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チリン

鈴の音がどこからか聞こえた気がした。

(ん?)

思わず、足を止め、辺りを見回す。涼しげな音色に風鈴か、と思った。だが、辺りにあるのは鬱屈とした緑ばかりで、風鈴が掛かるような軒先なんぞどこにもない。何となくあの家に居辛くて「ちょっと出かけてくる」と言ったのはいいが、土地勘の無い場所にいつしか自分の所在が分からなくなっていて、気がつけばこの場所に迷い込んでいた。本来ならば射るような日差しも層をなして重なり茂る草葉に遮断されていて、少し薄暗さの残る中、ただらと伸びる道には人っこ一人だっていなかった。意識を澄ませたが、蝉の合唱は止むことはなく、耳が焼けつきそうだ。気のせいか、と思い直し、歩を進めようとした瞬間、

チリン

また聞こえた。背後から、今度は、はっきりと。ばっ、と振り向く。だが、やはり誰もいない。深い緑の雑木林に包まれてあるのは、上方へと伸びる石段を囲うようにして九十九と続く朱い鳥居の格子だった。最後の一つだけが色を抜かれたように白く浮かび上がっている。自分がいる場所を思い返し、薄ら寒くなった。真夏だというのに、半袖のシャツから伸びる腕には鳥肌が立っている。

(気味、わりぃ)

早くこの場を立ち去ろうと踵を返し、鳥居に背を向けた瞬間、

チリン

目の前に少年がいた。さっきまで誰もいなかったはずの、そこに少年が立っていた。痙攣をおこした喉が、ひっ、と吐き出した息を震わせた。それ以上叫び出さなかったのには、我ながら頑張った方だと思う。振り返る瞬間まで誰かがいる気配なんて一つだってなかったはずなのに、人がいた。それだけでも、心臓が止まるかと思ったのに。

------その少年は自分とそっくりな顔立ちをしていた。



***

こんな姿、誰かに見られたら、情けねぇ、なんて笑われっかもしれねぇけど、それどころじゃなかった。もう、どこをどう走ったのか、全く覚えてねぇ。気が付けば、俺は、祖母の家の馬鹿でかい門扉をくぐり抜けていた。この、ど、が付くほどの田舎町に滞在して3日目。ほとんど、道も分からないままだっていうのに、よくたどり着けたものだ。無我夢中で全力疾走したために、見覚えのある黒壁と焦げ茶色の門を越えたところで、へたって座り込んでしまっていた。

「まぁ、すごい汗やねぇ」

足下にできた短い影が色濃さを増した。屈んだままに視線だけを上げれば、案じるような面持ちの祖母が私の方を覗き込んでいた。ほっかむりをした手ぬぐいの白や祖母が持っている籠の中にある野菜の原色が目に痛い。顔を伏せたのは、けれど、そのせいだけじゃなかった。

「走ってきたん? それにしては、ずいぶんと顔色が悪いわねぇ」
「別に」
「別に、って顔色じゃないわよ」

暑さに当てられたのかしら、と目を曇らしたば祖母に、「大丈夫だから」と短く答える。それでもなお、口を募らせようとする祖母に何となく鬱陶しさを感じながらも、振り払うこともできなかった。黙り込んだ私の頭を幼子を扱うみたいに撫でる祖母の掌からは土の匂いがして、とても温かかった。

「そうそう、西瓜が冷やしてあるから、切って来るわ。早ぉ、手ぇ洗っておいで。縁側に持っていくから、そっちから回ってもいいわよ」

(どうして、こんなに優しくしてくれるのだろう、この人は)



***

一時間に一本しかないローカル線の駅からさらに古びたバスに揺られること一時間半。四方八方見渡しても山しかない、超がつくほどのど田舎に、齢14にもなって何も好きこのんで遊びにくるわけない。ここに私が来なくてはならなかったのは、所謂、家庭のじじょーってやつだった。

(ったく、糞親父め)

急遽一ヶ月ほどの海外出張が決まったものの子どもを一人にはしておけない、幸いにも夏休みだから、という理由によって私は父親の母親、つまり私からは祖母にあたる人物が住むこの地に閉じこめられた。それまでだって、家に帰ってきたとしてもほとんど顔を合わせることのない生活を送っていて、実質問題としては何もなかったのに、世間からの目が気になるらしく、有無を言わさず田舎送りにされた。家出とか一瞬、色々考えたが、まだ義務教育を終えてない、ケツの青いガキにはどうしようもでくなくて。己の無力感を引きずりながら、今に至る。

(あー、これから一ヶ月とか退屈すぎる)

本当に何もないのだ。交通事情もそうだがテレビは某国営放送の他に2局ばかり、しかも電波の関係か時々映像が乱れる。携帯もまた然り。コンビニなんて便利なものはないし、唯一の娯楽は持参した携帯ゲーム機器だった。とはいえ、そんなにソフトを持ってきている訳じゃない。

「はぁ」

裏口にある流しの水道の蛇口を大きくひねり、流れ出した水に溜息を洗う。手に触れる水がとても冷たいのは井戸に直結しているからだろうか。さっきまで走ってきたせいか、からからに干されている喉にはその冷涼さが打って付けな気がして。顔を倒して勢いよく下垂し続ける水に口を横付け、そのまま飲むことにした。潤う涼やかさに生き返る心地がして、貪るように喉を鳴らし続ける。

「三郎、準備できたからいらっしゃい」

縁側から呼ぶ声に、ようやく口を離した。



***

しゃくり、かじれば透いた甘みが歯の裏側から広がった。しゃくり、しゃくり。噛む度に繊維が引きちぎれる音が脳と骨との間を舐めるようにして響く。指先から緩慢に垂れ伝わる赤が痒くて、べろりと舐める。絡め取るようなむず痒さが引くことはない。

「もっと、たんとお上がり」

盆いっぱいに盛られた西瓜に「いや、ばあちゃん、多すぎだって」と突っ込むこともできず、かといって期待いっぱいの眼差しに食べないわけにもいかず、両の手に抱え込むようにして食べ続ける。ようやく山が四分の一に減った所で、さすがに腹が水っぽくなり、私は手を止めた。

「あのさ」
「なあに?」
「一郎って、じいちゃんの名前だよな」

少しだけ背を反らせてみれば、ちょうど縁側に面した仏間の欄間に飾られた古びたモノクロの写真が見えた。黒い額縁の中に収められた顔は、若かりし頃の祖父だった。先の大戦で無くなったという祖父とは、一度だって会ったことがない。どんな人物なのかも、全く知らなかった。知っているのは、この写真だけで。

「そうやけど、それがどうしたん?」
「……いや、別に」

私の視線を辿るかのようにして目が遺影に行き着いた祖母は、ふふ、と口を綻ばせた。

「本当に三郎は一郎さんにそっくりね」

祖母の言葉に心臓がぎゅっと縮み、すぐに跳ね上がった。どっ、と血流が壁を叩く音が聞こえたような気がした。黒に縁取られたモノクロの写真は、私にそっくりだった。前にも祖母に言われたことがあるような気がしたけれど、こうやって改めて眺めればまるで自分が死んで奉られているような気にすらなる。

(あの少年は、いったい、誰だったんだろう?)

逃げだそうとした瞬間、あの少年は確かに俺に向かって言ったのだ。「一郎?」と。


***

思い返すだけで不可解な薄ら寒さに背筋を覆われ、それを追い払うかのように再び西瓜にかぶりつく。がつがつと食い進めていると、「おほー! いいもの食べてんじゃん」と賑やかしい声が背の低い垣根を乗り越えて届いた。声のした方を臨めば、髪の毛を芸術的に跳ねさせた少年が立っていた。-------竹谷八左ヱ衛門とずいぶん古風な名前を私はこの地に来た初日に、覚えた。

「あら、はっちゃん。ちょうど良かった、はっちゃんも食べてく?」
「いいんすか? おほー!」

遠慮、なんて言葉、端から知らないというくらいにずかずかと家の敷地内に入ってきたこの竹谷という男は、この家から数軒離れたところに住んでいる、この辺りでは数少ない自分と同世代の男だった。名前の通り八男坊で上には姉が5人、兄が2人。そこに祖父母と父母、でかい犬と猫が3匹の大家族。……なんで、そこまで詳しくなったかっつうと、やたらと人なつこいこの男が、出会った初日にぺらぺらと喋り掛けてきたからだった。

「おー、めっちゃうめぇ。やっぱ、ばあちゃんの作った西瓜は天下一品だよな」
「あらあら、そんなに褒めてもーても、何も出てこんよ」
「俺がお世辞なんて言わないの、ばあちゃんが一番がよく知ってるだろ」
「そうだったわねぇ」

自分を置き去りにしてポンポンと進んでいく会話に、西瓜を囓って聞き流していると、不意にヤツの会話の矛先がこっちに向いた。

「なぁ三郎、この辺りはもう回ったか?」
「……少しだけな」

初対面からさも当然、とばかりに呼び捨てをされても嫌悪とか呆れすら湧かなかったくらい竹谷というヤツは自然と私の心の内にするりと入り込もうとしてくる。NOと答えれば、きっと竹谷は「じゃぁ、俺が案内してやるよ」と言うのが想像に難くなく、「もう見て回った」と答えようと思ったけれど、あまりに自然に尋ねてきたものだからつい本当にことを口にしていた。

「ならさ、俺が案内してやるよ」

想像通りの展開に、すぐさま「いい」と拒否しようと思った。

(もう誰かと深く関わるなんて、まっぴらごめんだ)

冷たい物を一気食いした時のとも違う、黒板を爪で引っ掻いた時のとも違う、軋むような耳鳴り。目、目、目。嘲るような、怖がるような。祟られる、気味が悪い、近づくな。つきまとう過去は亡霊みたいだ。振り払っても振り払っても、決して消えることのない-----------。

「三郎? 大丈夫か?」

途切れていた蝉時雨が、耳をつんざいた。口に運んでいたヤツの西瓜から、ぽたぽたと赤が落ちていく。地面には甘さに惹かれた蟻がいつしか群がっていた。ざ、っと引いていた血の気が戻ってきて、額から嫌な汗を噴出させていた。それを拭いながら「大丈夫だ」と心配そうに覗き込むヤツの視線を交わす。

「ならさ、今から、行こうぜ。この辺、結構、おもしろいところあるし」
表面上のつきあいはともかく、それ以上、深入りされたくない。だから竹谷の提案を撥ね退けるはずだったのだ。だが、私が口を開くよりも先に、祖母が嬉しそうに「いいわねぇ、行ってらっしゃい」と竹谷に返答をしていた。いそいそと立ち上がった竹谷は「じゃぁ、ちょっと母ちゃんに言ってくるな」とこっちが止める暇もなく飛び出していった。



***

「まぁ、こんな所か?」

川魚を釣ることができる清流、岩場から飛び込んで遊ぶ岩ヶ渕、早朝に行けば山ほどクワガタやカブトムシが見えるという雑木林、町で唯一の生活雑貨屋、廃校になった小学校、河童がいるという噂の沼……暑いさなか、ありとあらゆる場所を巡り、体は布一枚みたいにくたくたになっていた。へろへろになっている自分とは違い、竹谷のヤツはまだまだ元気そうだ。昼間よりもぐっと長く伸びつつある影のたもとの足取りは楽しそうに弾んでる。

「何もないっちゃーないけど、実は色々あるんだぜ」

確かに竹谷が案内してくれた場所はどこもかしこも都会では決して経験することのできないようなものだった。田舎の夏休み、という言葉にこれほど相応しい場所を知らない。けれど、それは純粋にそういった夏休みを体験しようと思える人にとってであって、私のように閉じこめられた人間にとっては魅力を感じることはできなかった。

「そろそろ帰るか。もうすぐ暗くなるし、最初からあんまり連れ回しちゃ、ばあちゃんが心配するからな」

焼き殺すかの勢いだった太陽も、いつしか力は衰えて山の向こうへと沈んでいっていた。山際がほんのりと黄緑色に照らされ、その稜線がくっきりと描かれていた。その上方には淡い紫雲が腰を落ち着かせている。まだ明るさが残っているとはいえ、土から昇ってくる微かな冷たさに夜の気配を覚えた。やっと解放される、という安堵に浸っていた私の希望を竹谷は打ち砕いた。

「あっと、あと一カ所、忘れてたな」



***

「ここ……」

竹谷に連れられて来た場所は、あの神社だった。あの時は宮の中までは入らなかったが、ずんずんと鳥居をくぐっていく石段を登っていく竹谷の有り余る体力に辟易したものの、さっきのことを思い出すと、このままこの場所にいるのも嫌で私は彼の背を折った。

(本当に気味が悪いよな)

朱色の鳥居には蚯蚓が張ったような字面の護符のようなものがべたべたと貼られている。苔むす石段にできた蟻の行列を辿れば、その先に落ちているのは蝉の死骸。延々と続くそれに、竹谷に騙くらかされているんじゃないか、と不安になってきた頃、ようやく下から見えた白っぽい鳥居をくぐることができた。

「ここで毎年、夏の終わりに祭りをするんだ」

その最後の鳥居をくぐった私を待ち受けていたのは草場が刈られ土が平らに盛られた空間とその奥に鎮座する社、それからそれを守るがごとく据えられた狐の石像だった。ごくごく一般的なの宮社のように思えたが、たった一つだけ異端だった。----------普通ならば対をなす石の狐が、一匹しかいない。

「この狐」
「あぁ、こいつは雷蔵狐って言うんだ」

目を細めて唇をゆるめ、あたかも飼い犬を可愛がるかのような表情で竹谷が教えてくれた。

「雷蔵狐……」
「そう。この地はさ、昔から狐が人を化かすって伝説があるんだけど、この雷蔵狐は人に化けるのが下手くそで。それでも、人が好きだから、とよく里に下りてきて、ここの人々に愛されていた狐なんだろうな。ここで開かれる夏祭りも、雷蔵狐のためだし」
「一匹だけなんだな」
「あー、そうなんだよな。本当はもう一匹いたらしいんだけど、ほら」

竹谷が指をさした先には台座だけがあった。よくよく目を凝らしてみれば、その石天板は何かが抉られたような痕が残されている。一段下げた声音で「ずいぶん前に何者かに壊されたらしい」と竹谷が呟いた。それからヤツが視線をもう一方の台座の雷蔵狐に移したのを見て私もそっちを見遣った。

「ほら、こいつもさ、赤い布を巻いてるだろ」
「うん」
「その時に、こいつもひびを入れられたんだって。それで、巻いてあるんだ。でさ、さっき言ってた、夏祭りで、この布を年に一回、取り替えるんだよ」

改めて見れば台上に座った雷蔵狐の左前足に雨に打たれて色褪せた赤布が巻かれていた。

(ん? この布どこかで見たような……っ)

はた、と気付いた瞬間、背筋が粟だった。この雷蔵狐と同じような赤布を巻いていたヤツを私は知っている。そいつも、確か左手首に巻いていた。包帯やリストバンドだったら気にも留めなかったかもしれない。けれど、そいつは赤い布を巻いていた。違和感のせいで、よく覚えている。

-------私とそっくりな、私のことを「一郎」と呼んだ少年が頭に浮かび上がった。


残像は消えない


title by ルナリア