※「Knockin’on Heaven’s Door」パロ。病の末期の二人の話が強盗やのなんやのするロードムービーなので、そういう描写を含みます。



こんなにも、人が温かいなんて、知らなかった。伸ばした指が柔らかなものに触れる。自分のものとは違う確かな温もりが、じんわりと俺の中に染み込んでくる。独りでいた夜はあんなにも冷たかった闇が、今はこんなにも優しい。三郎が身じろぐ度に、青の匂いがふわふわと揺れた。--------たぶん、ずっと、俺が探していたもの。

(もう離れたくない、離したくない)

俺は隣で静かに寝息を立てている三郎を抱き寄せると青の匂いに抱かれるようにして眠った。


***

「起きろ、勘右右衛門っ」

ホットミルクみたいな甘ったるい微睡みの縁でゆったりと熱情の余韻に浸っていると急に揺さぶられ、俺は唐突に夢から引き戻された。ぼんやりとした思考の中、何一つ纏ってない俺の胸に圧し掛かる三郎を見上げて「朝からもう一回?」と軽口を叩けば、「馬鹿。寝ぼけてたこと言ってないで、さっさと起きろ」と、渾身の一撃をみぞおちに食らった。

「っ、」

声にならない痛みに悶絶していると、「早く、起きろって」と切羽詰まった三郎に腕を引っ張られ、広大なベッドから引きずり下ろされる。その拍子に、脛をベッドの柱に打ち付けて、痺れが脳天に走った。あまりのことに、滲む視界で睨め付けようとした先の三郎はしっかりと固く唇を結んでいて、緊張感が漂っている。俺の口からは文句の代わりに、不安げな声が漏れた。

「三郎?」
「外に、警察が来てる」
「えっ!?」

驚きのあまり、俺は何も着てないままベッドサイドからバルコニーへと走った。後ろから「顔、出すなよ」という三郎の声が追いかけてくる。屈むようにして部屋から付き出しているバルコニーへと歩を進め、隙間からおそるおそる下を覗き込んだ。そこには、確かにパトカーが数台と警官の姿。

「うわ、」
「勘右衛門、」

唐突な展開に頭を抱えながら体を引っ込めると、鋭い声が耳に届いた。その声に振り向けば、「ほら」と何かを三郎に投げつけられた。顔面で受け取ったのをまじまじと見れば、それは自分の下着で。呆気に取られている俺に「ほら、急げ」と叱責が飛んできて、慌ててそれをはいた。昨晩、脱ぐときに適当に辺りに放りだした服をとにかくかき集め、走りながらズボンに足を突っ込む。裾を踏みそうになりながらも、なんとか腰まで引き上げていると、

「最悪、強行突破だからな、勘右衛門」

なんて、恐ろしい言葉が降りかかる。追われる身なんだ、と今更、自覚し、シャツだけかぶって、ベッドの足下でくしゃくしゃになってる私物を引っつかみ、部屋を飛び出した。



***

「階段で下りるぞ」

昨日は使ったエレベーターホールを素通りする三郎に「えぇっ!?」と悲鳴を上げる。自分たちは最上階の部屋だったのだ。一体、何段、くだらなければいけないのか。そう考えるだけで、頭がくらくらする。

「急げ。早くしないと捕まる」

少し先にある非常階段の分厚い鉄の扉を押し開け俺を待っている三郎に「エレベーターは?」と尋ねれば、「んなもん、使ったら、捕まるだろうが」と吐き捨てられた。三郎の細い腕が支える扉との間をすり抜け、駆け下りる。カンカンカンと鋭い金属音が縦長の空間に反響する。どれが自分のか分からないほど足音がたくさん聞こえて、煩い。膝がガクガクと笑っているのが分かる。正直、体がついて行かず「もう無理」立ち止まろうと振り返って、

「三郎っ!?」

今にも崩れ落ちそうな三郎に慌てて駆け寄り、脇の下から体を支える。苦痛に塗れた顔。

(こんな時にっ)

「三郎、薬は? どこ?」

踊り場へと彼の体を横たえ、呻きながら悶絶し今にも意識を手放しそうな三郎の頬を軽く叩いて、耳元で叫ぶ。辛うじて三郎の唇は動いているものの、苦しみに喘ぐ息が喉に引っかかって、声にならない。何とか聞き取ろうと「え? もう一回言って」と耳を彼の口に押しつけるけれど、やはり分からなかった。

「どこだ?」

三郎から聞き出すのを諦め、前に薬が入っていたジャケットのポケットに手を突っ込む。だが、指先に触れたのは、ガラス瓶のような硬質なものではなかった。がさり、と取り出してみれば、見覚えのある紙。どうやら、昨夜書いていた『したいことリスト』のようだった。けど、今は何の役にも立たない。その場に投げ捨て、反対の手も使って、彼の服の隙間という隙間に突っ込む。それこそ手当たり次第。と、ズボンのポケットで、こつん、と硬いものに爪が引っかかった。

「あった!」

最後の一粒に感謝しながら逸る気持ちを抑えながら、なんとか瓶のふたを開け、掌に薬を転がす。飲ませようと、血色が失われて三郎の唇をこじ開けたが、乾ききった口内に阻まれ、手前で貼り付いてしまっているようで。とにかく三郎を助けたい、その一心だけで唇を重ね薬を奥へと押し込む。

(俺を置いていかないでくれ------)

「っ、」

どれくらいそうしていたのか、不意に、俺の胸に振動が響いた。どんどん、と拳を俺に叩きつけている三郎の目には光が戻ってきていて。慌てて、唇を離せば「馬鹿。お前、息、長すぎ。苦しい」とさっきまで死にかけていたくせに、開口一番、文句が飛び出た。すっかりと戻っていた顔色は、さっきよりも、わずかに赤いような気がした。

「感じた?」
「……馬鹿じゃねぇの。そんなこと言ってる場合じゃないだろうが」

眉間に深い皺を寄せた三郎に「そうだった」と思考を切り替える。よく分からないけど、今、自分達は追われているのだ。こんな所で、のんびりと構えている暇はない。立ち上がって再び階段を駆け下りる体勢に入った俺の首は、不意に、もぎ取られるように回された。

「っ」

ぐき、っと首の骨が鳴ったような気がして、首を半回転させた張本人である三郎を睨みつけると、切羽詰まった表情で「勘右衛門、もう一度」と三郎が俺をつついた。意味がわからず、「え?」とだけ返すと、「いいから」という言葉と共に熱の帯びた三郎の唇が俺のそれと重なる。さらに、俺の背中と頭には彼の手が回されて、艶めいた動きをする指先に撫でられる。驚きに、思わず彼の唇からすり抜けた。

「三郎?」
「いいから、もうちょっと俺に覆い被さって。壁側で」

鋭い声音に逆らわない方がよさそうだ、と言われるがままに、彼を壁に押しつけ、俺の下で見えなくなるようにして抱きしめた。それから、また求めてきた唇に応じる。じわじわと熱情に蕩けて白んでいく思考の端っこで、カンカンカン、と階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。

(警察?)

だんだんと近づいてくる気配に背中に聴覚が集中する。バタバタと登ってきた音が、不意に、自分たちの手前で止まった。残響が耳に痛い。ばれてしまうんじゃないか、って緊張が高まって強ばる体。パニックになりかけた俺を引き戻したのは、三郎だった。ぎゅ、っと、不安そうに俺の服を掴む彼に、大丈夫、と抱きしめることで応える。

「おっと……お盛んなことで」
「うらやましいな」
「全くだ。俺たちは公務中だっていうのに」
「っと、そんなこと言ってる場合じゃなかったか」
「あぁ。犯人は、最上階らしい。急げ。取り逃がすな」

背後を通り抜けていく会話。どうやら、俺たちは単に求愛中のカップルとして映ったらしく、関わる気はないらしい。遠ざかる警察官の足音に、ようやく緊張が解ける。ほっと、したのが半分、名残惜しいのが半分、そんな気持ちで三郎の唇を解放する。

「急ぐぞ。今の内に行こう」

警察が探しているのは俺たちだということがはっきりした今、ここで蹈鞴を踏んでいる暇はなかった。彼らが最上階に行き着いて、いなかったと知って戻ってくるまでにこの場から離れなければならない。今度は先に駆け下り出した三郎に続こうとして、踊り場にさっき俺が捨てた紙くずが落ちているのが目に止まった。

(筆跡とか、痕跡とかあったらまずいだろうな)

それを拾いズボンのポケットに突っ込むと、俺は駆け足で地上を目指した。


***

体中が酸素を求めてる。唇から漏れる言葉は言葉にならず、ただただ、掠れたような音だけが俺と三郎との間にあった。あの後、なんとか警察の捜査の目をかいくぐった俺たちは、再び車に飛び乗り、あの場を離れた。走り続けて、ひっきりなしに肩で息をしていたせいか首筋が痛い。

「とりあえず、この街から出ないと」

どんどんと計測メーターは上がっていくのが分かったが、今回は俺も文句を付けなかった。車のシートに背中が押しつけられる感覚に身を任せる。全身が心臓に変わったんじゃないか、ってくらい、激しく打ち付けていた拍動がようやく静まっていき、俺の頭も思考する余裕を取り戻した。

「警察って俺たちを捕まえに来たんだよな?」
「たぶんな」
「にしても、やけに、台数多くないか?」

確かに自分たちはガソリンスタンドでお金を奪ったわけだけれど、治安の悪い地方ではそれほど珍しいことではないことも事実で。しかも、数百キロと離れた警察があれだけの規模で動くには、いささか疑問に思い、それをそのまま零した。すると、三郎がぽつりと言った。

「……それだけじゃないけどな」
「は?」

意味がわからず一音だけで返事をすれば、三郎はバツが悪そうに視線を前に固定したまま、片手をハンドルから外し、フロントパーツ、俺と彼との間にあったボタンを押す。途端に、陽気な音楽とハイテンションなDJの声が静まりかえった車内に響き渡った。ラジオだった。

「どこか、ニュース、してねぇかな」

俺の疑惑の視線には答えず、気まずそうに三郎はボタンを押し続けた。小さな機械音が響き、デジタルの数字がどんどん変わっていく。周波数が合ったのか、再び電子音が聞こえ、忙しく棒が増えたり減ったりしていた数字が静止し、今度は眠たくなるようなクラシックが流れ出した。三郎は「違う」と独り言を呟き、指をボタンに伸ばす。また、チューニングのために変化する数字を、俺は目で追うしかなかった。

「あ、」

同じ動作を繰り返し、そろそろ数が一回りするんじゃないか、って頃に、ようやく硬そうな声がラジオから聞こえてきた。訛りの感じさせない声音に地方局ではないことが分かる。ニュースがどうしたんだろうか、と不思議に思いつつ、久しぶりに外界と繋がったような気がして、そのままなんとなく耳を傾ける。政治情勢、経済、犯罪。淡々と連なっていく出来事は遠い世界のようで、なんとなく聞き流していると、さっきまで俺たちが滞在していた地名がアナウンサーによって読まれた。銀行強盗が押し入ったのか、とのんびりと聞き流していて、

『……銀行の防犯カメラに写っていた男は先日ガソリンスタンドを襲った男と酷似している情報もあり、警察は何らかの関係があると見て男の行方を追っています』

俺は首がもげるような勢いで「三郎!?」と彼を見遣った。ハンドルをしっかりと握っている三郎の横顔は特に表情も変わらず。ただただ、頑なに前を向いていた。聞こえてくるラジオはこの辺りの天気予報に変わっていた。一向に変わらない調子で喋り手が『気圧の谷が……』と悪天候になることを伝えている。けれど、俺にはそんなこと、どうでもよかった。巻き戻しなんかできないけれど、俺の頭の中は繰り返し繰り返し、さっきのニュースが流れていた。

「何か、言いたいことがあるって面だな」

すん、と単調な音声が途切れた。ラジオを切った三郎は前を見たまま、絞り出すように言った。どう切り出せばいいのか分からず、俺は躊躇いに口を噤んだ。エンジンが小刻みに空気を震わせているのだけが、聞こえる。切り分けるようにして、勢いよく流れていく風景。ここ数日、ずっと快晴だった空には曇天が広がっていて、そこから今にも雨がしずり落ちてきそうだった。

「……銀行に押し入ったのか?」

意を決して、ようやく、それだけを尋ねる。間髪入れず、三郎は「あぁ」と答えた。

「お金、奪ったのか?」
「あぁ」
「そのお金でこの服を買ったり、あのホテルで泊まったのか?」

ホテルで畳むこともせずに投げ出していたせいか、それとも握りしめるように引ったくったからかは分からないが、情けないほど皺だらけになってしまった服を見下ろしながら尋ねる。三郎は録音機械のように「あぁ」とそれだけしか答えなかった。

「何で、」

咎めの言葉は、途中までしか言えなかった。頭では理解していたから。旅を続ける、という選択肢を実行するには、お金がいるのだと。三郎が強盗を働かなければ、そのうちにお金が尽きて、数日の内に俺たちは病院という監獄に閉じこめられただろう。そういして、天国の扉が開く瞬間を、ただ独り怯えて待つのだろう、そう、分かっていた。

(けど、)

裏切られた、と心のどこかで自分が叫ぶ。俺が「強盗はいやだ」と訴えたとき、三郎は確かに「分かった」と約束をしてくれた。なのに。その思いがぐるぐると回る。うっすらと目の前に水の幕が張り出して、俺は堪えるように、自分の太股に爪を食い込ませる。ズボンの生地を掴めば、くしゃ、と皺の溝が深まった。まるで、今の自分達みたいに。

「……三郎。俺は、強盗はしたくない、って言った」
「あぁ」
「その時『分かったよ』って言ったよな」
「あぁ」

消え入りそうになる声をなんとか奮い立たせて尋ねる。「それは、嘘だったのか?」と。それまでずっと俺の咎めから逃げるようにして目線を正面に固定していた三郎は、初めて俺の方を向いた。その目は、ひどく、哀しそうだった。

「嘘を吐いたつもりはないさ」
「だったら、どういうことなんだよ」

つい、声を荒げて、なじるような口調になってしまった俺に、三郎が食ってかかってきた。

「お前には関係ないだろ」
「関係ある。海に連れて行ってくれ、と頼んだのは俺だ」
「……勘右衛門は、海、行きたくないのか?」
「行きたいさ」
「だが、行くには金がいる」

三郎に言い募られ、俺は黙り込んでしまった。分かっていた。金は必要だ。けど、強盗はいやだ。誰かを傷つけてしまう可能性もある。三郎の母親に迷惑を掛けてしまうかもしれない。そこまでして海に行きたいのか、そう突きつけられているようだった。言葉を失った俺を見て、三郎は車のスピードを落とした。流れるようにして路肩に車を止める。いつの間にか、別の街まで来ていた。

「もうおしまいにしよう。この旅を」

ぱたり。零れたのは俺の涙ではなく、空の雨だった。

天国に青は在るか