柔らかな雲居が闇を遮って冷たさが篭っているような空。時々、思い出したように吹き下ろす風に、完全に落葉した梢が寒そうに身を揺らしている。チャコールグレイの分厚いコート越しにもしんしんと浸透してくる寒さに、首を竦めてマフラーへと顔を埋める。周囲の人たちも、一刻も早く温まりたいのか、背を丸めてそそくさと歩みを進めている。けど、俺が早足になるのは違う理由からだった。

(もうすぐ、ハチに会える)

ハチのことを考えるだけで、自然と頬が緩み、温かな気持ちになれた。



***

街灯も疎らな路地裏を進むと見慣れた木の扉が俺を出迎えた。流れるような筆記体で綴られたopenの文字を横目に青銅色のドアノブに指を掛け、中に一歩踏み入れる。ふ、と空気の色がいつもと違うのを感じた。店の奥から聞こえてくる音色は、甘ったるいカクテルみたいな曲調で。あれ、と腑に落ちないまま、視線はホールの方へと固定したままとにかくカウンターへと足を向けた。いつもの席の傍まで来て、誰が弾いているのか見えないだろうか、とそれとなく背伸びしたけれど、ピアノの蓋で弾き手の姿は隠されていてはっきりとはしなかった。でも、確信していた。ハチじゃない、と。

「いらっしゃい、兵助」

穏やかな笑顔を共にして手を出してきた雷蔵に、そのまま立っているわけにもいかず、とりあえずコートを渡して席に着く。毎週座っている椅子なのに、どこか馴染まない気がして、変にそわそわしてしまう。けど、雷蔵はというとそんなこと気にしてないようで「いつものでいいよね」と確かめてきた。あぁ、と頷き目線を少しだけ店の奥へと泳がせる。ライトがぴかりと跳ねかえるピアノから奏でられる叙情的な調べは嫌いじゃないけれど、何かが違った。

「はい、お待たせ」

仄かな照明の下に置かれたグラスの中には注がれたモルトと剣山のように反り立つ氷が、艶やかな光を絡みつかせていた。馨しい匂いが胸の中に広がって、頭の中がぐらりぐらりと揺れている。ちらり、と覗えば、三郎はというと少し離れた所で別の客と歓談していて。今なら、と、そっと雷蔵の方に耳打ちする。

「今日、ハチじゃない?」
「あ、うん、そう。よく分かったね」
「あー、なんか音が違う気がしたからさ」
「今日はお休み。何か、風邪、引いたみたい」

雷蔵の言葉に思わず「風邪っ!?」と、声を上げてしまっていた。周囲の注目を一気に浴びる。いつの間にか、その甘美に鳴らされたピアノ曲はクライマックスを迎えていたらしい。ゆるりとした人々の談笑の中で、自分では抑えたつもりだったが、ずいぶんと俺の声は響き渡ってしまったようだった。その証拠に他の客と会話を弾ませていた三郎が俺たちの方に近づいてきた。眉を顰めながら辺りを見回して、客がまたさざめきだしたのを見届けると俺を穿った。

「何、ハチのこと?」
「そう。今日、休みなんだよって話」

ふーん、と呟く三郎に恐る恐る「大丈夫なのか?」と尋ねると「40度くらいあったらしい」と彼は嘯いた。さすがにそれはないだろう、と踏んでいると、「まぁ、40度は嘘だけど、けっこう、熱、あるみたいだったね」と雷蔵が返した。それから「一人暮らしだから、辛いだろうね」と付け足す。その言葉に、大丈夫なんだろうか、苦しんでないだろうか、という思いが過った。

(今すぐ会いに行きたい------けど、)

自分とハチは単にここだけの関係だった。店のピアニストと週一回の客。それ以上でもそれ以下でもない。よくは話すけれど友人か、と問われれば、首を縦に振るのにも躊躇ってしまう、そんな希薄な繋がりでしかないのだ。親しくなった、と思っていたけれど、よく考えればハチのことを何も知らない。家もどんな暮らしをしてるのかも店に来てない時は何をしているのかも、何も知らなかった。知っているのは、『ハチ』と呼ばれていることと、それから、あの曲を弾いてくれるということだけ。あの温かく愛しさに満ちた音に包まれると、とても幸せな気持ちになれる、ということだけだった。

(けど、ハチにとって、俺はどんな存在なんだろう)

そう思ったら、動けなかった。今すぐ飛び出したい、ハチの元に行きたい。けど、足が床に縫いとめられたように動かすことができなかった。徐々に曇っていくグラスをただただ見つめることしかできなくて。からり、と氷が崩れて、中の蒸留がとぐろを巻いた。行き場のない感情だけが、そこで蠢いているみたいだった。

「あ、今から私と雷蔵は二人で話すけれど、ま、あまり気にするなよ」

ハチとのことに意識を捉えられていて三郎の言っている意味が分からず「……あぁ?」と生返事をすると、彼は雷蔵の方に向き合うと「この前、ハチの家に行ったんだけどさ」と雷蔵に話しかけた。三郎に任せようとしているのだろうか、怪訝そうな面持ちをしながらも枯葉「うん。そういえば、そんなことがあったね」と相槌を打った。

「ハチの家に行くためにさ、この店からさ、大通りに出るだろ。そこの角で右に曲がって、それからその大通り沿いを信号を三つ分歩いたんだけど、その時さ、信号が全部赤で引っ掛かったんだよなぁ」
「あーそういう時ってあるよね。タイミングが悪いというか」
「で、まぁ四つ目の所は横断歩道がないからさ、そこの歩道橋を渡って。降りたところの、すぐ右手にさパスタ屋できたの知ってるか?」
「知らない。今度、食べにいこうか」
「あぁ。それでパスタ屋の裏に棲んでるんだけどさ、あいつが『メゾン』ってちょっと笑える」
「笑えるって、ハチがかわいそうだよ。ハチが名付けたんじゃないし。確か1階に住んでるんだっけ」
「そうそう、1番角部屋。そういや仕事終えて帰ると朝日が眩しくて寝れん、って言ってたな」
「東の部屋って明るいけど、僕らみたいな夜の仕事だときついね」

二人が言いたいことは分かったけど、俺は、それでも動けなかった。ハチに会いに行って、どんな顔をすればいいのか分からなかった。自分はただの客なのだ。もし迷惑な顔をされたら---------。

「さて、兵助、支払いはハチに付けといてやるよ。もうお帰りだろ。雷蔵」

タイミングを図るかのようにして、はい、と預けていたコートを雷蔵が手渡してきた。すっかり温まったそれを受け取りながらも、どうすればいいのか、何を言えばいいのか言葉に困っていると「兵助、いいこと教えてやるよ」と三郎の唇がにやりと歪んだ。

「あいつが、お前にいつも弾いてる曲のタイトル知ってるか?」
「いや…CMとかで耳にしたことはあるけど、」

夜も更けて昨日が遠くに追いやられる頃、人気がほとんどなくなった店にその曲は流れた。初めて俺とハチが出会った時に弾いてくれた曲を、ハチはいつも最後に弾いてくれた。俺のために、と。ずっと誰の曲なのか、どういうタイトルなのか気になっていた。けど、俺の中にあるハチの調べを上手く音程にすることができず、他の人に尋ねることができなかった。

「Je te veux。意味は----------」

三郎の口から滑り落ちてきた言葉が俺を包み込んだ。ハチのピアノみたいに。まるで、そこにハチがいるみたいに。温かく愛しさに満ちた、幸せな気持ちに。三郎の話を傍らで聞いていた雷蔵がふふ、と小さく笑みを零す。

「あの曲ね、兵助の前でしか弾かないんだよ。僕らが『明るい曲を弾いて』って言ってもね、あの曲だけはハチ、絶対弾かないんだ」








(俺の中で、あの曲が、ハチの音が、ハチが、一気に溢れかえった)
とおのゆび








title by カカリア