薄竜胆色の夜の毛布が外されていく青空には、うっすらと曙色の靄がかかっている。柔らかな陽の光に、ゆっくりと目覚めていく街並み。新しい朝が、始まる。そんな景色を眺めながら、「今日こそ、自分から竹谷にあいさつを」と、思う。

(だから我慢、我慢)

少しだけ背伸びして吊革を掴んでいるせいか足が痺れてきて、鞄を吊り下げている手も重みに耐えているのが分かる。今日に限って、普段は使わない問題集やら辞書やらが入っていて、鞄はかなりの重たさになっている。いつもは座って通学しているため、慣れない痛みに体が小さな悲鳴をあげていた。

(ドアの傍の「いつも」の席も空いてるのだから、立たずに座ればいいのだろうけど)

けど、座ってしまうと、いつもの、受け身な俺になってしまいそうで。自分から、「おはよう」って言えなさそうで。なんだか、座れなかった。吊革を掴みながら、ゆっくりと、車内を見渡す。眠そうな顔で携帯を触っているOL達。器用に折りたたんだ新聞を黙読しているサラリーマン達。朝練があるのだろう、大きなスポーツバッグを足元に転がした高校生グループ。いつもと変わり映えのないメンバーなのに、俺が立っている、というだけで、なんだか違う感じがする。

少しずつ増していく腕や足の痺れに限界を感じて、結局、吊革から離れてドアの近くで立つことにした。金属製の取っ手に右手を絡めて、ひんやりとしたドアの窓にもたれかかる。車体の振動が体から直に伝わってきて、刻まれる。プァァ、と甲高い警笛が空気を震わすのと同時に、車輪がレールを刻む振幅が大きくなり、車体が深く揺れた。川に架けられた錆びた鉄橋の一部が眼前を過る。

(知らなかったな、)

きらきらと、光が飛び込んできた。川面が鏡が割れ散ったみたいに輝いていて。その断片に白群色の空にオフホワイトの羊雲が泳いでいるのが映し出される。いつもの、座った高さからは、無骨な錆びついた橋の一部しか見たことがなくて。

(こんな風に川を眺めたことなんか、なかった)

いつもと少しだけ目線が高くなっただけで、こんなにも新鮮に思えた。

***

ぼそぼそと乾いた声で、急行や乗り換えの案内がされる。その駅に近づいていることを告げられ、何人かの人が身じろぎ、荷物をまとめるのが視界に入った。眠りを誘う一定のリズムが緩やかに崩れていき、飛び去るように流れていた景色が、はっきり捉えられるようになる。忘れ物がないように呼びかける声が途絶え、空気が抜ける音続く。流れ出ていく人の向こうに、俺の学校の制服が見えた。いや、目に飛び込んできた。

(竹谷、だ)

入れ違いに入ってくる外の空気と共に、彼が車内に乗り込んできた。

「お、おはよう、竹谷」

声が裏返りそうなのを、なんとか誤魔化しながら、声をかける。返事されなかったらどうしよう、という不安に心臓が痛い。竹谷が俺を見ていた。足を止めて。ぐるぐると嫌な予感だけが頭の中を巡っていて、何とか言葉を押し出した喉がカラカラに乾いていく。ひどく、時間の流れが緩慢だ。

(あ、どうしよう? なんか、変だった、よな)

「はよ、久々知」

少し驚いたような顔で(俺にはそう見えたけど)でも、ちゃんと返事をしてくれた竹谷は、ゆっくりと、俺の傍らに近づいてきた。どの位置に竹谷が立つだろうか、と掴まっていた手摺から少しだけ放したけれど、彼は肩から掛けている、ピカピカとした黒のスポーツバッグを背負いなおして、俺の斜め前の吊革に大きな体躯で軽々と掴まった。

(よかった、返事、してくれた)

「今日は、立ってるんだな」
「あ、あぁ。なんか、いつもと違って、新鮮だった」

へぇ、という竹谷の柔らかい相槌に出発の笛が重なる。す、っと合わさっていく銀色の扉は最後だけゆるやかに留まり、それから膨らんだ空気を挟み込むようにして完全に閉まった。竹谷にこっちからあいさつできた、と浮かれていた俺は、電車が動き出したのに気付くのに、一瞬、遅れて。車輪が大きく軋んで、そのまま進行方向に押し出されそうになる。その圧力に体がついていかなくて、バランスが崩れたまま、つんのめった。

「危ねぇ」
「……あ、……ありがとう、な」

倒れそうになった俺を支えてくれた竹谷を包む学生服からは、さわやかな初夏の風の匂いがした。

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頬が熱いWednesday