※「Knockin’on Heaven’s Door」パロ。病の末期の二人の話が強盗やのなんやのするロードムービーなので、そういう描写を含みます。



三郎の言葉が、ぐるぐると俺の頭の中を巡っていた。聞き間違いであればいいのに、と思うことができる程に、はっきりと届いたその言葉は、昇華されることもなく俺の中で反響し続けている。三郎は唇を堅く切り結んでいて、少なくともその口から「冗談だ」なんて笑い飛ばす言葉が出ることはないのだろう。車のエンジンが刻む僅かな律動が、やけに耳に吐いた。沈黙を雨が濡らしていく。

「……分かった」

置いてきぼりにされた嗚咽が、ひりひりと、喉を痛めた。引きつった声はアイドリングの音にかき消された。まもなく、三郎の手によってエンジンが切られ、完全なる静けさが車内を覆う。彼は俺に車のキーを預けた。「お前が返してくれ」と。冷たい冷たい手だった。縋りつきたくなる。

「分かった」

けれども、俺の口から出たのは引きとめの言葉ではなく了解のそれだった。俺が受け取ったのを確かめた三郎は、消えそうなほど小さく笑って、それからドアに手を掛けた。入り込む雨の匂いを想像していた俺の耳に柔らかい声が届いた。「勘右衛門」と。ぐ、っと押し出すように添えていた手を止めて、三郎が俺の方を見ていた。

「何?」
「……けど、私はお前に出会えてよかったよ」

俺も、と唇だけで刻む。きっと、神様からの最後のプレゼントだったんだ。この数日は、三郎との旅は。

「なぁ、勘右衛門。私は地獄行きかもしれないな」

唐突な物言いに頭が付いていかず、俺は相槌すら打てなかった。じ、っと三郎が言を継ぐのを待つしかできない。しばらく視線を宙に迷わせていた三郎は「ほら、強盗したからな。罪人は天国に行けないって」と、努めて明るく言い切った。誰のせいでもないのだ、とその目が語っていて、俺には謝罪の言葉も責める言葉も言わせてはくれなかった。柔らかく笑いながら、彼は続ける。

「けれど、もしも私が天国に行けたなら、天国でお前に出会えたなら、その時は、」
「その時は?」
「一緒に、海を見よう」

気が付けば、俺は青の匂いを、ぎゅ、っと抱き寄せていた。耳元でもう一度彼が繰り返す。「海を、見よう」と。俺は返事をするかわりに、腕に込めた力を強めた。三郎の温もりを、この匂いを、忘れないように。天国で出会ったなら、すぐに思い出せるように。そうして、この叶ったかどうか確かめるすべのない約束が果されるように、と祈った。



***

「じゃぁ、行くわ」
「ん……元気で」

自分でも間抜けな挨拶だと思った。これから死にゆく奴に「元気で」だなんて。けれど、「さようなら」と言ってしまったら、これで最後だと分かっているくせに、本当にこれで最後になってしまうような気がして、使いたくなかった。冗談で「また天国で」と付け足すことができるほど、俺は強くなかった。俺の想いが伝わったかどうかは分からないが、三郎は小さく笑い「あぁ、元気でな」と、今度こそ車のドアを開けて降り立った。雨脚はいつの間にか強まっていた。

(あぁ、でも、本当に最後なんだ)

白くけぶる世界に溶けていく、振り返ることのない背中をドアを開けたまま見送る。さっきまでくっきりと漂っていた青の残り香が、雨に覆い隠されていく。刻んだはずの彼の温もりが剥がれ落ちていく。もう会えないのだ、と別れを痛烈に覚悟した瞬間、

「っ、三郎!?」

ぐらり、と揺れた彼の体が、そのまま地面へと叩きつけられた。慌てて飛び出し、三郎の元に駆けつける。苦悶を貼り付けた彼の顔は見たこともないくらい青白かった。雨に打たれたせいだけなんだろうか、と思うぐらい冷たい体を抱きかかえる。このまま死に転がりこんでしまうんじゃないか、という恐怖に負けそうになりながら、懸命に彼を揺り動かす。

「三郎っ、三郎っ……薬は」

ぐっしゃりと濡れそぼって色の変わってしまったジャケットを漁り、指に薬の瓶が触れた瞬間、気付いた。

「くそっ」

あってくれ、と渾身の祈りも空しく、俺が掴んだのは空になった薬瓶だった。念のため、と振ってみても当然音はせず、透明のガラスが雨を弾くだけだった。う、と傍らの三郎が一層辛そうな声を上げる。痛みにのたうちまわる三郎はどんどんと血の気を失っていき、唇は喪服のような色合いへと変わっていく。このままいけば三郎がどうなるのかなんて明白だった。

(くそ、薬さえあれば……)

役立たずな瓶を苛立ちに任せて、その場で投げつける。う、と三郎がまた呻いた。体温は冷たいはずなのに脂汗を滲ませている。薬がなければ他に自分にできることなど何もなくて、それでも、何でもいいから三郎を楽にしてやりたくて。せめて、と額に浮かぶ珠のような汗を拭うためにハンカチを取り出そうと、ポケットに手を突っ込んだ。

(ん?)

ハンカチよりも先にくしゃりと何か紙切れのようなものが手に触れ、思わずそれを引っ張り出して、丸まっていたそれを広げかけた。あぁ昨日のリストか、と途中で止めようとし、それから、は、っと気付いた。そこには俺のとは違う、見慣れない字が綴られていた。--------二人で海を見に行く。その言葉だけが。

(もしかして、三郎の奴)

あのリストは途中からは相手にさせたいことに変わったけれど、最初は自分のしたいことを書いていたはずだ。だとすれば、三郎の望みは、たった一つだったのだ。最初から最後まで、二人で海を見に行く、それだけだったのだ。その考えが過った瞬間、俺は弾けるように立ち上がった。たった一つの可能性に掛けて。

「三郎、待ってて」



***

「薬が欲しいんだ」

右も左も分からない街で辛うじて見つけた薬局の扉を俺は勢いに任せて開け放った。ずぶ濡れで飛び込んできた俺に、白衣を着た店の老人は胡散臭い奴を見るような表情を浮かべている。息を整える間すら惜しく、俺はそのまま老人が構えているカウンターに駆け寄った。一刻も早く三郎の元に薬を持って帰らねば、と焦る俺に対して、老人は悠長に「どんなのですかな? 一口に薬と言っても」と講釈を垂れだそうとした。苛立ちに任せて「これだ」と瓶を握りしめた手をカウンターに叩きつけるように振りおろした。

「これは、医者の許可書がいる薬ですなぁ」

気が遠くなるような時間が経った後、手に取った瓶をぐるぐると眺めまわしていた老人がようやく置いた。

「許可書はないんだ。けど、今すぐ必要なんだ。頼むよっ」
「そんなこと言われましても、これは許可書がないと」
「そんなこと言ってる暇はないんだよ。今、苦しんでいる奴がいるんだ」

頼む、と切羽詰まって頼む俺に、それでもまだうだうだと言いそうな気配がして、俺は最後の手段だ、と考えていたものを老人に突きつけた。一瞬、何が起こったのか分からなかったのだろう、老人は黒目をぎょろりと上に動かし額に向けられたものを見遣った。

「ひっ、」
「悪いけど、本物だから」

顔を引きつらせる老人に、カウンター越しに宛がった銃の安全レバーを俺は下ろした。カチリ、と冷たい音が響く。自分が何をしているのか、なんて分かっていた。人の命が掛っているとはいえ、褒められるような行動ではないと。けれど、そんなこと、今はどうでもよかった。三郎に生きてほしい、ただそれだけが俺を突き動かしている。腹の底から振り絞るような声で俺はもう一度告げた。「この薬が欲しい」と。



***

「……勘右衛門?」
「俺も地獄行きかもしれない」

必死で手に入れた薬を握りしめて三郎の元へと駆け戻り、抱きかかえて彼に薬を含ませた。やがて、あやふやな焦点で見上げて名前を呼んできた胸元の三郎にそう答えれば、俺がそう言った理由は分からなかっただろうけど、彼は泣きそうになりながら笑い、俺の方に手を伸ばしてきた。「ばーか」と。本当に馬鹿だと思う。けれど、生きてほしかったのだ。三郎に。死ぬまでにしたいことのリストに、最初から最後までその言葉を書き連ねた三郎と見たかったのだ。

「見に行こう。海」

------------------生きて、そして、一緒に海を見たかったのだ。



***

ずっと見えていた道が、消えた。隙間なく生えている背の高い草の向こうには、うっすらと雲を被せた空が広がっているだけだ。空と地の境界線に近い低い所を白い鳥が飛んでいる。時々、急下降するのは、その下で餌を取っているからだろうか。

「とうとう来たな、海……」
「あぁ」

砂に覆われていたアスファルトがなくなり、完全に埋もれた所で三郎は車を止めた。この目で海が見れるという高揚感と、この旅が終わってしまうという寂寥感で、胸はいっぱいだった。滲みだす世界に、まだ早い、と自分を叱りつける。旅の終着点は近づいてきているけれど、まだ終わってないのだ。

(まだ、俺たちは生きている)

感傷に呑みこまれる前に外へ出ようと、ドアに手を伸ばした俺を三郎の声が留めた。

「勘右衛門」
「何?」
「お前に言ってなかったことがあるんだ」

捩じっていた体を反転させ三郎の方に向き直れば「そんな、改まって言うことでもないんだが」と彼は少し困ったように眉を寄せた。その表情があまりに可愛くて、もう少しだけ苛めたくなる。からかうように「重大なことなんだろ」と声音を変えれば「違うし」と視線を外へと逸らした。それから、ぽつり、と呟く。

「海、見たことがないんだ」
「うん……なんとなく、そんな気がしていた」

想像していたことに、そう相槌を打てば彼は驚いたように俺の方へと顔を戻した。目を見開いて「マジで? いつから気付いてたんだ?」と焦りに滑るように言い募る。俺が「んー、結構、最初の頃から。確信したのは、あのリストを見た時だけど」と伝えると「うわ、ないわー」と頭を抱えた。道中でリストの紙を返した時も微妙そうな面持ちだったが、それでもバレてないと思っていたのだろうか。その辺りは突っ込まないでおいたが、かなりショックだったんだろう、しばらく三郎は溜息を繰り返した。

「まぁ、いいじゃないか。今から見に行くんだし」

落ち込んでいる三郎が珍しくてもう少し見ていたい気もしたけれど、なにせ、俺たちには時間がない。天国の(もしかしたら地獄かもしれないけど)扉は、すぐそこまで迫ってきているのだ。まだ、どんよりとしている彼を「ほら行こう」とせっついて、僕は車のドアを開けた。途端に、俺を三郎が包み込んだ。正確には、三郎の匂いが。あの青の匂いが。

「あ、」

動きを止めてしまった俺の背後を怪訝そうな声が追い抜いた。「勘右衛門?」と。振り返り「何でもない」と伝え、俺は砂地に降り立った。遠く、耳に寄せて返す響きは、波音だろうか。どこかで海鳥が鳴く声。草原を撫でる風が、青の匂いを引き連れてやってくる。それから、どうしてだか、泣いた時のように咽喉がひりひりと痛んだ。

「勘右衛門」

いつしか、車から出てきた三郎が俺の隣に並んでいた。青の匂いが近くなる。

「聞いてくれるか?」

ゆっくりと絞り出すような声音の彼に俺は「聞かなくても分かる」と返した。海風に巻かれ、波音が一層、近くなる。咽喉を焼く痛みは胸の奥まで降りてきていた。俺を見つめる三郎の目は、うっすらと水の膜を張っていた。俺が感じている潮の味も、きっと、同じ理由だろう。だから、俺は続けた。

「俺も、怖いよ。けれど、三郎、お前がいるから、怖くなんかないさ」
「あぁ、そうだな。私も勘右衛門がいれば怖くない」

三郎はぎこちなく笑った。心からの笑みじゃなかった。それでも、本当の笑顔だった。そうして、俺が差しだした手を三郎は握りしめた。温かい。生きている。俺も、三郎も。温もりを重ねたまま、海へと続く浜道を、天国へと続く扉へと、ゆっくりと歩き出した。

「行こうか」
「あぁ」

------------青の匂いに、三郎の、愛しい人の匂いに包まれながら。

天国に青は在るか