※「Knockin’on Heaven’s Door」パロ。病の末期の二人の話が強盗やのなんやのするロードムービーなので、そういう描写を含みます。



「さてと、そろそろ、寝るとするか」

空き地に車を寄せ、三郎がヘッドライトを切ると、一気に闇が押し寄せた。鍵を回し一日中稼働していたエンジンを止める。酷使されていたせいか最後の方になって聞こえていた疲れ切った音が消え、静寂に草叢から虫の音が届いた。リアシートを倒していると「思ったより暖かいな」と三郎が上着を脱いでフロント部分に投げ置いていた。

「そう? いつもこのぐらいじゃないか?」
「私は寒がりなんだ」
「南で生まれたのか?」

いや、と彼が告げた街の名前は聞いたことがなかった。正直にそのことを告げると、「ここから、もうちょっと先にある街さ」と呟いた。そこに母が住んでいる、と続ける三郎に「会わなくてもいいのか?」と問うと、彼は静かに苦笑いを浮かべた。

「もう、ずっと会ってないからな」
「なら、なおさら会った方がいいんじゃないか?」

俺の言葉に三郎は、す、っと視線を俺から外し、椅子の外側に手を伸ばして、座っている席を傾けた。そのまま、ごろり、と体を横たえて寝ころぶ。俺も中途半端だった体をシートに預けた。それなりに広い車内も寝るには少し窮屈だったが、贅沢は言ってられない。少しでも寝やすいように、体をもぞもぞ動かしていると、さっき言葉を濁した三郎がぽつんと呟いた。その目は、僕から背けたまま。

「もうすぐ死ぬ、って奴が会いに行ったら迷惑だろ」
「そうか? 最後だからこそ一緒にいたいと思うんじゃないか?」

もう独りぼっちになってしまった自分とは違うのだ。自分が三郎の母親だったら、きっと会いたいだろう、そう思い、さらに言い募ろうとした瞬間、それまで横向いていた彼がぐるりと体を俺の方に反転させた。視線が、重なる。

「私が最後に一緒にいたいのは、勘右衛門、お前だよ」

びっくりして、言葉が出なかった。ぱくぱくと口を開けているだけの俺を見て三郎は楽しそうに口元を綻ばせ、それから「おやすみ」と瞼を下ろした。

「あぁ、おやすみ」

この言葉をこんなにも穏やかな気持ちで言えたのは何時ぶりだろうか。死ぬのが怖いなんて当たり前の事なのだ、そう思えて----------俺は、久しぶりに優しい眠りに就いた。瞼に宿る柔らかな闇。子守唄のような自分の鼓動。母の手のような温かな夜を迎えることができるのは、隣にある三郎の温もりがあったからだろう。

(旅の最後に三郎と海を見ることができたら、きっと何も思い残すことはない)

青の、海の匂いに包まれ、静かに眠りの底へと意識を手放した。



***

ふぅぅっ、と獣が唸っているような、言葉を噛み殺した声が聞こえたような気がして、目が覚めた。

「三郎っ!?」

低いうめき声を上げているのは、傍らで寝ていた三郎だった。闇目にも蒼白した顔が苦悶に歪んでいるのが分かる。丸めた背中を引きつらせ、胸のやや左を握りつぶさんばかりに爪で抑え込んでいる。病の症状かなにかだろうけれど、どうすればいいのか分からない。

「三郎、しっかり」

抱いた彼の体躯はぞっとするほど軽く、今にも死の淵に滑りこんでしまいそうなほど冷たい。血の気を引く音が耳の後ろに落ちた。真っ白に遠のきそうになる意識を辛うじて掴んでいるのは、何とかしなければ、という思いだけで。

「待ってて。今すぐ、救急車を呼ぶから」

とにかく他に術が思いつかず、抱えた体を下ろそうとすると、それまで堅く瞑られていた目がうっすらと開いた。訴えかけるようなそれと共に、僅かに空気が揺れるのが分かった。三郎が何か言ったのだ。慌てて見遣った彼の唇から辛うじて吐き出される言葉はあまりに小さく、「え、何て?」と必死に聞き取ろうと耳を凝らす。掠れついた声は俺の提案を拒絶していた。

「呼……ぶな」
「呼ぶなって言ったって」
「大丈、夫…だ…」
「大丈夫なわけないだろ。救急車、呼ぶから」

どこか公衆電話、と飛び出そうとする俺の腕を、がしり、と彼が掴んだ。いったいどこにこんな力が残っているのか、と聞きたくなる程に強く、揺さぶっても簡単に引き剥がすことができなかった。俺を睨みつけるような目の鋭さに「何で呼んじゃいけないんだよ」と叩きつけるようにして言う。三郎は靭い光を宿したまま、途切れ途切れに言葉を発した。

「…お前と……海、行けな…くなる…」

苦しみに体を捩じらせている状況だというのに、そんなことを口にする三郎に俺は泣きたくなった。自分の置かれた立場が「またいつか行けばいい」と言いたい気持ちを邪魔する。もう、時間がないのだ。俺も、三郎も。『また』はきっとこない。天国の扉の目の前に俺たちはいるのだ。そう分かっているから、三郎も駄々をこねてるのだろう。けど、このままじゃ、0に限りなく近い『また』が、0になってしまう。あやすように彼の髪を撫でながら、なんとか取り成すことにする。

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
「呼ぶ…な……薬、で…」
「どこにあるんだっ!?」
「……上着の、…ポケット」

慌てて運転席の前にあるダッシュボードに放置されたままの彼の上着を手繰り寄せた。焦る気持ちでぐちゃぐちゃになりつつ、なんとかポケットに手を突っ込めば、小さな瓶に錠剤がいくつか入っていた。ホルダーに掛けられていたミネラルウォーターのペットボトルを掴み取り、三郎の傍に身を据える。

「三郎、薬」

彼は僅かに目を開け、手渡された瓶から震える掌に白い粒を一つだけ転がし、その手で口を覆った。自由の利かなさそうな唇は紫色に変わっていて、上手に薬を含むことができないのか、もごもごと蠢いていた。半分も口の中に入ってない薬を俺はつまみ、小さくえづく三郎にキャップを取ったペットボトルを握らせたけれど、彼はその飲み口を唇に当てるので精いっぱいなようで。

「三郎、貸して」

俺は咄嗟に、ボトルを奪い取って水を一口分だけ自分の口の中に収める。それから、彼の氷よりも冷たい唇を割り込むようにしてこじ開け、彼の口内へと流し込んだ。自分から彼へと水が移動したのを感じ取り、塞いだ唇を剥がし、それから、さっきの薬を舌の下へと押し入れた。

(助けて。三郎を死なせないで-------------神様、)

冷え切った彼の指先をぎゅっと握りしめ、いつしか信じなくなったその存在に縋りつくように祈った。



***

いつからだろうか、神様を信じなくなったのは。ずっと昔の前の事のような気もしたし、つい最近のような気もした。幼いころから病に蝕まれ続けてきた体だったが、いつか直るんじゃないか、と繰り返し希望と絶望の中で揺らされてきた。どうして自分だけが、という苛立ちをぶつけ、その存在を恨むこともあった。再発する度に「もう信じるものか」と誓い、それでも、心のどこかで信じていた。神様は、自分を助けてくれると。あの日まで。

「勘右衛門くん、君の体は--------------」

真っ白な病室。こすっても取れるのことのない薬の匂い。ただひたすら死を待つ日々。天国の扉の前に一歩一歩近づいていく以外にすることがなかった。眠るのが怖かった。このまま、目を覚ますことができないんじゃないか、と。それで、朝日を浴びるたび、思うのだ。あぁ、まだ生きている、と。どうすることもできない恐怖から俺を救いだしてくれたのは、神様じゃなく、三郎だった。

余命を宣告された日に棄てたはずの神様に、俺は、たただた、祈った。祈ることしか、できなかった。



***

「悪かったな、助かった」

すっかり戻った顔色で、三郎はけろりと言った。あまりにもあっさりとした謝罪に、あんなに心配して騒ぎたてたのが馬鹿みたいだ、とちょっと腹が立って。ふん、と顔を横に背けて無視をしていると、軽く膨らませた頬を三郎がつついてくる。

「……何だよ」
「本当に悪かったと思ってる」

あまり反省してない態度にも思えたが、これ以上、付き合うのも面倒になって「……もういい」と諦める。三郎はといえば、こっちの気持ちが分かってるのか分かってないのか (いや、分かってるんだろうな。分かっててやってる) 、小さく笑って「そういえば、」と話を変えた。

「何?」
「いや、勘右衛門、薬の飲ませ方、随分、手慣れてたな」
「病院暮らしが長いと、色々、無駄に知識は多くなるもんで」
「なるほど。どうりで」

三郎の納得した点が分からず、視線だけで尋ねれば、「薬が飲めなかったの、口が渇いてるからだ、って水をくれたんだろう」と彼は教えてくれた。そのことか、と「あぁ」と相槌を返すと、不意に、三郎の血色のいい唇がにたりと歪んだ。ニヤニヤという言葉がふさわしい笑顔を俺の方に向ける。

「けど、あんまり色気のないファーストキスだったな」
「きすぅ?」

思わぬ展開に素っ頓狂な声を上げてしまった俺に三郎が断定する。「キスだろ」と。俺は慌てて手をかぶり振って、否定の言を振りかざす。

「ああいうのは、キスって言わないだろ」
「キスだって」
「違う。断じて俺はあれをファーストキスとは認めない」
「じゃぁ、どういうのがキスなんだよ」
「どういうのって、キスってのはさぁ」

どんどんヒートアップしていって、声を張り上げて、はたりと、三郎と目が合った。笑ってる。

「じゃぁ、今からファーストキスってことで」

重ねた唇は温かく、青の匂いに包まれていた。閉じた瞼の向こうに海を見た。


天国に青は在るか