大通りの角を右。信号四つ目。歩道橋を渡る。降りた右側にパスタ屋。その裏の『メゾン』と冠をなした、おそらくはアパートかマンション。一階の角部屋。コートを羽織りながら店を飛び出し、三郎と雷蔵の言葉を反芻すると、地面を蹴った。ガードレール一つ隔たった車道でテールランプが俺を追い越して行く。それを横目に、俺は全速力で走り抜ける。ひそりと静まり返った夜に俺の足音だけがはっきりと響き渡る。時々、ぐ、っと踏みしめた革靴の裏に石がのめり込むのが分かった。日頃、こんなにも力いっぱい走るなんてない。膝ががくがくする。筋が悲鳴を上げていた。けど、痛かった。うまく動かない足がもつれて、こけそうになる。けど、俺はスピードを緩めることなく、夜を駆けた。--------一刻も早く、ハチに会いたかった。



***

ひっそりと暗がりに佇むアパートは『メゾン』という言葉をよそに、ずいぶんと古びていた。レトロというよりは廃墟にも似たもので。金属製の外階段は遠目にも錆びきっているのが分かるし、手入れがあまりなされていないのか、雨だれの跡が残る外壁は枯れた蔦が貼っていた。恐らくはここなのだろう、と周囲を見回し、他にそれらしき建物がないことを確かめる。

(ここの一階の角部屋。雷蔵と三郎の言い方から、東だろうな)

朝に帰ると辛い、なんてことが話題に上がっていたことを思い出し、東がどちらかを考えるために空を見上げる。店に入る時には、ビルに囲まれた狭い空の一面を覆っていた雲も心なしか薄くなってきているような気がした。その証拠にふわりと光のヴェールが雲の端にかかって仄かな輝きを留めさせていた。今年最後だという満月が雲の向こうにあるのだろう。その場所から方角を考えるに、一番左にあるのがハチの部屋だと思ったけれど、念のためポストか何かないだろうか、と目を凝らしてみると、外階段の下のスペースに集合ポストがあるのに気付いた。丁度、階段が落とす陰に隠れて鈍い銀色の光を放つそれにそっと近づいた。目で部屋の番号と記された苗字を右から辿ろうとして。

(えっと、ハチの苗字は竹谷だっけ)

すっかりと慣れ切ってしまった彼の名の呼び方に、そして違和を覚える苗字に改めて痛感する。いつの間にか近づいたと思ってたけれど、俺はやっぱりハチのことを何も知らないのだと。ハチに会いたくて、会いたくてたまらなくて。三郎と雷蔵に背中を押されて、勢いのまま走って来た。

(けど、ハチにとって、俺はただの客かもしれない)

あのピアノのことだって、もしかしたら三郎や雷蔵の勘違いかもしれない。思いあがってしまっているんじゃないか、って、言いようのない焦燥がじわじわと蝕んでいく。ここまで来て、足が地面に縫いとめられたかのように、動かなくなってしまった。さっきまで羽のように軽かったそれが、今は鉛よりも重たい。

(会いたい…けど、)

躊躇っているうちに、走ってきて上がってしまっていた息は、すっかり元に戻っていた。一定のリズムで俺の口から白が生まれては、融解されてぼやけていく。やがて境界が失われる頃、再び、目の前が淡く曇る。それの繰り返し。まるでシグナルみたいに。けれど、速まった鼓動は収まることを知らない。静けさに耽る世界に漏れ出てしまってしまうんじゃないか、って心配になるくらい、頭の中にすら自分の心音が煩い。行かなきゃ、と思えば思うほど、けど、もし突っぱねられたら、と寄るあてのない不安に苛まれる。やっぱり帰ろうか、と踵を返した途端、ふ、と視界に、まっさらな月が飛び込んできた。



***

「いつも遅くなるまでいるんだな」

何度目の夜だったろうか他の客のリクエストに応えてピアノを奏でていたハチは、弾き終わるとカウンターで呑んでいた俺の傍らにやってきた。「相変わらず暗い曲ばっかだな」とからかいながら労わる三郎からショットグラスを受け取ると、ハチは何気なく俺にそう投げかけてきた。まさかハチがいるから長居してる、なんて口が裂けても言えず、俺は自分のグラスに口を付けて言葉を濁した。琥珀に胸内の想いを逃がした後で、「ハチこそ」と話の矛先をすりかえる。

「俺が帰った後も店にいるんだろ?」
「まぁ、こっちの我儘を聞いてもらってるから、その分、片づけを手伝わねぇとな。
 それに冬はなぁ、真っ暗の中で帰るのはちょっと、な。まぁ、月でも出てれば違うんだけど」
「そっか」
「そういや、来年は元旦に満月なんだってさ」

掌中のグラスを傾かせて中にあるモルトを遊ばせて氷を溶かしながらハチの話に「へぇ」と相槌を打っていると、ふ、と隣にいたハチの気配が柔らかくなって、笑ったような気がした。

「一緒に見れるといいな」



***

ハチの言葉は俺の心を浮き立たせ、けれど、あの時は単なる外交辞令としての口上だと思っていた。大晦日にカウントダウンイベントをするのだと三郎から聞いていたから。けど、もし、この一歩で何かが変わるのだとしたら---------。優しく包み込む月の光に、俺は意を決して、101号室の彼の部屋へと足を向けた。

(チャイム、鳴らさない方がいいか? けど、勝手にドアを開けて呼びかけるのもな)

玄関の上辺にある磨りガラスの部分からは温かな橙色の光が漂っていて、在宅なのが分かる。けど、すっかりと眠りに落ちているアパートに呼び鈴を鳴らすことに逡巡する。決心がぐらつく前に、ハチに伝えたいのに。再三迷った末、俺の指はチャイムの窪みに収まった。ぐ、と力を人差し指に込めて押すとバネの手ごたえを感じた。けれど、中で何かしらの音が響いた形跡を感じ取ることができなかった。壊れているのか、ともう一度、さっきよりも強めに押す。けれど、やっぱり、物音ひとつ聞こえない。

(灯りが点いてるってことは、中にはいるんだよな。あ、けど、もし倒れてたら……)

嫌な想像に、さっきまでの遠慮なんて全て吹っ飛んだ。いてもたってもいられず、俺は目の前のドアノブを握って力のまま押し開けようとして--------そのまま、つんのめった。引っ張られた勢いのまま、ぼふり、と何か温かいものにぶつかる。

「え…兵助?」

耳元に響いた驚きに満ちた声は、確かにハチのもので。俺はハチの胸の中にいた。は、と顔を上げると、すぐ傍にずっと会いたかった彼がいて。唐突な展開に、こっちも頭がついていかない。真っ白な頭で停止しそうになる思考で「え、だって、チャイム。鳴ってない」と、どうにか単語を並びたてるとハチは、あぁ、と頷いた。

「このアパート、ピアノが弾けるように、ってか音楽専門の奴のがめに防音してあるからさ。
 だから、外からは分からねぇと思うけど、チャイム鳴ったのが聞こえたから、誰かと思って来たんだけど、」

途切れた会話に積っていく沈黙。くっついたままの温もりに、どう言い出せば分からなかった。溢れかえっていく想いとは裏腹に何も言葉にならなくて。何か言わなければ、と思うほど、浮かび上がってくるものは口の中で溶け消えてしまう。と、力強く軽やかなメロディに耳を奪われた。「この曲……」という俺の呟きに「あぁ」とハチが首を回して顔を部屋の中に向けるのが分かった。

「今、CD、流してたんだ」
「好きなのか?」
「あぁ。一番、好きだな」

俺を見下ろしているハチの眼差しがゆるゆると解け、満面の笑みが彼に浮かんだ。それを見た瞬間「なぁ、俺だけのために、弾いてくれないか」と、そんな言葉を口にしていた。じ、っと俺を見つめるハチの手が、力強く優しくそして幸せな音を奏でるあの指先が、俺の頬を包み込んだ。

「ずっと、兵助に言いたかったことがあるんだ」
「何?」
「あのさ、」













(耳元でささやかれた甘い言葉は、あの曲のタイトルだった)
とおのゆび








title by カカリア