の人型が残る布団とまた対峙する。 (乱太郎たちは知らなくていい) 戸口から札が消える理由も。 昼夜が分からない冥いこの離れの部屋の存在理由も。 それから、布団に鋳された痕跡を崩す指先に感じる灼きつくような痛みも、今は、まだ。 たとえ、それが欺瞞だとしても。 *** 苦悶するような小さな呻きが几帳で仕切られた先から聞こえてきたのが不意に途切れ、僕は薬草を仕分ける手を止めた。 呼吸の感じが変わった気がして、顔を覗かせると、昏倒した小平太が丁度目を覚ましたところだった。 自分の居所を探るように彷徨っていた冥く朧な瞳が、僕に留まった。 「いさっくん…私?」 「医務室だよ。馬鹿みたいに一人走り込んでたんだって?」 見つけた滝が慌てて飛んできたよ、と苦笑いして続けると、彼は「そう」と僅かに空気を震わせた。 天窓から差し込む西陽が、血の気の失せた彼の頬に深い影を刻み込んだ。 痩けたと感じるのは、けれど、そのせいだけじゃないだろう。 (鼻の利く小平太のことだ、きっと昨夜のことを感じ取って、独りで無理に消化しようとしたのだろう) 確信にも近いそれは、けれども、口に出すことはできなかった。 走り込んでいた理由を問うたところで、きっと、彼は答えないだろう。 僕や仙蔵があのことを話さないのと同じように、他の皆が口にすることもなかったから。 ------------それが、僕たちの暗黙の了解だった。 だから追及することもできず、かと言って、体調を聞くにはその理由に触れなければいけなくて。 どうしればいいかと考えあぐねたけれど、結局、それ以上言葉が思いつかずに僕は口ごもった。 小平太も分が悪そうに顔をしかめ、すい、と視線を斜めにくゆらせた。 「失礼します」 少し遠慮がちな、けれども、伸びやかな明るい声が私たちの間で凝固していた沈黙を緩めた。 「洗濯の取り込み、終わりました」 開け放たれた戸口から流れだした空気に、ほ、っと胸を撫でおろして僕は腰を浮かすと、足早に乱太郎の方へ向かった。 「あぁ、ありがとう。悪かったね、一人で取り込みをさせて」 「いいえ。手ぬぐいなんかは、廊下の棚に戻しておきました」 「了解」 「あ、あと、布団も取り込んだんですけど」 扉を開けるためにいったん下ろしたのだろう。 廊下に置かれた布団は丁寧に折りたたまれ長方形の形をしていて。 おくりだされた彼の、その痕跡は布団からは微塵も感じれなくなっていた。 「……ありがとう。今日は、もう下がっていいよ」 「え?」 「あとは僕がやっておくから。ね」 そう言い含めるように言うと、乱太郎は不思議そうな顔をしながらも、「はい」と頷いて。 それから屈んで廊下に置かれていた布団を持ち上げ、僕の方に差し出した。 その手は、やっぱり小さくて丸っこくて柔らで、そして温かかった。 (やっぱり、彼らにはあの冷たい布団は触らせちゃいけない) *** 「小平太」 乱太郎の足音が聞こえなくなったのを確かめてから、僕は布団の中で窄まっている背中に声をかけた。 「これ、新しい掛け布団」 「え?」 意味が分からなかったのだろう、怪訝そうな表情を浮かべた小平太を、僕は無視して掛かっていた布団を剥ぎ取った。 ちょっ、と上がった抗議の声に、僕は乱太郎が持ってきてくれた布団をかぶせる。 その上から、ぐしゃぐしゃと小平太を撫でた。 「もうちょっと、寝なよ」 僕の言葉に、うん、と、くぐもった返事が布団越しに届いた。 「いさっくん」 「ん?」 「これ、日なたの匂いがする」 掌に伝わってくる布団に残された温もりを、僕はゆっくりとかみしめた。 (泣きたくなったのは、きっと、温かいからだ) 悼む人
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