※ノルウェイの森にインスピ



ハチに出会ったのは、その冬、最後の雪が降った日のことだった。-------恋人の通夜、だった。

「寒い……」

息を吐くたび、冷たさが胸に突き刺さる。儚い白はまだ夢を見ているようで、俺は現実を見るために足下を見遣った。-----------もう、いない、のだ、と。ぐ、っと力を入れれば、ざくっ、っと、霜めいた土が砕ける。真新しい黒の革靴に少し泥が付いてしまった。その横をいくつもの黒が通り抜けていく。通夜が始まるまで寒さに蹈鞴を踏んでいた足は、焼香が終わるや否や、そのまま帰路へと向かっていく。頭上の上で細々と飛び交う会話は故人を偲ぶものではなく、寒さを嘆くものばかりだった。

(まぁ、まさか雪が降るなんて、な)

他の参列者の気持ちが分からなくもなかった。もう3月にもなろうか、という日なのに雪が舞っていた。しかも春に見られる柔らかな淡雪ではなく、細やかな粉雪で。もしかしたら積もるかもしれない、と心づもりするくらい、降っていた。人々の喪服は雪の白でまだらに染まって見える。

(……こんな大雪の日に死ぬなんて、最後の最期まで、自分勝手だよな)

自由気ままで奔放で、他人のことなんて考えることのなかった彼のことだ。葬儀の天気なんて考えてるはずもない。そうと分かっていても、今回ばかりは笑えずにいた。何気なく考えた、『最期』という言葉が胸を引きつらせる。けど、やはり実感はなかった。もう会えない、だなんて。

(それにしても……どうするかな)

僅かばかりの参列者では、あっという間に焼香を終わってしまって、坊主の読経が半ばに差し掛かる頃には人気はほとんどなかった。他の人に交じって早めに焼香を終えた俺は、痺れた足で軒先に立ち尽くしていた。屋内に残っているのは親族ばかりで、いくら俺が彼の『恋人だった』からといって、この場に居続けるのは憚れた。

(これで俺が女だったら違うのかもしれない、けど)

故人の恋人として、この場で共に哀しむことを許されたかもしれない。けど、どう足掻いても俺は男で、残念ながら俺と彼との恋愛は偏見に晒されやすい形であることは自認していた。ましてや、通夜や葬式が自宅で行われるような田舎だ。その傾向は顕著だろう。彼は俺と付き合っていることを家族に公言していた。けれど、それと俺が家族に受けいられているかとなると、また話は別だった。他の人たちのようにこのまま踵を返してしまおう、そう思うのに。------------------なのに、なかなか動けずにいた。地面に縛られた影を消していく雪。内輪に入れず、かといって立ち去ることもできず、凍り付いたように俺はその場で通夜が終わるのを待っていた。

(本当に自分勝手だ……俺を置いて独りで逝くなんて)

結局、俺は動けぬ感情を腹いせに変え、恨みつらみを胸中で吐き出し続けるしか術がなかった。本当は、ずっと言いたい言葉があった。聞きたいことがあった。けど、切れた唇は痛くて、荒んだ風の冷たさにひりひりと滲みて、口を開けることさえできなくて--------------本当に言いたいことは、聞きたいことは言葉にならなかった。

(何で、だなんて)

***

そうこうしているうちに、そろそろ読経が終わろうかという雰囲気が漂いだした。と、つむじ風が式場を吹き抜けた。ちらちらと頼りなく宙を舞っていた雪が、吹き飛ばされる。巻き上げられた雪片が地面にようやく着したときに、唸り声が世界を切り裂いた。まるで獣の雄叫びのようだった。その人は、おいおい、涙を流していた。人目もはばからず、まるで世界に見捨てられたような勢いで。止めどなく流れ続ける涙に、あの人の愛人だ、と本気で思ったくらい、彼の哀しみは深かった。------------それが、ハチだった。



***

二度目にハチに会ったのは、やっぱり恋人の(あぁ、もう『元』になってしまったけれど)初七日だった。ぼそり、ぼそり。這いずり回る言葉は、故人を乏しめるものばかりで。憐憫のない、好奇の視線に晒される。彼が唯一俺たちに理解があったあの人の姉から「是非来てやって」と誘われたから参加したものの、あまりの居心地に悪さに自然とため息が零れ、来なければよかったかな、なんて、ぼんやり考えた。慣れない礼服に、気を使ってしなければいけないお酌。それくらいは、別にたいしたことじゃなかった。俺のことで彼が悪く言われるのが、きつかった。お酒が入ってこれば、皆、態度はでかくなり、気が付けばただの飲み会と化していた。自分以外に、誰一人として、あの人を偲ぶ者がいないことに愕然とし、「ちょっとお手洗いに」とその場を抜け出した。

(俺以外に哀しむやつなんて、いないんだろうか)

もちろん用が足したい訳じゃなく、けれども居る場所もなくて、俺は離れの彼の部屋へと足を踏み入れていた。前に何度か来たことがあるそこは、あまり変わってないように思える。主を失った部屋は寒かった。床にはカーペットが敷いてあるけれど、冷たさがそのまま足裏から昇ってきて、俺は部屋の隅にある学習机の椅子に座った。幼い頃から使っていたのだろう、名前ペンか何かの落書きが消えずに残っているそれ。その横の棚に置いてある彼が大切にしていた蓄音機とのアンバランスさに、ちょっとだけ笑えた。そうして笑える自分にびっくりした。

(俺も人のこと、言えない、な……)

一週間、だ。彼が俺の傍からいなくなって。実感はなく、けれども、片身がえぐり取られたかのような痛みがあったはずなのに、気が付けばその感覚すら薄らいでいって。俺は普通に寝てるし腹も減るし、こうやって笑ってしまう。たった一週間でこうなのだ。---------------このまま、一ヶ月、二ヶ月……一年経ったら、もう彼のことは遠い日々になってしまうんじゃないだろうか。

(忘れてしまうんじゃないだろうか……)

そう思ったら、酷く胸が軋んだ。どうしようもない息苦しさ。罪悪の念に駆られる。

「ごめん……」

本当なら遺影や墓に眠る彼に言うべき言葉なのかもしれない。せめて、彼の写真とかに。けれども、俺の手元には、彼と写った写真も写メールも何もなかった。俺がそれを望まなかったから。気恥ずかしかった、ってのもあるけれど、何より、記録する必要性なんて感じてなかったのだ。思い出は、この胸に。俺たちの関係はこれからもずっと続くだろうから、一緒にいる限り、必要ない、と。そう信じていたから。彼が逝ったと知ったときまで。

(ならば、せめてこれに誓おう)

彼が愛した音楽に。------------ノルウェイの森、に。色々なレコードを掛けては俺に聞かせてくれた彼が、他のどんな曲よりも愛していたのがこの曲だった。理由を聞いたことは、ない。ただ、彼は暇があれば、この曲のメロディを口ずさんだり口笛を吹いていた。棚に立てかけてあった一枚のレコードを蓄音機に収め、手を胸に当てる。針をセットする前に、俺は誓いの言葉を口にした。

「もう二度と誰かを好きになったりしないから」

誰に聞かせるわけでもない、自分のための誓い。誓い、というよりも、もしかしたら現実に近いのかもしれない。誰かを好きになるなんて、考えようがなかった。口にしてみれば、妙にしっくりときて。これで安泰だ、と針をレコードに落とそうとした瞬間、

「それは、ちょっと、もったいねぇんじゃねぇ?」

背後から突然の声に、指先が驚き固まってしまった。振りかえれば、あの人だった。----------通夜の日に、全身で哭いていた人、だ。

***

「……お前の話を聞いたことがある、あいつから」

ハチと名乗った彼は眦に皴を浮かべて受け入れてくれた。それは値踏みをするのとは違う、同じ気配を感じ取った安堵のある視線。荒れ狂った吹雪を避ける雪濠の中にいるように、脳裏で飛び交う恋人に対する罵詈雑言から俺たちは耳を塞いでいた。しん、とした哀しみが、俺と彼の間に横たわっていた。

「俺、あいつが好きだったんだ」

その告白を聞いても、あぁ、と妙に納得してしまった。きっと、それは事実だったのだろう。そして、あの人もきっと彼の事が好きだったのだ。よく考えれば自分は裏切られていたわけなのだけど、少しも怒りは沸いてこなかった。俺の凝視を勘違いしてか、「あ、いや、」と彼は手を勢いよく振って弁明した。でも、どっちでもよかった。友情でも、愛情でも。------あの人を好き、と思う人が自分以外にいた。ただ、それだけが、ぴかり、と胸の中に輝いた。



***

3度目に会ったのは、四十九日だった。相変わらず親戚たちの口から零れてくるのは蔑む言葉ばかりで。たとえば「ま、自業自得だよなぁ」と誰かが話せば「けど、借金は、どうなるんだ?」と応じるといったようだった。耳汚い言葉が頭上を通り過ぎていくのを目を伏せながら耐えた。どんな男であっても、愛した男なのだ。自分と絡めて話しかけられてきた時には、軋む胸を誤魔化しながら愛想笑いを浮かべた。それが大人なのだと、知ってるから。ゆっくりと錆びつかせていく痛みに慣れてきた頃、ようやく穢れを払う時間が終わりを告げた。三々五々と散っていくあの人の親戚らを入口の門の所で見遣っていると、ふ、と隣に影が落ちた。

「なぁ、この後、暇?」
「暇だけど」
「なら、俺とちょっと付き合ってくれないか?」
「いいけど、どこに?」
「呑もう。ぱーとさ」

***

彼は、自分の知らないあの人の話をたくさんしてくれた。自分は、彼の知らないあの人の話をたくさんした。あの人との出会い、思い出、好きなものの話から性癖や秘密までも暴露し合って、二人で爆笑した。声を立てて笑うことに罪悪感を感じないなんて、いつ以来だったろうか。そこは聖域みたいに、キラキラしていて、綺麗だった。鍵をかけてしまいこむにはもったいない、とわかった。それから、鼻をスンスン鳴らしながら、二人で罵った。先に逝ってしまったあの人を。それでも、一番言いたい言葉は、口にできなかった。

(……何で、だなんて)

割り勘な、と支払って店の外に出ると、街の喧騒が闇夜に響き渡っていて、なんだか賑やかだった。自分たちはかなり酔っ払っていた。世界がふわふわ、優しいピンクに包まれるくらいに。羽が生えたみたいに、足元から浮かび上がる陽気さで。ケタケタ笑いながら、当てもなく道を歩いた。

「どっかに、いくのか?」

ハチの言葉は唐突で。あまりに唐突で。嘘を吐くのを忘れていた。

「あぁ」
「どこへ?」
「……わからない」

少しだけ時間がかかったが、今度は嘘をちゃんと吐けた。分からないなんて、嘘だった。ずっと、考えていたことだった。あの人がいなくなった日から、ずっと。あの人がいない世界なんて、意味がない、と。行くとしたら、あの人と同じ所だ、と。-----------行くのじゃない、逝くのだ、と。

「寝ないか?」

ハチは真っ直ぐに俺を見ていた。初めて出会った瞬間から、恐らくはお互いが望んでいたことだった。触ってほしい、熱を刻んでほしい、あの人の記憶を塗り替えてほしい。焦れるほどにそう願っていた。けれど、まさか、このタイミングでくるとは思ってもいなかった。

「……考えとく」
「おぅ、考えといて。考えないで、決定するのは、ナシだからな」

ハチの言葉に、知った。自分が希っていることにハチは気付いているのだと。「あの人の傍にいきたい」という昏い死の淵をのぞきこんでいることを。逝こうとしていることを。だから、今、彼は言ってきたのだ。「寝ないか?」と。

「分かった。ちゃんと考える」
「あぁ、そうしてくれ。連絡、待ってる」

そう言ってるのに、俺が考えるのを待つと言っているのに、ハチはなぜか俺の方に手を差しだしていた。お別れの握手じゃない、ってことくらい、分かっていた。瞼をゆっくりと閉じると、穏やかな闇の向こうであの人が笑っているような気がして-------------そうして、俺は目を開けるとハチの手を取り、彼の温もりに指を絡めた。くべられた火。あの誓いが、ノルウェイの森が、燃えていくのを俺は感じ取っていた。





10年後か5年前に会いたかった

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