「あ、兵助。紹介するね。うちのピアニストの竹谷。名前は…えっと、長いからハチって呼んでるけど」 つい、彼の笑顔に見とれてしまっていて。『ハチ』と呼ばれた彼の言葉に反応できなかった。俺の沈黙を勘違いしたのか、雷蔵が間を割って話しかけてきた。名前を略すなよ、と『ハチ』が拗ねるように言ったのも構わず、雷蔵は「こっちは兵助。時々店に来てくれるんだ」と手で指し示した。「ホント、雷蔵は大雑把だよな」と不服そうに呟きつつも彼は「よろしく。ハチでいいよ」と、その節々とした無骨な掌を俺の方に向かって差し出した。初対面で握手、なんてしなれていない俺も「こっちこそ、よろしく」と慌てて伸ばす。ぐ、と握りしめられた熱は温かくて、ぴたり、と俺の中に刻みこまれる。 「結局、ハチでいいんだろうが」 どれくらいの時間だったのだろう。彼の手を握りしめている一瞬にも永遠にも思えた。混ぜ返す三郎の声に慌てて繋いでいた手を放り出す。途端、空隙の冷たさにじわりと彼の熱が奪われて。 (あ、あんな急に放して、気を悪くしなかっただろうか) 苛む不安に視線をそっと彼の方に忍ばせると、「三郎、俺に酷くねぇ」と三郎に文句を垂れていて、こっちの懸念には全く気付いてなさそうだった。 「お前に酷いんじゃなくて、雷蔵に甘いの」 「また馬鹿なこと言ってる。ま、兵助、気にしないでね」 二人のやり取りを見ていた雷蔵は、“にっこり”と有無を言わせない笑顔で俺の方に話を振ってきて、気圧されたように俺も「あぁ」と頷く。なんとなく三人の力関係が分かるような気がして、こそりと心の中で笑っていると、不意にハチ(と呼ばせてもらうことにした)が俺のグラスを指差した。 「なぁ、呑まないならくれないか」 「いいけど…かなり水っぽいと思うけど」 氷は完全に溶け切ってしまって水になってしまっており、もはや酒とは言えない代物になっていた。ハチがグラスをもたげると、辛うじてアルコール独特の透明な靄が揺れるのが分かった。ハチが口を付けようとした瞬間「飲むな」と仏頂面した三郎が止める。「いいじゃん」と零すハチに「そんなマズイ酒を呑まれるかと思うと身の毛がよだつ」と三郎が食ってかかり「ホント、変にこだわりがあるんだから」と雷蔵が取り成した。 「だったら、新しいの、呑ませてくれよ」 「なんでお前に呑ませなきゃいけねないんだ」 「だったら、これ呑むし」 「……しかたないな。なら、一杯分だけ働けよ」 「働くって洗い物とかは無理だぜ、俺」 「それだけはやめてよ、三郎。グラス割られちゃかなわないもの」 「当たり前だ。つーわけで、兵助、リクエストしてやれよ」 突然の事に困惑し「え…あんまり曲知らないんだけど」と答えると三郎は「何でもいいさ、別に曲名とかじゃなくても。明るい曲とか楽しくなる曲、とかそんなんで」と適当に並べ立てた。深く考えず「じゃぁ、明るい曲で」とハチに向かって告げると、「三郎、ワザと言っただろ。俺がそういう曲調苦手って知ってて」とハチは三郎を軽く睨んだ。当惑して「あ、別のでも」と口を開きかけると、ハチは頭を掻きながら「いや、いいよ」と遮って、ピアノのあるホールへと足を向けた。 「弾きたい曲、あるし」 *** 大きな背中を見送っていると、からり、と硬質な音が割れた。芳醇な香りがとろりと広がる。カウンターの方に顔を向きなおすとコースターの上に新しいグラス。大きく尖った氷の底で深い色が艶めいて、深い影を落としていた。いつの間に作ったのだろうか、「ん、兵助のな」と三郎が寄こす。 「え、俺はいいよ」 「遠慮するな。ハチの奢りだから」 「それって」 「ま、奢りっていうか、礼だな」 「そうだね。お礼だね」 傍らの雷蔵も頷いていたけれど何がお礼なのかさっぱり分からず、目だけで問いかけると「さっき言っただろ。腕はいいんだが、って」と三郎が少しだけ声を落とした。あぁ、と俺が頷くのを確かめると、ちらりとホールへと三郎は視線を投げた。俺もつられてそちらを見るけれど、ハチの姿は黒々としたピアノの蓋に隠されてしまっていた。天井からの差す淡い光がそこだけを優しげに照らし出していた。まるで、日なたのように温かく。 「けど、こう選ぶ曲が暗いっていうか、鬱蒼としたのは得意なんだけどな。さっきまで聞いてたから、分かるだろ? まぁ、今日偶には雰囲気も出るからいいんだけど、そういうのって、好みが分かれるからな」 「腕はあるから、もったいないよね。明るい曲、もっと弾けばいいのに」 二人の言いたいことが分かるような気がして、けど、同意してもいいものか分からず黙っていると雷蔵の呟きが届いた。 「だから本当に意外。引き受けるなんて。よっぽどお酒が呑みたかったのかな?」 「いや。それだけじゃないと思うがな」 え、と雷蔵が聞き返すのを最後に、俺の意識はハチの音に飲み込まれた。さっきまで耳にしていた昏さが嘘のようだった。同じ人物が奏でているとは思えなかった。それくらいとても柔らかで優しくて、時に力強く、時に穏やかで。倖せな調べだった。彼が紡ぎ出す温かく愛しさに満ちた音が俺を包み込んでいた。 *** ハチの音は消えることはなく、いつまでも、俺の中で共鳴りしたままで。ふ、とした瞬間に浮かぶ。愛おしそうにピアノを撫でる、その優しげな彼の笑みと共に。それをかき消すことができなくて、どうしても会いたくて、次の週の同じ曜日に、俺はまた店を訪ねた。半分、賭けみたいなものだったけど、あの木戸を開けた瞬間、洪水のように俺の中で音が溢れかえった。激流のように、うねり、高まっていく。共振する。あぁ、ハチがいる、と。 「あ、兵助。来てたんだな」 何杯目のモルトだったろうか、哀愁のメロディに軋んだ空気が元の様相に戻って来た頃、ハチは俺の隣に身を寄せると座った。あぁ、と返事をして、それから-----言葉に詰まった。会いたい、という衝動に任せて来てしまったが、いざ話す、となると何を喋ればいいのか分からなくて、つい視線を伏せて、目の前にあるグラスを手にする。胸底から浮かび上がる思いは、けれど、そんなこと言ってどうするんだ、とすぐに押し沈められる。浮沈する感情は、まるで、グラスの中でぐるぐると渦を描いているアルコールみたいだ。寂とした雰囲気が耐えれず、残された僅かな琥珀を呑み干す。ぐ、と焼け爛れるような熱が駆け落ちた。 「あのさ、」 意を決して顔を上げて話しかけると、「ん?」とそれまでの沈黙など何にも感じてないかのようにハチが俺の方を見遣った。 「いつも、この曜日に来るのか?」 「あぁ、大抵な。あとは、勘右衛門ってもう一人ピアノを弾く奴がいるんだけど、そいつが駄目な時かな」 「そうなんだ。今日は、これで上がり?」 まばらな人影の店内は微かな談笑が密やかに伝わってきていて、ゆったりとした空気が流れていた。 「おぅ。けど、兵助が来てくれたんなら、もう一曲、弾こうかな」 そう言うとハチは俺の言葉も待たずに立ち上がった。去ろうとする背中に、速まる心臓を抑えつけながら問いかける。「なぁ、近くで見てもいいか?」と。振り向いたハチは「もちろん」と温かな笑みを浮かべていた。慌てて椅子から俺も離れると、薄暗い足元に気を付けながら店の中心へと歩む。ハチは極々自然に椅子に背を預けると、滑らかな光沢を放つピアノにその大きな手を乗せた。 「兵助のために」 (まるで魔法使いのようにハチの手が動き、ふわり、と空気が柔らかくなった) とおのゆび →
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