翌朝、嵐はすっかり過ぎ去っていた。雨戸をあけると、茶色に濁った川面が私を出迎えた。所々に泡立った白や、上から流れてきた何かが他の色を添える。ここら一帯だけでなく、上流の方でも相当雨が降ったのだろう。ごぅごぅと音を轟かせ飛沫をあげながら迸る水流は、穏やかで温厚な普段とはあまりに違う形相で驚きを覚えずにはいられない。 嵐が来るたびに、ここは最期のまちだ、そう強く感じる。 嵐の後の川べりには、色々な物が流れ着く。大小さまざまなそれらが川に流されていく様は、どことなくモノクロの映画を想わせた。風か何かでなぎ倒され抉られたのだろうか、まだ青々とした木の太い枝や、河原に放置されたままであったのだろう捨てられた粗大ゴミ……時には死体も。 それらも、やがてまた、その流れに身を任せ、いつの間にか消えていく。 ---------------------ゆっくり、ゆっくり、呑みこまれていく。 「あ、起きた?」 窓の傍で眼下に広がった世界を眺めながらそんなことを考えていたら、ふいに、耳元で声が弾けた。視線を川から切り離して振り向けば、雷蔵が柔らかな笑みを浮かべながら立っていて。それは昨日の事が夢でも幻でもなかったことを意味していた。 「…おはよう」 一瞬、何て言えばいいのか分からなかった。何年かぶりに紡ぐ言葉に、唇にぎこちなさと温かさを覚える。こざっぱりとした恰好の彼を見て、寝ぐせなんかでボサボサになってないかと、慌てて髪に手櫛を通した。 誰か一人いるだけで、いつもと違う。ここ数年、独りで生きてきた私にとっては、ひどく新鮮で、どうしてだか泣きたくなった。それを誤魔化そうと話題を探して----ふ、と、部屋に柔らかい匂いが漂っているのに気が付いた。コンビニ弁当やインスタントとは違う、温かさが通ったそれ。 「もしかして、ご飯、作ってくれたのか?」 「うん、悪いと思ったけど、台所勝手に借りたよ。一緒に食べない?」 「ありがとう、な」 昨日彼と話した部屋に足を踏み入れれば、テーブルの上には、ほんのりと湯気を上げている味噌汁と目玉焼きがセッティングされていた。 卵焼きに添えられたキュウリとトマトは宝石みたいな輝きを放っている。まるで誕生日とお正月とクリスマスが一気に来たような、そんな、賑やかな食卓。 昨日のままだったキャンドルの残骸をサイドボードに追いやっていれば、雷蔵が柄のそろわない大小二つのマグカップを並べた。 「幽霊も、お腹が空くんだ?」 「みたいだね」 笑いながら、雷蔵は昨日と同じように、ラグの上に座った。その隣にクロがちょこんと陣取って、にゃぁ、と一鳴き。すぐさま「ホント、可愛いね」と雷蔵はクロの首筋を撫でた。どうやら、クロは雷蔵のことが気にいったらしい。そういえば、まだ私の方に一度もすり寄ってきていない。現金なやつめ、と思いながら、私も昨日と同じように、雷蔵と向かい合って座る。 どちらともなく、手を合わせた。 「「いただきます」」 丁寧に手を合わせてから流れるような箸を掴む彼の仕草に、昔は箸を持つのが苦手だったのになぁ、なんて感想を持って、 (あ、れ? 苦手だった、んだよな?) 自然と覚えた感想に、どうしてだか引っ掛かった。僅かに形が違うパズルのピースをはめ込んでしまった時のような、些細な違和。箸を持つのが苦手だった。それは事実だ。小さい時に雷蔵の母親に持ち方について自分が褒められたことはよく覚えている。 (けど、雷蔵はなかなか直らなくて、大人になっても……ん?) 「三郎?」 「ん? どうした?」 「眉間にすごい皺寄せてたけど、口に合わなかった?」 「いや。うまいよ」 心配そうに私を見遣る雷蔵に慌てて首を横に振れば、彼はほっとしたように微笑んだ。 雨戸を開け放った窓からは、温かな日の光が舞い込み部屋を柔らかく照らす。 改めて明るい所で見ると、溌剌とした生命力みたいなものを感じて、彼が幽霊なんて、全然思えない。 「あ、醤油いい?」 「おぉ」 けど、なんとなく、雷蔵に触っちゃいけないような気がして、醤油入れを机の上で滑らせる。 「三郎はかけないの?」 「あぁ。冷蔵庫からマヨネーズ取ってくる」 「マヨネーズなんて邪道だよ」 「結構、合うって」 そんなくだらない会話に笑い、……久しぶりに誰かがいる食卓の風景を、その温かさを、私はかみしめた。 *** 「ありがとな。片付けは私がするよ」 片付けをしようと立ち上がる彼を手で制し、私は重ねたお皿を台所に下げた。 蛇口をひねり、つぅぅと細く水を出すと、跳ね返った水滴が銀色に鈍く光る。 スポンジを水にかざし、洗剤をほんの少しつけて、ぎゅ、っと握った。すぐに泡が生まれて、大きくなり、はみ出た泡が、ぽとり、と零れて、シンクに取り残されていた僅かな水に流され、呑み込まれていく。 -----------------まるで、今朝の川みたいだった。 私は、大きな川が過る町で育った。 ずっと小さい頃、この川の先には、この世の果てがあると思っていた。 流れていく水に、ずいずい、吸い込まれていって。 とぐろを巻いた渦に消えていく。自分も、いつかそこに落ちて、跡形もなく失われるのだと思っていた。 ------------------父さんや母さんが、そうだったように。 洗い物が終わり、きゅ、っと蛇口を閉じる。 ぽとん、と最後の一滴がシンクに落ちて小さく波紋を作り……そして、消えていく。 振り返ると雷蔵は居間のスペースから続く小さな作業場を覗き込んでいた。 傍にきた私に気づくと、彼は指を部屋に向けた。 「これってさ、あのミシン?」 「あぁ」 「ばぁちゃん、よく、これで縫い物してたよなぁ」 「よく覚えてたな」 「あのカタカタって音、好きだったもの。これって、まだ動く?」 「まだ、動くよ」 私はミシンの前の小さな椅子に座った。 あの広い家から持ち出したのは、ミシンとソファ。 じいさんとばあさんを思い出す景色に、必ずその二つはあった。 「現役だなんて、すごいね」 飴色に変色してしまった布張りの足元の台に力を込めると、カタカタ、鳴りだした。 変拍子の歌を歌っているかのようなリズムに合わせて、黒ずんだハンドルが、クルクル、回り、鈍色の針が上下する。布がないせいか抵抗なく進むそれは、子守唄みたいな優しい音を奏でながら空気を縫い進めた。 ----------------あの頃と変わらない、その景色。ただ、変わったのは、その持ち主。 *** 三年前、両親を亡くした自分を引き取ってくれたばあさんが死んで、私はこの古いアパートメントに引っ越した。 あの家は、一人で生きていくには、あまりにも広かったから。 そして、あまりにも思い出があり過ぎた。 後から知った話だけれど、じいさんは良家の息子だったらしい。 色々とあったらしいが、かなりの額をばあさんに遺した。 そして、ばあさんは、それをそっくり私に遺したのだ。 前の家も古くて鄙びていたけれど、このアパートメントは古色蒼然というには、あまりにもおんぼろだった。 けれども、この部屋を見せてもらった瞬間、愛しいという感情を覚えた。 青銅色のドアの取っ手だとか、カラメルのような床だとか、カレンダーの痕の残る壁だとか。 そして、何よりも、窓から見えたその景色に心を奪われた。このアパートメントは、川に面していた。 幼いころから、私にとって、川は恐ろしいものだった。物心付く前に両親を亡くしたというのに、やっぱり、どこかで刷り込まれていたのかもしれない。だから、この部屋の向こうに広がっていた世界が、すごく怖かった。 けれど、それと同じくらい、その光景は私を安心させた。 こんなにも、確かなものは、ないと。 ばあさんが死んだ時、私は悟った。自分が考えているように、渦に落ちることはないけれど。 けれど、人々は終焉に向かって流れていくのだ、ということを。 そうして、ゆっくり、流れに呑みこまれて、何事もなかったかの過ぎていくことを。これほどに、決まりきったことはないのだと、安心した。 私は新しい住処でオートクチュールの仕事を始めた。 足踏みミシンとソファは、以前からそこにあったように、当たり前のように部屋に溶け込んでいた。 陽が部屋を暖める頃にカタカタと音を立て始め、部屋が薄暗く冷え込んでくる頃にその音を止め、濃い闇の中でソファに体を沈め眠る生活を送った。 毎日毎日、眼前を流れていく川も様々な表情を見せた。 春には薄紅の切片を浮かべ。 夏には匂い立つような緑が密生し。 秋には紅の葉がしがらみを作り。 冬は生気のない茶が空隙に斑に抜いた。 晴れの日は碧玉のような色合いで、穏やかに誘い。 嵐の日には黒曜石のような、深淵へと突き落とした。 嬉しいことがあった日は輝く水面に心を躍らせ、 何かを失った日は、鈍色の静まり返った。 常に、何かを呑みこみ、そして何事もなかったかのように川は流れていった。 春も夏も秋も冬も、晴れた日の朝も、雨の日の夜も。 私が喜ぼうが怒ろうが悲しもうが楽しもうが、 川は関係なく、ただただ、何かを呑みこみ、そして流れていくのだ。 それは、決まりきったことなのだ、と本能に刻み込まれているように、その考えから離れることはなかった。 けれど、雷蔵は無縁だと、心のどこかでは思っていた。 暗澹とした冷たく真っ黒なそこと、彼とは正反対のイメージだったから。 真夏の太陽を跳ね返す川面みたいに、キラキラと溌剌とした命の輝きが体から溢れ出ていたから。 ------------けれど、そんな雷蔵も、もうこの世にいない。 決まりきったことなのに、分かっていたはずなのに、それでも、胸がかさかさして、鼻の奥がツンとした。 (あぁ、あの雷蔵でも抗うことができないんだな) 「どうしたの、三郎?」 「ん……なんでもない」 私を覗き込む雷蔵の目は、今日の空みたいに、どこまでも清んでいて。 きらきら、と陽の光が差すたびに、白く柔らかな命の煌きに包まれていて。 雷蔵がこの世にいないなんて、信じれなかった。 白く柔らかなそれと
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