※ジャズピアニスト竹谷とお客久々知。鉢雷要素あり。勘ちゃんもうっすらと。

さぁさぁと耳を包み込むような雨は、その優しい音とは裏腹に、ひどく冷たかった。体の芯まで軋むような寒さに、凍えた指を擦り合わせる。足元には丸まった枯葉の残骸が、べったりと地面に貼りついて、斑な黒ずみを造り出していた。何気なく視線を上げると、蝙蝠傘の向こうで、けばけばしいほどのネオンが滲んで乱反射を起こしている。天気のせいか通り道は人気がほとんどなく、皆、足早にコートを翻して歩いているのに。まだ、街は眠りそうもない。

「はぁ」

自然と零れたため息が夜闇に白を燻らす。眼窩の奥は何か重石を置かれたかのように、どんよりと血流が濁っているのが分かった。じわじわと疲れに食まれている体が休息を求めているのを感じる。けれど、このままマンションに帰りたくなかった。電気の光も温かみもない、迎える人のない無機質な一室へと。そういえば、と近くによく通っていたバーがあったことを思い出して。久しぶりに行ってみるか、と水を含んだ革靴を路地裏に向けた。




***

きぃ、と水気を吸った重たく鈍い木の扉を開けると、カウベルがまばらな音を立てた。続いて、ひそり、と優しく、そしてどことなく淋しいピアノの調べが耳に沁み入って来た。沁み入ってきた、ってものじゃない。その音の持つ重みに、心臓が抉られるような痛みが胸を穿つ。どうしようもなく、孤独を感じさせた。真夜中に、あの部屋で目覚めたときのような。あまりに昏く、物哀しい、モノトーンの音色。脳髄がぐらり、と痺れるように揺れる。来客を知らせるベルは遠慮がちだった上に分厚い絨毯に俺の足音は吸われ店の者は俺の存在に気づいていない。踵を返すなら、今だった。ちらり、と顔を上げたマスターの、三郎の視線とかちあった。唇がゆるりと歪み、今さらひき返すこともできずカウンターへと歩を進め、彼に近づく。

「久しぶりだな」

雨のせいだろうか閑散としている店全体が視界の斜隅に入る角のカウンター席に座ると、柔らかなテノールの声が頭上から降って来た。どことなく歌うような声音は弾んでいて、飴を煮込んだような艶のある臙脂色のコースターを差し出しながら、「最近、来なかったな」と話しかけてきた彼の笑みからも楽しそうなのが伺い知ることができる。「仕事が忙しくて」と着こんでいたトレンチを脱ぐと、傍らに佇んでいた影が、す、っと手を差し出した。

「ずいぶん、雨が酷そうだね」

コートがびっしょり、と俺の上着とハンガーを手にして続ける雷蔵に「悪かったな、こんなベタベタのまま入ってきて」と謝ると、三郎が「全くだ」とぶつくさ言うのに対して雷蔵は「風邪引かないでね」とふわりと微笑んだ。同じような顔立ちなのに、どうしてこうも違うのか。そんなことを思っていると「いつものでいいんだろ」と飾り気のないグラスが一つ置かれる。ぐるり、と琥珀が息まいた。むせび泣いているようなピアノのメロディが思考を霞ませていく。



***

「何だ、全然、減ってないな」

虚を突かれ「え」と見上げると三郎は眉を潜め「つうか、そんなの水っぽ過ぎて飲めねぇだろ」ときつい視線を飛ばす。べしょりと水滴が伝い落ちて色合いが深まったコースターにおざなりにされていたグラスの中は、角どころかほとんど形を失ってしまった氷が丁子色した液にすっかり浸かりきっていた。薄まったそれを持ち上げると、とぷり、と氷が沈没し豊満な香りを昇らせる。ふ、と辺りを見回すと、いつの間にか客は俺だけになっていた。カウンターの奥に据えられた重厚な飾り時計の針は、終電まで幾ばくも無い時刻を指し示している。

「そんなに、気になったのか」
「何が?」
「さっきから、ずっとホールを見てっけど」
「いや…いつもと何か感じが違うな、と思って」

以前ここに来ていた時も生演奏をバックに呑んだ記憶があるが、その時はもっと甘ったるい曲だったように思えた。ムーディかつ程よいリズムを刻み明るい気持ちにさせるような、そんな雰囲気で。恋人たちが睦言を言い合うような、そんな曲調だった。だが、今、部屋に満ちている音からは鬼気迫っているような、胸が張り裂けんばかりの激情と感傷が伝わってくる。

「あー、ピアノ、いつもと別の奴だからな」

零した言葉を引き取れずにいると「腕はいいんだが、」とその後の言葉を濁すようにして三郎はホールへと視線を投げる。路地裏であまり広さがない店だというのにグランドピアノが鎮座しているのはマスターである三郎のこだわりらしい。大きく開けられている蓋のせいで向こうにいる弾き手は見えないが、切々と高まっていく旋律が魂に揺さぶりかけてくる。

「もうちょっとしたら上がりだから、話してみるといい。結構、面白い奴だぞ」

最後の音が残されて--------やがて、水面の細波が消えていくような、音の残滓が部屋に昇華していく頃、ピアノの向こうで影が揺らいだ。余韻の後に、す、と現れたのは長身の男だった。あえかな音色だっただけに、女性か優男だろうと勝手に想像していただけに、少しだけ驚く。照明が絞られてルームライトが足元を照らし出しているだけの薄暗い店内で、手元を明るくされるためかそこだけスポットライトのように明るくて。光の中で彼は一度だけピアノの蓋を撫でた。とても愛おしそうに。その表情に、ふわり、とこちらの胸が温かくなる。

「ハチ」

三郎が彼に声をかけると、ピアノを開けたまま俺たちの方へと近寄って来た。躊躇いもなく一直線に向かってくる姿に、俺の隣の椅子に座るのだろうか、と体を椅子とは反対の壁側にずらす。だが、彼は立ったまま「喉、乾いた」とテーブルに手を着いた。俺よりもずっと大きな手。骨ばった筋が浮かび上がって、袖口から覗いた手首も随分と太い。この手が、この指があんな繊細な音を紡ぎ出すのだ、と思うとなんだか不思議な感じがした。

(どんな風に、触れるのだろう)

「水ならすぐ出るぞ」
「あのなぁ」
「もぅ、三郎。ちゃんとしたの出してあげなよ。ハチ、お疲れ様。ごめんね、急に呼び出したりして」

カウンターの中に入っていた雷蔵が三郎を言い含めると、『ハチ』と呼ばれた彼は「お前ら、ホント顔はそっくりなくせに、なんでこうも性格が違うかね」と不貞腐れたように呟く。自分と思っていたのと同じことを彼が言ったため、つい、笑いがせり上がってきて。さすがにこの距離じゃ盗み聞きとは言えないけど(だって丸聞こえだ)、でも、人の話で笑うのは良くないだろう、と慌てて抑え込もうとして。けど、少し遅かったみたいだ。

「な、そう思わないか?」

春の光のような、温かな笑みを満面に浮かべて『ハチ』が俺に話しかけてきた。







(---------今、思い返せば、その瞬間に、俺は恋に落ちていたのだろう)
とおのゆび








title by カカリア