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(あいつが狐? って、そんなファンタジーあってたまるかよ)

頭の中でその冗談みたいな考えを打ち消そうとすればするほど、あの時に感じた異端さを思い出す。確かに、あの時、あの場所には自分以外には誰もいなかった。見通しのよい一本道だ、もし誰かがいたなら気付くはず。人間である誰か、ならば。背の髄が撫でられたように、ざわり、と蠢くおぞましさ。その一方で、なぜだか、もう少しだけ雷蔵狐のことが知りたい、そんな気持ちが芽生えた。

(だって、あいつはじいちゃんの事を知ってるような口ぶりだった)

自分と顔も形も------それから、この変な力の事もそっくりなじいちゃんのことを。

「なぁ、その雷蔵狐のこと、もう少し詳しく教えてくれないか?」

そう竹谷の奴に迫れば「どうしたんだよ、急に食らいついてきて? 狐にでもバカされた?」と茶化すように首を傾げられる。それでも馬鹿にされたように聞こえないのは、こいつの持つ天性の明るさかもしれない。というか、そもそも、そんなことに腹を立てるよりも雷蔵狐のことが気になっていた私は「とにかく、何でもいいから」と竹谷を急かした。

「とはいってもなぁ、俺もそれ以上は知らねぇんだよなぁ」

小さい頃に聞いた昔話だからさぁ、と、どこか遠いところを見つめるように視線を投げる。一応、頭を悩ませて必死に思い出そうとしてくれているのだろう、眉をひそめ、頬に利き手を押し当てて顎を掴むようにしていた竹谷が、不意に「あ」と声を上げた。それから、名案が浮かんだ、とでもいうように、両の手を叩き合わせて音を弾けさせる。

「お前の家のばあちゃんなら、もっと詳しいんじゃねぇ?」

そうしようそうしよう、と足を石段の方に向ける竹谷に焦って「なら、いいよ」とシャツを引っ張ってしまった。こっちの勢いに、ぐ、っと襟ぐりで奴の首が締まる。絡まって咳き込まざるを得なかった竹谷が「ちょ、三郎」と怒ったように振り向いた。すぐに「悪い」と謝りつつ、「ばあちゃんに聞くなら、いい」と再度、断りを入れる。

「はぁ? 何で?」
「それよりかさ、この神社に神主とかいないのか?」

そういう人だったらもっと詳しく知ってそうなものだ、と竹谷を誤魔化しながら尋ねれば、奴は「あー、どうだろ。ここの宮社はさ、どっかの神社の末端なんだよなー。正月とか夏祭り前後には神主とかその一家が来るらしいけど」と社の奥に見える庫裏を見遣った。トタン壁が張り付いた屋根は錆びていて、雨露がしのげる程度の外見に、人がとうてい住めるような家屋ではない。

「だからさ、お前んとこのばあちゃんに聞くのが一番手っ取り早いと思うんだけどな」

俺の懸念など一切関知することのない竹谷は夏の空間のようなカラリと眩しい笑みを向けた。多分、竹谷の言うことは正論だろう。歳の功という言葉があるように、年寄りは物知りだし、特にこういった伝承を聞くには一番だ。あの雷蔵狐なのであろう少年が「一郎」と祖父の名前を挙げた理由も、伴侶であった祖母なら分かるかも知れない。

------けれど、どうしても、聞く気にはなれなかった。

(変に深入りして、自分を曝け出すはめになって、それで嫌われたら……)



***

「ここからは分かるだろ」

いくら数軒しか離れていない、と言っても、都会のようなすぐ隣という距離じゃない。間に田んぼや雑木林が挟まれての数軒だ。今しがた自分がいる竹谷の家から、祖母の家の灯りが見えることはなかった。ぽつん、と生えた電信柱から遠慮気味に地面を照らし出している光があるのみで。いつしか訪れた夜闇によって、ほとんどが黒に塗りつぶされている。怖いとは思わないけれど、何というか得体の知れなさは感じる。

「あぁ」
「誘い出したのこっちだし、本当なら送ってくべきなんだろうけど、もう帰らねぇと飯に食いっぱぐれちまうもんでな。俺ん家さ生存競争激しいんだ。悪いな」

すでに夕食の時間が始まってるのだろう、皿や箸がぶつかる音に重なるやたらと賑やかしい声が聞こえてくる竹谷の家は、そこだけが昼間みたいに明るい。ちらりちらりとそちらばかし気にして、そわそわとしている竹谷に「別に。男だから襲われることもねぇし」と断りを入れれば、「変質者はないと思うけどな、狐に化かされるかもよ」と、まださっきの話を引きずってきた。それを流すために、背を向け、じゃぁーな、と竹谷と別れる。後ろから「明日も遊ぼうぜ」と大きな声が届いたが、どう反応すればいいか分からず、振り向かずに歩き続けたまま無言で手だけを振っておいた。

(明日、か)

どんどんと奴の勢いに流されてるな、と心の中で苦笑いが零れた。自分らしくない、と。



***

室外機が吐き出す熱風が温める都会と違い、夜が降りてこれば随分と涼しさを感じる。耳元の髪の毛を撫でるように吹き抜ける風は夏草の濃い緑の匂いが溶けていた。熱を放出しきったアスファルトの上にあった小石にスニーカーを当てる。こつん、カラカラカラ……引きずるような音が闇に消えた。そのまま歩を進めれば、再び、暗がりに溶け込んださっきのと思われる小石が視界に現れ、私はもう一度、足を振りかぶった。何となくそのまま小石を蹴りながら帰路につく。

「あ、」

最後の一打は、勢いづいてそのまま木戸の門扉のある石柱へとぶつかり、割れて跳ね散った。その欠片が転がり、そこで佇んでいた影にぶつかる。客だろうか、と謝罪の声を上げようとした瞬間、息を飲んでいた。-------あの少年が、古めかしい門の前で時を止めていた。

(な、んで……)

木戸の上に設置された蛍光灯がパカパカと翳を彼に刻むのを、まるで夢を外側から観察しているかのような遠い気持ちになって眺める。想定外のことに、どうすればいいのか、一切分からない。それこそ、化け物を見てしまったかのような、そんな畏れが全身をよだたせる。あの少年がいる限り、家の中には入れない。かといって、彼が何を思ってこの場にいるのか分からず、近づけない。じわりじわりと掌を湿らせる汗は昼間のと違い絡みつくように粘っこい。もう少し待ってみるか、と思案の結果に掌をズボンに押し当てて汗を拭き取ろうとした瞬間、不意にあの少年が振り向いた。

(あ、しまった)

重なった視線の靭さに、逃げも隠れもできなかった。私に気付いた彼は、その真っすぐに向けていた眼を緩め、ふわりと笑った。昼間会った時とは違う、優しい面持ちで私の方に近づいてくる。まじまじと私を見つめていた透いた琥珀色の瞳が、ふ、と濁った。

「……あぁ、やっぱり。一郎によく似てるけど、一郎じゃない」

独り言なのか、それとも私に言い聞かせようとしているのか、それは定かじゃなかった。ただ、嘆くような彼の声が淋しさに濡れているのが嫌でも伝わってくる。どう返答すればいいのか、それとも聞こえなかったふりをするのがいいのか、何が正解で、どうすれば目の前の少年が笑ってくれるのか、その術が分からずにいると、少年が私たちを遮断していた沈黙を取り去った。

「お前は一郎じゃないんだろ?」
「あぁ……。一郎は、私の祖父だ」

そふ、と空気を食むような言葉が彼の中でゆっくりと消化されたのか「あぁ、祖父、ね」と噛みしめるように少年は呟いた。もう一度、私の隅から隅までを辿るようにして眺め、それから、ひそと目を伏せた。一定間隔で点滅を繰り返す蛍光灯の白い翳が、彼を深くえぐっては元に戻している。

「もう、そんなに経ってしまったのか」

まるで水の中で呼吸をしてしまったかのような痛みを孕んだ声だった。あまりの冥さにこちらの胸まで軋む。少年を見ていられなくて、自然と私の目線も落ちた。彼の腕に手巻かれた赤い布が目につく。解けかけて、端が垂れさがっているそれは、血の涙のようだった。降り積もっていく沈黙の重さを背負うにはあまりに大きすぎて、息苦しくなった私は顔を上げて吐き出した。

「祖父を知ってるのか?」
「……うん。よく知ってるよ」

頷いた彼は二呼吸分息を溜めると、どこか懐かしむような眼差しを私に向けてそう呟いた。それ以上、彼は何も言わず、ただただ私を見つめていた。自分と同じくらいの年齢の子が、自分の祖父を知っているだなんて、そんな不可思議な話に、その続きをどう切り出せばいいのか分からなくて、自然と唇の上下がくっつく。再び圧し掛かってくる私たちを押し殺しそうなくらいの沈黙の重みを振り払おうと話題の手掛かりを探し、再び、私の意識に留ったのは、今のも解けそうな赤い布だった。

「それ、」
「え?」
「解けてる」

私の視線を辿った先にたるんでいる赤を見つけた彼は、「あ、本当だ」と急いで巻きなおそうと布を手にした。左手だから利き手とは逆だけれど、不器用なのか急いているせいなのか、ちっとも巻きなおすことができずにいて。緩んでいた布を引っ張れば、別の部分がたるみ、そこを直せば今度は別の部分が絡まるといった調子で、なかなか巻きなおすことができない。彼は眉を寄せて「あれ?」とか「ん?」と、頭を悩ませながら布と格闘している。

「貸して」

どんどんとこんがらがっていく様子に、つい、手と口が出ていた。え、と動きを止めた彼の腕を取り、赤い布を手にする。

「これ、全部取っても平気か?」

竹谷の話を思い出して、もし仮に目の前の少年が雷蔵狐だったとしたら、この布はお守り的なものになるのかもしれない、そうだと取っ払うのはマズイ気がして、彼に確認を入れる。すると、彼は「あー」と言葉を濁し考え込むように布を見遣った。

「じゃぁ、取れない様に結び直すから」
「あ、うん」

今の場所では暗くて見えにくいから、とできるだけ門扉の傍まで近づき、蛍光灯の下、結び目やたるんでいる部分を観察し、どこをどうすれば解けずに巻きなおすことができるか思案する。だいたいの道筋が通った所で「ん、大丈夫だと思う」と改めて赤い布を解きにかかった。指先が彼に触れる。温かい。---------本当に、彼は人じゃないんだろうか、そう疑問を覚えるくらい、彼の温もりは自然なものだった。

「ん、できた」

何度か彼の腕から布が完全に抜け落ちそうになる危うい場面もあったけれど、それでも、どうにかこうにか、ぴったりと巻きなおすことができた。彼に馴染んでいる赤の色を見て、ほ、っと安堵している私の手を、温かなものが包み込んだ。彼の手、だった。

「ありがとう」

陽だまりのような温かな笑みを浮かべた彼は私から手を放し、続けた。

「僕は雷蔵。君は?」

(あぁ、やっぱり)

その名前が出ても、私はなんら疑問にも思わなかった。おそらくそうなんだろう、と予感が肯定されただけだった。雷蔵のくるりと期待に満ちた円らな目に流すことも誤魔化すこともできず、そのまま「私は三郎だ」と名乗りを告げる。すると彼は「三郎」と、温めるかのようにゆっくりと私の名を口にした。その柔らかさに、ふわり、と唇だけじゃなく己の心までもが緩んでいる。さっきまで私たちの間にあった空隙がなくなり、急速に距離が縮まっていくのが分かった。

「雷蔵ってさ、あの、雷蔵狐なのか?」

自然と漏れた問いかけに雷蔵は、楽しそうに笑みを零し「どう思う?」と逆に問い返してきた。答えに困ってしまい「どうって……私の祖父を知ってたし、その布巻いてるし。けど、あんまり狐っぽくないっていうか……」と言葉を濁して逃げると、雷蔵は口角をゆるりと上げた。

「じゃぁさ、三郎、明日あの神社に来てよ。そしたら、教えるよ」

それから、一番端以外の指を折り曲げ、小指だけを立てて私の方に差しだしてきた。「約束」と。そこに己の小指を絡めれば、ぎゅ、っと力が掛った。さっきと同じ、温かな温もりが伝わってくる。もう一度、雷蔵が確かめるように囁いた。「約束」と。それにつられるようにして私も「あぁ、約束だ」と告げれば、柔らかい笑みを彼は咲かせた。

「三郎? 帰って来たんー?」

玄関の奥から届いた祖母の呼びかけに、ぱ、っと温もりが離れ散った。祖母に雷蔵の存在を隠した方がいいんじゃないか、と慌てて門扉をくぐり玄関へと急ぐ。中にある土間からは見えないだろうけれど、軒先まで来たら門の所くらいまでは見渡せる。暗闇とはいえ、人影くらいは見止めるだろう。そうなった時に、どう説明すればいいのか分からない。全力で門から続く飛び石を無視して砂利を走って玄関先に着いたのと、祖母が軒下まで出てきたのはほぼ同時だった。

「おかえりなさい」
「あ、……遅くなって、すみませんでした」
「それはいいけど……さっきから声がしてたみたいやったけど、まだはっちゃんと一緒なの? あんまり遅いとはっちゃん家も心配するわよ」

ひょい、と門の方を覗きこもうとした祖母と止める間もなく、私も追うようにして背後を振り向いた。

「あら?」

そこに佇んでいるのは、瞬き一つすらない深い深い闇だけだった。


残像は消えない


title by ルナリア