高い位置で結わえていた紐を解くと、頬を絡め取るように髪が落ちてきた。 眼前に鬱陶しく貼りついてくるそれを指で跳ね除けて耳に掛けと、うっすらとした明けの空が視界に飛び込んできた。 もう朝か、と徒労の重みに押しつぶされそうになりながらも、なんとか機械的に足を動かし続け目的の場所まで歩みを進める。



(せめて水だけでも浴びてから戻ろう)

死者の思念などといったものを信じる気は更々ない。
だが、この身に纏わりついて昏い方へと誘おうとするモノがあるのを、感じていた。
その姿で誰かに会うことは躊躇われ、それを振り落とすために、ただ、ひたすらに井戸へと向かった。



井戸の周りは、音を立てることを禁じられたかのように静まり返っていた。

「あぁ」

人ひとり、いや、虫の一匹すらいない状況に、思わず安寧の息が自分から洩れたのが分かった。



幾度、この儀式を越えてきたのだろうか。
作法委員長として、悼んできた数は指の本数では足りないはずだ。
温もりが薄れてしまった人を見ても、もはや取り乱すほどに、私は脆くはなかった。

だが、全てを押し殺して周りに気遣う余裕があるほど、強靭でないことも自分が一番分かっていた。





なんとなしに井戸を覗き込むと、ぽっかりと開いた口の底で黒々とした水面が、ぬめっと光ってた。
自身の顔は見えないほど深いそこは、追いやられた夜に染まっているくらい昏かった。
黄泉という世界があるならば、こんな風景なのだろうか、と心の奥で呟く。

と、自分の肩が井戸を覆う屋根から吊下がっていた滑車の縄に当たったらしく、カーンと甲高い金属音が
井戸の洞に幾重にも重なり、響き渡った。



(下級生が起き出す前に戻らねば)

闇に呑まれそうになる自分を叱咤し、目の前にある素編みされた太い縄を手にし、ぐっ、と力を込めた。
するりするりと降りて行くと、先ほどの硬い残響音が消える頃に桶が水に触れるのが分かった。
棘々しい縄を握る手に重みが落ち込み、井戸の水が浸々と入っていく手ごたえを感じる。
重量が増えなくなったのを見計らって、私はもう一つの荒縄に手をかけ、全体重をそこに押し込んだ。



戻ってきた桶の中の澄んだ水に映り込んだ私は、さっき見た井戸の底のような冥い目をしていた。



「……っ」

桶を振りかざして、そのままの勢いで頭から水を被る。
全身を劈いたそれは足もとに広がり、地面に吸い込まれて黒い染みを作り出した。
私を浸していく水は酷く冷たく、けれど、熱を生み出さなくなった“彼”よりもずっと温かかった。



(私は、幾度、この冷たさを越えてきたのだろうか)

悼む人

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