※ノルウェイの森にインスピ



「だれ、こいつ」

さっきまでの柔らかなメロディは、俺と目が合ったとたんに硬化した。俺たちが部屋に入っていったその前からずっとかき鳴らしたギターを弾く彼の手が止まる。その動きが急すぎたせいか、止まらなかった音の残韻が空気を震わせていた。鋭い眼差しは俺の喉を突き刺し、穴を開けてしまったようで、ひぅ、と乾いた息しか出てこない。なんと言えばいいのか分からず、咄嗟に隣にいた兵助に、目だけで助けを求めた。

「ハチだよ。……ハチ、こっちは友人の三郎」

目の前にいる男には『友人』と肩書きを付けたってのに、俺の紹介は何もなかった。俺と兵助とは、つまりはそういう関係なんだろう。名前を付けれない関係。友人じゃねぇ。体を重ねてしまったから。けど、恋人でもねぇ。それは戯れの、傷を舐め合うような夜だったのだから。---------------------------死んでしまった兵助の恋人が俺のダチ、ただそれだけだった。

(俺が一方的に、惚れているだけ、で)

目の前の男は興味なさそうに「ふーん」とだけ呟くと、視線を俺からギターに移した。呼吸が戻る。指で空気を編むようにして三郎は曲の続きを奏で出した。聞いたことがあるそれは、ベッドの中から愛と平和を訴えた著名なミュージシャンの代表作だった。祈りに似たメロディが俺に迫ってくる。ぼんやりと聞き入っていると手招きをされた。

「ハチ、こっち」

部屋の隅にあるソファではなく床のラグに俺たちは腰を据え、背中をソファの足元に凭れかけさせた。掌ひとつ分の距離が俺たちの間に存在していた。俺たちなど最初から存在しなかったかのように、ローテーブルを挟んだ反対側で三郎はギターを鳴らし続ける。兵助はきつく両の腕で膝を抱えたまま、じっと三郎を眺めていた。昏い目で。十数センチの距離にいるってのに、その空隙を埋めることはできなかった。怖かった。

(触れたら、壊れちまいそうだ)

窓の向こうは色を亡くした雲がじっと息を潜めて空に貼り付いていた。そこを切り抜くような木立はシルエットのように黒い。俺が気付かぬまま、いつの間にか始まってしまった冬は、あいつがいなくなった季節がひと巡りしてきたのだと俺に突きつけていた。

「いつもの、弾いて」

曲が終わりかけ、最後の一音が空気に残っているその時に、兵助が口を開いた。昏い眼差しのまま。音の余韻にかき消されそうなくらいか細い声で。けれど、ちゃんと聞こえたのだろう。兵助の頼みに、三郎は目だけで頷いた気がした。兵助は弦を調整しだした三郎から俺の方に視線を遣った。無理に笑おうとしてるのだろう、唇が引きつっていた。けれど、自分でも笑うことができないと分かったのか、彼は視線を床に落とした。

「この曲を聞くとさ、いつも泣いてしまうんだ……すごく好きな曲なのにな」

ぽつ、と呟く兵助の言葉に重なるギターの音色は、空気を軋ませる。聞いたことのあるメロディ。タイトルは知らない。ただ、あいつが------------------死んでしまった兵助の恋人が、俺のダチが、時々、口ずさんでいた曲。きっと兵助もあいつの口から聞いたことのある、思い出の曲なのだろう。

「けど、今日は泣かなくても、よさそうだ」

それまで頑なに膝の前で組まれていた兵助の腕がほどけた。彼は俺の方を向いてはなかった。ただ、昏い目で三郎のギターを、いや、きっともっとずっと遠く深いところを見ているのだろう。--------------あいつとの過去、を。それなのに、

「ハチがいるから」

俺の手の甲に触れてきた兵助の指は痛いほどに冷たかった。

***

泣かないと言っていたのに、結局、兵助は泣き疲れて眠ってしまった。--------それが、今の兵助の気持ちなんだろう、そう分かって。兵助が泣いている間、俺は何も言うことができなかった。何もすることができなかった。----------------------せっかく、兵助の方から俺に触れてきてくれたっつうのに。気が付けば、俺と兵助の距離は、また掌ひとつ分に戻っていた。けれど、さっき感じた距離よりも、もっと、ずっと遠い気がした。

(どうしたって、死んだ奴には敵わねぇし……)

氷のように白く透いた頬に残された涙の痕を拭くことすら、俺にはできなかった。



***

兵助に出会ったのは、ひとつ前の冬、最後の雪が降った日のことだった。----------あいつの、俺のダチの通夜、だった。突然の訃報に俺は驚き、そして理解に苦しんだ。自ら逝くことを望んだ、だなんて、どうしたって信じれなかった。確かにあいつはどうしようもない奴だった。確かに自由気ままな所はあって、周りは昔から振り回されて、ムカついたことはしょっちゅうあるし、「勝手にしろ」って思うこともあった。

(けど、人を哀しませるようなことは絶対にしねぇ)

自分勝手な部分はあっても、決して、それで人を傷つけたりするような奴じゃねぇ。いつだって、へらへら笑ってて、人をおちょくるのに生きがいを感じてるような、死んだって死なないような、そんな奴だったのだ。なのに、まさか……そういう気持ちで覗きこんだ棺の中には、奴が眠っていた。本当に眠ってるようだった。

(馬鹿みたいに穏やかな顔をしてやがって)

そう思ったら駄目だった。一気に押し寄せてきた感情は慟哭にしかならなかった。--------泣いて、泣いて、哭いて----------------そうして、ふ、と顔を上げた先に、家の外に見つけた。俺と同じように哭いている奴を。そいつは涙一滴も流してなかった。ただただ、降りしきる粉雪を見ているだけだった。けど、分かった。俺と同じように哀しんでいるのだと。---------それが兵助だった。



***

二度目に会ったのは、奴の初七日だった。昔からの交友があった俺は招待されたものの、その場に満ちるのはあいつに対する蔑みの言ばかりだった。昔なら、きっと、キレてた。けど、俺が怒り狂った所で、あいつの評が変わるわけじゃねぇ。拳を握りしめ、掌に爪を立てて。大人になって得意になった愛想笑いをひたすらに創り上げていた。そんな自分に空しさが募り、嫌になって、一足先にふけてしまおうか、そう考えていた俺の頭を、一つの声が通り過ぎた。

「ちょっとお手洗いに」

少し離れた末席。ひそと翳っていたその喪服姿に見覚えがあった。通夜の日、見かけた彼だった。-------------------彼となら、感情を共有できるんじゃねぇか、って思って。戻ってきたら話しかけてみよう、そう思ったのに、中々帰ってこなくって。心配になって、俺は絡んでくる奴の親戚を適当にあしらって、彼を探しに席を立った。

(もう帰っちまったんだろうか?)

彼が行くと言ったトイレには人の気配はなく、かといって他にどこを探せばいいのか分からず、とりあえず外に出られたらアウトだ、と俺は慌てて玄関に向かう最中に見つけた。無駄に広い家の離れ。渡り廊下で繋がっているそこにぽつねんと灯る部屋の灯り。何回か来た事のある、あいつの部屋。そこを覗けば、予想通り、崩れ去ってしまいそうな背中。

「もう二度と誰かを好きになったりしないから」

言い聞かせるような口調の彼に、ようやく、思い当たった。彼があいつとどんな関係だったのか。何度かダチから恋人らしき人物がいることをほのめかされたことはある。詳しくは聞かなかったが、話の端々から、あいつが誰よりも大切にしていて、誰よりも倖せにしたい人物なんだろう、と感じた。

「それは、ちょっと、もったいねぇんじゃねぇ?」



***

どうしてそんな言葉を言ってしまったのか、今でも分からねぇ。何もできねぇくせに。膝を抱えたまま、俺とは反対の、ソファの脚に体を持たれ掛けさせて眠ってしまった兵助は、ぎゅっと眉を寄せ、苦しそうに唇を歪ませていた。けど、どうしようもなく、俺はその辛そうな顔を見ていることしかできなかった。そう、何もできねぇくせに。

(けど、たぶん、もう一度やり直したとしても、きっと同じことを俺は兵助に言うだろうな)

きぃ、と切とした悲鳴に、は、っと顔を上げれば、そこには、ギターを壁にそのまま立て掛けた三郎がいた。

(何か言われるだろうな)

この僅かな時間だけで、三郎が兵助のことを大切に思っていることは伝わってきた。その愛情の種類が友愛なのか、それとも、俺と同じようなものなのかは分からねぇけども。だからこそ、覚悟した。彼から非難の声が上がるのを。だって、俺は哀しみに溺れている兵助を、俺は何もせずにじっと見ているだけなのだから。

(その方が楽だ)

罵って嘲られた方が。けど、三郎は、俺のことなど眼中にないようで、そのまま、すたすたと部屋から出ていってしまった。もう音楽は流れていないはずなのに、耳にこびりついてしまったメロディが延々とリフレインしている。あいつが好きだった曲。まるで呪縛のようだ。-------------深い深い森に迷い込んでいくみたいで------------俺は、その場から逃げ出そうとした。

(俺じゃ、駄目なんだ)

だが、行き着いた部屋の扉の前で、三郎と鉢合わせをしてしまった。その手にはブランケットがあった。彼は逃げようとしている俺を咎めることなく、そのまま眼前を横切っていった。俺の脚は凍りついてその場から動けなかった。ただただ、兵助にそっとそのブランケットを掛ける三郎を見ることだけが、俺のできる全てだった。その自然な動作に、きっと、何度もこの部屋でそういうことが繰り返されたんだろう。

「どこ行くんだ」

ぼんやりと見つめていれば、さっきの歌声よりもやや低い声が部屋に落ちた。俺に話しかけられた、と気付いたのは、三郎が俺の方を真っすぐに見ていたからだ。兵助の傍らに寄りそう三郎に「帰るよ」と告げ、その時、初めて気が付いた。この部屋に来て初めて会話を交わしたのだ、と。彼は厳しい表情を浮かべ「何で」と問うてきた。答えようによっては射殺されるような眼差しに、俺は正直に答えた。

「何でって邪魔だろ、俺がいると」
「何を勘違いしてるのか知らねぇけど、兵助も言っただろ。私たちは単なる友人だ、って」
「そうか?」

それだけじゃねぇ気がして、そう訊ねれば、彼は鼻で笑った。

「少なくとも私と兵助はキスもセックスもしたことはないさ」

赤裸々な言いように続いて、彼は俺に「まぁ、兵助の言葉を信じるも信じねぇのはお前の勝手だけどな」と痛い言葉を投げつけてきた。別に兵助のことを信じてないわけじゃねぇ。けど、どうしたって、さっきの雰囲気は単なる友人が造りだせるようなものじゃなかった。そう言いたくて、けど、どう言えばいいのか分からなくて口ごもってると、三郎の方が察したのだろう。

「私と兵助は同士なんだ」

そう呟いた三郎は昏い目をしていた。それは、兵助がさっき浮かべていたものと同じものだった。窓の向こう。鈍色の空。そこから落ちる雪は灰のようだった。火葬場で見た、生が隔たれた骨となって帰ってきた時の灰。あいつが死んでから、初めての雪が音もなく降っていた。

「愛する者を亡くした悲しみを癒すことはできない」




10年後か5年前に会いたかった

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