い組の部屋は不気味な程静まり返っていた。
いつもなら隣から届く、文次郎が起きようとする気合いの声が、今日は聞こえない。
それとなく様子を伺ったけれど、沼のようにねっとりとした闇に包まれていて、はっきりとは分からない。

とりあえず体を解そうと、左手で右手首を掴んで、天へと突き放つように手を伸ばす。
脇腹、背中の裏、肩の窪み、二の腕、肘…寝ている間に淀み滞っていたものが流れだして。
隅々までが目覚めていき、体の中が一つ一つ繋がっていくその感覚は、快感に近いものがある。



「遅いなぁ、文次郎」

伸ばした筋肉の均衡を保ちながら、そのまま、左へと上半身を傾けた。
横倒しになった空は左の隅の方が僅かに光に透けて薄くなってきているのが分かる。
まだ地面の底で太陽は深く眠っているだろうけれど、そこから覚醒するのも直だろう。

(夜明け前までに、裏山に行きたいなぁ)

もう一度、い組の長屋の方に顔を向けたけれど、さっきと変わらず静謐の中に沈み込んでいた。
最後に軽く肩を回すと、自分の中にあるスイッチが入ったのが分かった。
すっかりと準備の整った体は、動きだしたくてうずうずしている。



「ま、いっか」

地面を蹴りあげ、裏々山までの道をひた走る-------------------------









(結局、文次郎は来なかったな)

徐々に落としてきた足の運びは、寮長屋の手前で自然と歩くほどの歩幅に代わった。

光が満ちてきた世界は、ゆっくりと闇を薄めていく。
獣のように凝らしていた目を緩めても、はっきりと物が分かるまでに明るくなってきた。
それでも居座ろうと足掻く夜に、学園は水の底に浸かってしまったかのように蒼に染まっている。

下級生の長屋の前を通ると、乳のような甘い寝息が、ふわりふわりと空気に漏れ出ていた。
体の真ん中で送り出された熱は全身を巡り、額から汗が弾け出ているのが分かる。
そのまま部屋に戻ろうかと一瞬迷い、やはり、と井戸の方へ足を向けた。



艶麗な黒髪をひたりひたりと水で滴らせ、見知った顔が井戸の前で佇んでいた。



(あ、)

昏い匂いが穴という穴から入り込み、全身が慄きに逆立った。
仙ちゃん、と出かかった言葉を、唾と一緒に飲み下し、慌てて手で覆ったけれど、間に合わなかった。
喉を貼りついてきた匂いがそのまま胃の腑へと流れ込み、中にあるものをわし掴んで。
そのまま捩じ切られてしまいそうな痛みに、自然と瞼の奥が潤む。
朝食前で何も入ってないはずの腹の底から熱いものがこみ上げ、それを吐き出さないのに必死だった。








***

「食べないのか?」

目を閉じればその残像に喰われてしまいそうで、瞬きですら僅かに掠めていくのが怖い。
囁くような声に顔を上げると、長次が困ったようにわたしを見つめていた。
目の前には冷めた朝食が綺麗なまま置かれている。



「今朝、仙ちゃんを見かけた」
「仙蔵を?」
「まっ白な服で、その上から水を浴びていた」
「……あぁ、」

少し離れた所で文次郎と共に食事をしている仙ちゃんを、そっと目でなぞる。
何か文次郎が変なことを言ったのだろう、鼻で笑っている。
それは何一つとしていつもと変わらぬ光景で。

(今朝方、死の匂いを漂わせていたことなんて、微塵も感じない)



「誰か、死んだね」
「あぁ……」

敵を手に掛けて返り血を浴びることは慣れて厭わなくなってしまった。
馬鹿になってしまった鼻はむせ返る血ですら平静としてられる。
けれど、あれだけは駄目だ。

--------------この世界から剥がれおちていく仲間の匂いは。



「誰か、死んだ」

悼む儀式

いつから、それは続いているのか、わたしは知らない。
どこでどうやって、それが行われているのかも、わたしは知らない。
知っていることといえば、誰かが死んだときに仙ちゃんがそれをしている、ということだけ。



(それから、わたしにはできない、ということだけだ)

悼む人

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