※蟲/師パロ。ですが、読んでなくても大丈夫かと。根底に鉢雷と竹久々。 「こちらです」 元は恰幅の良い男だったのだろう。たっぷりとした袷の着物は、今は、幾分だぼついて見えた。窪んだ眼窩に収まるどろりと濁った瞳。霜降りた髷はがさがさと乾いていて、疲れにねじ伏せられた面持ちをしていた。下男や下女ではなく家主本人であるこの男が案内した先は、広大な屋敷の一番奥まった部分。いくつ角を曲がったのか、忘れてしまった。 (それくらい、出させたくねぇってことなんだろうな) 部屋の中にいる人物に了承を得るわけでもなく、その男は頑なに閉じられた木戸を開け放った。入り込んだ光に、一瞬、闇が凝縮され、すぐに散らばっていく。ちり、と焼ける痛み。そこに潜む冥さの正体を俺は嫌というほど知っていた。男は無言のまま敷居をまたいで中へとはいっていくのを俺は眺めていた。一筋の明るさが部屋の真ん中に差し込み、ぼやりと浮かび上がった中に佇む一人の女。布団の上で上半身だけを起こした体躯は、蝕まれた影のためか折れそうなほど細く見える。はらりと落ちる黒髪が覆う横顔から僅かに見える目は空虚に漂っていた。 「……おみつ、」 腫れものを触るがのように躊躇いがちに男が唇を震わせた。続いて「お前に、客だよ」と息を吐き出すように告げる。すると、「お父様、連れてきてくれたの? 分かってくれたのね」と、まるで下駄のような、カラリコロリと女の高い声が弾んだ。俺の方を振り向いた女は口元に笑みを浮かべていた。すぐに、それは儚げなものに代わってしまったけど。 「……三郎さんじゃないのね。どなた? お父様」 「お前の病を治しに来たんだよ」 男---父親の言葉を聞くないなや、いやいや、と女---娘は首を振った。それに合わせて、水底で揺れる海藻のように結われてない髪が揺れる。白珠のような涙がはらりはらりと娘の頬を伝い落ちる。父親は骨のように白い娘の腕をむんずと掴み耳元で言い聞かせる。「あの男は、万吉は死んだんだ」と。けれども、娘はそれを振り払い、そっと隣に手を差し出した。 「お父様、何で、そんなこと言うの? 万吉さんに失礼よ」 「お前がそんな調子だからだ」 「だって、万吉さんはそこにいるじゃない」 娘が伸ばした指先は空を掴んでいるはずなのに、まるでその手は他の誰かの手を握っているかのようだった。指と指の隙間がとても自然だった。見つめる視線の先にいるのは、最愛の人なんだろうか。ひどく幸せそうな笑みを浮かべていた。堪えれぬといった表情で父親が「おみつっ!」と切り裂くような声で叫んだ。その勢いのまま父親に薙払われた彼女の手が布団に落ちる。 「どうして、お父様には見えないの」 拒絶するかのように顔を伏せた娘からは、咽び泣きが漏れ聞こえてきた。 *** 「すみませんな。取り乱した所を見せて」 改めて通された客間からは、よく手入れされた庭が一望できた。この季節らしく寒々しくも趣のある造りの中で、南天の赤い実が鮮やかだった。上物の器で出された茶を啜って「お恥ずかしい」と呟く男-----父親の言葉を聞き流す。父親の本心はそこにあるのだろう。「何とか、救っていただきたい」と平身低頭する父からは、娘のことよりも自分の見栄、といった匂いがした。切羽詰まったそれは俺に粘着し纏わりついてくる。父親に焦りが滲んでいる理由は近々に他の豪商の嫡男と見合う機会があるからだろう(と、おしゃべりな下女から聞き出した)豪商の一人娘ともなれば縁談の話はひっきりなしなはずだ。たとえ、以前に婚約した男がいたとしても。かわいそうな、哀れな娘だった。 (かといって、それを救う手だてなんてねぇんだけどな) 「いや。……いつから、あんな状態なんだ?」 「ひと月ほど前からです」 「男が死んだのもか?」 「いえ、それは、もう三年も昔のことです。将来を誓い合った男を亡くしたのは」 「三年前、ね」 「最初こそ塞ぎ込みすれ、その後は笑顔も見せていたのに…なんで、また」 その先を言わなかったのは憚りか、はたまた、虚栄か。寄せた器を手にして茶を飲む父親の表情からは、そこまでは読み取れなかった。だが、吐き出すような口調からは、娘への愛情は一欠片とて感じることができなかった。 (なんで、また、ねぇ) 恐らくは忘れてなかったということだろうな。その事実は痛いほどに分かった。あの闇に出迎えられた瞬間から、感じていたことだった。あの冥さを知っている、と。けれど、俺はその心情を吐露することをしなかった。今回の依頼は、娘に取り憑いたモノを下すことだ。それだけ。それを生業としているのだから。 (だから、余計なことに関わるな) そう心の中で念じていのにと、ふ、と瞼裏を『彼』の笑顔が過った。ハチ、と蘇る声。親の都合で振り回される子どものなんか、これまでも何度も立ち会ってきたというのに。なのに、今回の依頼にどうも乗り気になれないのは、自分自身と重なるからだろうか。娘に共感してしまっているからだろうか。忘れることなどできぬ過去があるということに。 ぼんやりとそんなことを考えていると「竹谷さん?」と父親から怪訝そうな声が上がった。「あぁ、何でもねぇ」と脳裏に棲む彼を記憶の底に押し沈める。それから、三つばかし深く息を吸い込む。これでいい。これで、いいんだ。 「……恐らくは面無の仕業だろうな」 「かおなし、ですか?」 「あぁ。面が無と書いて、かおなしっつうんだ」 畳に指で字面を書いて説明してやると父親は、それはいったい、と俺の顔を見遣った。「あー」と俺は用意してきた書物を父親の前に広げた。面無という蟲は、目に宿るとその人物の記憶を引きずり出して眼前にその記憶を再現すると言われている。人によっては害意が少ないのだが、今回みたいに過去に囚われている奴が巣食われると少々厄介なことになるものだった。問題は、面無は宿主がいなければ自分からは動くことができない蟲、ということだ。つまり、彼女の目に面無を植え付けた人物がこの近くにいることになる。 「何か心当たりは?」 俺が問いかけると父親の眼がきつく吊りあがった。娘をあの状態にした人物を知っているのだろう。疲れ切って乾いていた男の眼に、束の間、鈍い光が走る。憤慨した顔つきで父親は街外れに棲みだした男の話を口汚くしだした。 *** 父親が言っていた街外れには、ぽつん、と庵のようなものがあった。方々を荒れた垣がぐるりと囲み、苔むした茅葺が重たそうに鎮座している。正常な者ならちょっとのことでは近寄らないだろう。すぐ傍らの、食い荒らされた柿の木には塗羽の烏が何十匹と掴まっており、その枝をしなだれさせている。ぎゃぁ。不気味な鳴き声が茜空に木霊する。 「うちに何か?」 背後からの気配は、全くといっていいほど気付かなかった。ふり返ると、この辺りでは珍しい糖蜜のような色あいの髪をした優男が立っていた。人当たりの良さそうな笑みを浮かべている彼からは、どことなく甘ったるい匂いがする。普通の人間の鼻では全く感じれないそれは、俺の琴線を嫌というほど揺さぶった。直観する。彼が宿主だと。 「この辺りで可笑しな話を聞いたもんだからな」 「ふーん。どんな話?」 「死んだ人間が目の前に現れるって」 「そりゃ、おもしろい」 「何か知らないか?」 その問いかけに男は「いや」と柔らかな笑みを湛えながら答え、それから、もう話は終わりと言わんばかりに「じゃあ」と手を顔の前に軽く掲げた。それから俺の横をすり抜け庵へと向かう。近江屋の娘、と呟くと、目の前の背中がぴたりと歩みを止めた。 「あんた、ただの旅人じゃなさそうだな」 振り返った彼の相貌は、さっきとは一転、酷薄そうな笑みが口の端に浮かび、その眼には刃のような鋭い光を尖らせていた。 ← 後篇 面無 |