渋皮色のソファに座ると、視界から川が消えた。雷蔵はといえば、私と交代してミシン台に座って、玩具を見つけた子どもみたいに横のハンドルを前に回したり後ろに回したりしてみては、針を上下させていた。

「なぁ、雷蔵。雷蔵が見えてるのは、私だけなのか?」
「多分、そうだと思うんだけど」
「ふーん。なら、他にも幽霊はいるのか?」

ゆっくりと、首を巡らして辺りを見回しても、何もないけれど。 もしかしたら、ずっと、じいさんやばあさんが傍にいたのに、気付かなかったのだろうか。 だとしたら、なんだか申しわけなくて、重たいものが圧し掛かったような気分になる。

「神様が言うには、僕は心残り? ってか、未練があるんだって。だから成仏できないらしいよ」

うーん、と小さく唸った雷蔵は、眼窩に指を押し当て一言一言を紡ぎだすように答えた。

「未練?」
「そう、未練。三郎は、未練ってないの?」
「未練ねぇ」

私の胸奥のモノが、小さく澱み、ちり積もっていた何かが、舞い上がっては沈む。 そして、沈んだそれが、また別の何かを舞い上げる。嵐によってたくさんの水が流れ込んできて、それまで埋もれていたものを掘り起こしてしまった川みたいに、ずっと底に眠らせてきた様々なものが浮かび上がった。 けれど、掠め取る前に、それを沈める。

-------------------私には、いらないものだから。

「……特にないなぁ。今死んでも、構わないかなぁ」
「そうなの?」
「あ、悪ぃ。無神経なこと言って」

彼は、その痛々しげな表情を手で覆った。 「違うんだ」と消え入りそうな、小さな声が届く。 それから、ゆっくりとその被さっていた指を外すと、私の方を見た。

「僕の未練はね、三郎、君だよ」

迷いのない、まっすぐに見つめる瞳が、私を捉えた。

「……雷蔵は、家に帰らなくていいの?」
「三郎は、僕がここにいるの、迷惑?」
「そんなことないよ。……けど」
「けど?」
「雷蔵には家族がいるだろ」

今は会うことのない、彼の「家族」を思い浮かべる。 まるで、テレビドラマにでてくるような、そんな「家族」で。 雷蔵の家は、「家族」というのが、きっぱりとした輪郭で描かれている家だった。

テレビドラマでは主人公には父さんと母さんと兄貴と妹がいた。 父さんってやつは、よく笑ってよく食べてよく飲んで、時々、息子を諭したり、ちょっと娘に疎まれていたりして。 母さんって人はは、何があってもニコニコしていて、みんなの愚痴を聞いてあげて、時々自分も文句を言う。 兄貴は、何か(音楽やスポーツや恋)に夢中になって、でも、妹は大事にしてあげてて。 じいさんやばあさんがいることもあって、どうしてだか、とても温かかった。 本当は、もっと、ドロドロしてるのかもしれないけど、 そんなのも騒動として描かれるくらい、涙がでるぐらい微笑ましいものに映った。

私の「家族」は「じいさん」と「ばあさん」だけで、 そういったテレビドラマとうちとでは違うなぁ、と思っていた。 じいさんが、そして、ばあさんも流れに飲み込まれていって、私は「家族」というものを失った。 けれど、私には「家族」というものが、もしかしたらよく分ってなかったのかもしれない。

ただ、雷蔵が持つ、ぴかぴかとしたまっすぐな優しさは、「家族」の温かさに育てられたものだ、 ということだけは、分かっていた。

じいさんがあの渦に飲み込まれた時、ぽろぽろ、と涙を零してくれた。 棺に納められた、もう目覚めないその冷たい体にすり寄り嗚咽するする雷蔵は、まるで孫のようで。 涙一つなく葬列に訪れる人々にお茶を出していた私が孫だなんて世間の人はどれくらい思っただろうか。

(あぁ、雷蔵は、愛されて育ったんだなぁ)

ごくごく当たり前のことのように泣き続ける彼を見て、そう痛感した。自分と雷蔵がいかに違うかを思い知らされた。愛されている彼への羨ましさや妬ましさが私の中で渦巻き吹きすさび暴れまわり、その嵐が過ぎ去った後に灯ったのは、小さな祈りだった。

------------どうか、雷蔵が、あの渦に落ちませんように。

明け方に残ってしまった星みたいに、とっても小さな灯りで、 また嵐が来たら吹き飛ばされてしまいそうなほど、心細いものだった。 けど、それは確かに私の胸に息づいて、ずっと、私の小さな支えとなっていた。

「うん。けど、いいんだ。三郎の傍にいたいから」

けれど、その祈りも、届かなかった。






***



激しく濁ったままの川面に上流で被害が出てるんじゃないだろうか、と心配半分興味半分でテレビを付ければ、すごい砂嵐だった。金属の板を引っ掻かれたような嫌な音がモノクロの画面に溢れかえっている。時々、ちらちらと色が弾けて、その向こうで番組がやっているのが分かったが、内容までは全く分からなかった。昨日の風雨でアンテナが歪んでしまったのだろうか。仕方なく、玄関の新聞受けを覗けば、いつもならとっくの昔に配達されているはずのそれはなかった。

「ん? 朝刊が来てないな」
「あー。…きっとさ、すごい嵐だったから遅れてるんじゃない?」
「そうか。……何か、情報が得られないって変な感じだな」

突然、世界から切断されたような気がした。普段だって、そんなに周りと繋がっているわけでもない。近所付き合いもないし、自宅で仕事をしているせいか特定の人としか話してない。それよりもテレビや新聞のニュースを通じて外界と関わってる事の方が多かった。それらが持ち合わせる無責任さが、なんというか、楽だった。そう、だから、いつもとそんなに違うわけじゃない。だが、単なる媒体としてしか考えていなかったそれらが使えないとると、急に覚束なくなったような気がした。外に飛び出したくなる衝動に扉に手を掛けた瞬間、

「ねぇ、三郎。覚えてる? 夏休みの台風の時のこと」

背後から雷蔵に話しかけられ、振り上がった脚をそのままその場に下ろした。

「あーすごい風で吹き飛ばされそうになったっけ」
「あの時も、昨日みたいなすごい雨だったよね」

もう随分と昔の事が。たしか、じいさんの初盆で雷蔵一家が来てくれていて。その光るような温かさに馬鹿みたいに込み上げてくるものがあって。どうすればいいのか分からなくなって、ふらふらと外に出てしまった私を雷蔵が追いかけてきて。あの時、頬を濡らしたのは、涙だったのかもしれない。

(けど、それが最後だったんだよな。雷蔵と会ったのは-------あれ?)

まただ。喉に小骨が刺さったような、自分の記憶が何かにつかえたのが分かった。そう、それが最後だったはずだ。ばあさんが死んだ時は、雷蔵の両親は来たけれど、雷蔵自身は、丁度、留学か何かで来れなかったのだから。けれど、どこか違うような気がする。それが最後じゃない、心のどこかで自分が叫んでいた。それがいつの事なのか思い出そうとしたけれど、上手くいかない。あと一歩で掴め捕れそうな気がする一方で、濁流の底に呑みこまれてしまった砂粒を探すみたいに無謀なことのようにも思えた。

「三郎、どうしたの?」
「何か大切なことを忘れてる気がする」
「大切なことって?」

身を乗り出すようにして私を見つめる雷蔵の双眸は川よりもずっと深い色を湛えていた。






***



雷蔵はじいさんのソファで静かに寝入っていた。クロと共に。二晩連続はさすがにどうかと思い「いや、私が使うよ」と粘ったが、彼は「うん、でも、心地よかったからさ」と譲らなかった。ベッドを折半しようにも、雷蔵に触れたら彼は消えてしまうことを考えれば、怖くてできなかった。

(私への未練、って何なのだろう)

沈澱した記憶の層を掘り起こしても、ちっとも見当がつかなかった。初めて会った時から、最後に話した時のことまで。自分の中で、上手く繋がらない。あの砂嵐のテレビみたいだ。ちらちらと、何かが過るのに手を伸ばせばすり抜けていってしまう。雷蔵との事どころか、自分自身の記憶も曖昧になってきた。確かな思い出だ、と思っていても、反芻すればするほど、別の物が上書きされているような気がして、自信があやふやになっていく。

(ばあちゃんが死んで、引っ越して、仕事を始めて、一年前にあいつを飼い始めて----ん?)

また、だ。自分に圧し掛かるものに、釈然としないものを覚える。

(黒猫だからクロ。ネーミングセンスがない、って、誰に言ったんだ?)

昨晩の嵐のように、ざわざわする。思い出さなきゃいけない。強迫的なそれが頭を締め付ける。一つ一つの枝葉を辿るように、数えるほどしかない知人とのやりとりを浮かべてみるけれど、どれもある地点を境にすっぽりと抜け落ちていた。

(一年前から思い出せない? 何でだ?)

「ん」

不意に届いた彼の寝言に、思考が中断された。穏やかな寝息が溶ける淡い闇に浮かぶ彼の背中を、そっと、目でなぞる。昨日と同じように上下するそれ。死んでしまっても、息はするんだろうか。不思議な光景に、どうしても、彼がもうこの世にいないなんて思えなかった。もぞり、と雷蔵が動いた拍子に掛っていた毛布がずり落ちた。薄い肩が露わになり、寒そうに小さく震えた。まだ春までは遠い。風邪をひくといけない、とそっと足を忍ばせて彼に近づいて、あと数十センチというところで、動けなくなった。じわりじわりと浸透してくる床の冷たさ。にゃぁ、と彼を守るようにしてクロが鳴いた。

(直接触らなければ、大丈夫だろうか? けど、もし間違えて触ってしまったら)

雷蔵が、いなくなる。ここから遥か彼方にあるそこに流れ着き渦に絡め取られて、誰も知らない所へ消えていく。その想像はあまりに淋しかった。当たり前のことだ、これほどに決まり切ったことなどないと、ずっと思って生きてきたのに。そして、もう雷蔵は川の果てに流されていっているというのに。なのに、雷蔵を失う、その想像をしただけで、胸が捩じ切れそうな痛みに襲われた。

「三郎、ごめんね」

心臓が跳ねた。眠っている雷蔵の唇が紡がれた言葉。きつく結ばれた眦がひそりと濡れていた。



思いだせないのは一年前