不機嫌そうな空は重苦しい雲が立ち込めていて、今にも雨がその雲から垂れ下がってきそうだった。いつもは、陽の明るさに負けてしまってはっきりとしない車内の電気も、今日は目に痛いほど白く、煌々と感じた。その分、車窓に映る自分の輪郭もくっきりと見え、外の景色が霞んで見える。周りは、いつもの曇りの日と変わらない朝のはずだ。俺もいつもと変わらず、3両目の一番前の扉の、端っこに座っている。けれど、いつもと同じ場所に座っているはずの俺が、なんだか、いつもと違う気がした。

(今日も、竹谷は乗ってくるだろうか)

そんなことばかりが頭を支配して、本を読んでいてもちっとも話の筋が頭の中に入ってこない。目は読み進めているのに話が全く頭の中に入ってこず、さっきから同じページを何度も何度も読み返している。せっかく犯人が分かってトリックの場面なのに、と、これ以上読んでも時間の無駄な気がして、少し気分転換しようと、流れゆく車窓へと目を向けた。

(あ、あの看板。もうすぐ、昨日、竹谷が乗ってきた駅だ)

普段なら、気に留めることのないビルの看板がざっと視界を横切った。ぽ、っと浮かび上がった彼の顔は看板が見えなくなっても消えることはない。むしろ、鮮やかに頭の中に居座っていて。気持ちを切り替えるために外を見たはずなのに、余計に落ち着かなくなった。

(何で、こんなにも気にしてるんだ?)

文庫本に若草色の栞を挟んで閉じて、また開けて。もう一度閉じる。しまおうか迷って鞄に触れたとたん、手が当たって自分の右横に立て掛けていた傘が倒れそうになる。自分のすぐ左は手摺なのだから、その銀色のパイプ部分に引っかけておけばいいのだろうけど、一度、電車で傘を忘れて以来、自分の体のすぐ傍のイスの部分にそのまま置くのが習慣だった。今日おろしたばかりの傘が、ベルベット調のイスから滑り落ちるのを慌てて止めるのと車内放送が到着を告げるのとが同時だった。

(乗ってくるだろうか?)

ふしゅぅ、と気が抜けそうな扉が開く音に、視線を集中させる。ダークスーツ、軽やかなプリーツスカート、汚れたスポーツバッグ、エナメルの靴。顔上げて、直接、確かめることができず、ただただ、今座っている目線の高さから、制服を手掛かりに彼を探す。その扉から新しく入ってきた人たちの夏めいてきた装いの中に、自分と同じ色合いのそれを見つけることはできなくて。

(1、2、3、、、、)

心の中で15を数えると発車を告げる笛が鳴り響き、湿気の含んだ外気が車内に閉じ込められた。金属がこすれ合うような鈍い音に続いて、ゆっくりと、動きだす。プラットホームが、右へ右へと流れていく。

(…今日は乗ってこなかった)

なんだ、と安堵を漏らし、もう一度犯人が分かったページから読もうと、鞄の上に乗せたままの文庫本を開けようとした瞬間、

「おはよう、久々知。何が『なんだ』?」

と、車内の白い電灯が遮られ、灰色の影が俺に落ちた。その声に慌てて顔を上げようとして、その拍子に、横に立て掛けてあった傘がまた倒れた。俺が立ち上がるよりも先に、背の高い竹谷は腰を少し曲げて、その長く大きな手で拾ってくれた。

「ほら」
「あ、ありがとう」

俺が傘を受け取ると竹谷は、昨日と同じように俺の右隣に座った。竹谷は持っていたインクブルーの色をした傘を、そのまま彼の体の右横にもたれかけさせた。少しだけ迷って、俺はさっきまで置いていた場所に傘を置くのをやめて、自分の左にあった手摺のパイプ部分にモスグリーンの傘を引っかけた。それから、文庫本を開いたけど、『なんだ』と思わず言ってしまったその時の気持ちとか。さっきまで置いていた場所から、いつもの習慣と違う所に、傘を左に置き換えた理由とか。そんなことを考えていたら、ちっとも読みすすまなかった。

---------俺と竹谷の間にある半人分のスペースが、ちょっと、淋しいとか。なんて。

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落ち着かないTuesday