※蟲/師パロ。ですが、読んでなくても大丈夫かと。根底に鉢雷と竹久々。




一気に底へと落ちた夕日は、すぐに夜を連れてきた。だんだんと失われていく熱に身震いを一つ。囲炉裏に灯された炎に手をかざすと凝り固まった血が巡り出すのが分かった。くべられた薪は炎に舐められ、やがて、その身を陥落させていった。時折、爆ぜる音に続いて小さな火の粉を巻き上がる。鉢屋と名乗った男は俺を屋内に招き入れたかと思うと、こまごまと動き回っていて。なんだか落ち着かねぇ。

「で、あんたは何をしに来たんだ」
「何、って」

勧められるがままに夕食をご馳走になってしまい、俺って何しに来たんだろうか、と思っていた最中だったためか、そう改めて問われると答えが出ずに、口ごもってしまった。そうだった。彼女に棲む蟲を下すだけならば、わざわざ宿主を探さなくてもいい。彼女に薬を飲ませれば、それで終わりだった。彼女が昔の恋人である『万吉』を見ることも思い出すことも二度とないだろう。その方が依頼主であるあの父親にも都合がいいはずだった。けれど、俺は気が付けば父親にその事実を告げず、彼を探しに来ていた。黙り込んでしまった俺を鉢屋は見遣ると「あんた、本当に蟲師なのかよ」と嗤った。

「一応、それを生業にしてるけどさ。なぁ、本当に、記憶を再現できるのか?」

俺が尋ねると、鉢屋はきょとんとした面持ちで俺を見つめた。暫くして、口内の空気をぷっと吐き出すと破顔し、腹を抱えて笑いだした。「やっぱり、あんた、この仕事に向いてない」と、眦に涙を浮かべて喉をひきつらせながら答える彼に、聞くんじゃなかった、と後悔する。

「蟲は見えるし、それが引き起こす現象も見えるさ。けど、その宿主が見ている世界は見えねぇからな」
「ふーん。まぁ、それはこちらも同じさ。おみつという娘が何を見てるのかは知らん」
「そうなのか?」
「わたしは、あの娘と違って宿主だからな」

それはどういう意味なのか、と問おうとしたのを遮るかのように、鉢屋の視線が絡みついた。

「別にあんたの仕事を止めやしないさ」

投げやりというか面倒そうな面持ちも、俺は感じ取っていた。心の底からそう思っているのだということを。「あんたがあの女に薬を与えようと、こっちには関係ない」と鉄箸で囲炉裏をかき混ぜながら彼が続ける。ぱちり、と膨らんだ空気が破裂し、怒り狂うように身をくゆらす焔が、不意に高まった。鉢屋の瞳を焦がす橙の光が絶えず陰影を刻む。

「蟲師なら、またあの女に植え付ける、って心配もねぇことくらい分かるだろ」
「あぁ。蟲を下したら、記憶ごとなくなる、って文献に」
「そ。だから、あんたは安心してあの女に蟲下しをすればいい」

再び蟲を宿したところで、あの娘が万吉とかいう男に心を捕られることはない。なんてったって、その男がいたという記憶そのものがなくなるのだから。そうなれば、たとえ再び蟲を宿したとしても、万吉が目の前に現れる、ということはなくなるだろう。--------彼女は、再び、幸せに生きていける。はず、なのに。俺はあの場で蟲下しの薬を渡すことができなかった。

「なぁ、あんたはずっとここに住んでるのか?」
「そうだな。ここ数十年ばかしは」

俺と同じくらいか、それよりも幾分若く見える風貌と数十年という言葉が不釣り合いな気がして、一瞬、変に思ったが、よく考えれば別におかしくはなかった。宿主になった理由と関係しているのだろう。けれど、そのことを追求したところで鉢屋は答えてくれねぇだろうと判断し、別の問いを投げかけた。

「あの娘が訪ねてきたのは、いつ?」
「ひと月ほど前か? 噂は以前から知っていたみたいだったがな」

あの父親の言葉と合致したそれは、けれど、俺の中に新たな謎が生まれる。どうして、とつい口にしてしまった言葉に鉢屋は「ん?」と引っ掛かったようで、俺にその先を促すように視線を向けた。「どうして、彼女は、すぐに来なかったんだろうな。お前の噂、知ってたんだろ。見合いの話もずいぶん前に出ていたらしいし」と疑問を並びたてると、鉢屋は俺から、すい、と視線を外して、ぽつりと呟いた。

「怖かったんだと」
「怖かった?」
「月日が経つたびに万吉って男が、己の記憶からなくなっていくことに」

反芻しても反芻しても、掌から砂が零れ落ちていくかのように、一つ一つが曖昧になっていって、その流れを押しとどめることができない。忘れていってしまうことが、怖い、と。鉢屋の唇から綴られる彼女の心の叫びは、狂おしいほどよく分かった。----------なぜなら、俺も、同じだから。同じ思いを抱えて、生きているから。兵助。心の中でひそりと呼ぶ。思い返せば思い返すほど、不確かになっていくのは、何故なんだろうか。一瞬たりとも忘れたくない、そう思っているはずなのに。あやふやになっていく。その笑顔も、声も、温もりも。ふ、とした瞬間、気付くのだ。絶対に忘れない、という決意ですら薄らいでいる事実に。

「だから、俺の所に来たのさ。記憶を再現してくれ、とな」

鉢屋が、す、っと目を細めた。虹彩に滲む影が深くなる。俺が彼の元に訪れたのは、その瞬間のためだったのかもしれない。その言葉を聞くために。その言葉を言ってもらうために。この瞬間を、俺は待ちわびていたのだ。兵助を失ってから、ずっと。

「で、あんたは、誰を目の前に蘇らせたいんだ?」









***



「これで、娘さんは治ります」

翌朝、俺が依頼主の屋敷を訪ねると、今か今かと待ちわびた父親が俺を迎えた。客室に通すや否や、「件のことは」と急かされて。俺が薬包紙の包を差し出すと、父親は「おぉ」と拝むように手を差し出してきた。そこに浮かぶのは、娘が治るという喜びよりも、これで縁談がまとまる、と欲に眩んだ色で。平身低頭して「ありがとうございます、ありがとうございます」とうわ言のように繰り返すその言葉は、あまりに薄っぺらい。舌なめずりするように蟲下しの薬を眺める視線は粘っこさは隠しきれなさそうだった。そのまま「寄こせ」と言わねぇのは、せめてもの矜持なのだろう。この家に再び来るまで、なんとかして押し殺してきた鉢屋の言葉が、あっさりと柵を断ち切って浮上してきた。

『どっちがあの娘にとって幸せかねぇ』

なかなか手渡そうとしない俺に、父親は怪訝そうに「竹谷さん?」と顔を上げた。俺は薬包紙をがっちりと掴んだまま「一つ、いいですか?」と父親に向き直った。恐らくは、それで答えが出るはずだ。

「あー、もちろんですとも、命の恩人ですので」
「もし蟲を下してもお嬢さんの気持ちが万吉さんに向いていたとしたら、」

どうするんです、という問いかけを最後まで言うことはできなかった。いや、さしてもらえなかった、というのが正しい。「そんなんじゃぁ、困るんだっ!」と虎の咆哮が父親から洩れる。さっきまでの穏やかさが一転、うわべに塗れて隠されていた卑下た感情が噴出する。

「あんたには、それ相応の謝礼をするつもりだ! どんな手を使ってでもいい!
 娘からあの男の記憶もなくしてくれ。そうじゃないと、私が困るんだ。
 縁談の場も明日にせまっているだ、相手は街一の豪商なんだ、私の未来が掛ってるんだ」

憤怒に顔を赤らめてまくしたてる父親は、もはや、人間ではなかった。






***



まだ日も昇りきってない時間帯なせいか、街道は随分のんびりとした空気が漂っていた。籠を背負った行商人や引き連れた馬に道端の草を食わせている男、夫婦で連れ立っているのはどこかに参りに行く道中だろうか。俺も棚籠を背負いなおし、食い込んだ肩紐をずらすと、あてもなく歩きだす。ふ、と顔を上げると、少しばかり先にある道沿いの木に鉢屋が寄りかかって立っていた。

「もう、行くのか?」
「薬が偽物だとバレる前に、ずらかりてぇからな」

鉢屋が痛いほどこちらを凝視しているのが分かった。透けた茶色の双眸が、ふるり、と揺れていて。くしゃりと歪んだ顔は、笑い出しそうなのか泣きそうになってるのか、分からないけれど。「お前、本当にこの仕事、向いてないな」と皮肉を飛ばす彼に、「自分でもそう思う」と嘆息混じりに答える。結局、俺は蟲下しの薬を渡さなかった。単に薬草を煎じて粉にしたものを包んで、父親に渡してきた。当然だが効果は出ない。その事に気づくのも時間の問題だろう。俺はその屋敷を後にすると、足早に街道筋に向かった。

「ふーん。これから、どこに行くんだ?」
「さぁ、な。ま、適当に歩いてりゃ、どっかに行き着くだろ」
「そういう生き方も悪くないな」

遠くどこかを見遣るような虚ろな表情の鉢屋に「お前も来ねぇか?」と言葉を掛ける。何気なく誘ってみただけだというのに、は、と息を詰めたような表情を奴はしていた。それからゆっくりと俯くと、鉢屋は顔を掌で覆った。道中を分かつようにして立ち尽くす俺たちを他の通行人達が不審そうに眺めていく。どれくらい沈黙が続いたのか。鉢屋は不意にその手を顔面から外すと俺を真っすぐに見た。

「人を待ってるんだ」
「人を?」
「あぁ。わたしが顔を借りている相手さ」

今さらながら、彼が面無の宿主だという事を感じると共に、もう一つ、思い出した。宿主になるということがどういうことか。面無という蟲は、どんどんと棲みついた人物の記憶を食らい続けていき、それがなくなってしまった時に蟲はその人間の人生を食らい、宿主にしてしまうという。そうなれば、もはや人間でもなく蟲でもない、中途半端な時間の流れで生きていかなければならない。普通は、全ての記憶を食いつくすよりも次の記憶が蓄積されていく方が速いから、そう簡単に宿主にはならない。けど、彼が宿主であるということは、彼は全てを食われたのだろうか------? だとしたら、顔を借りているという相手というのはどういうことなのだろう? 頭に並ぶ疑問符をどうにかしたくて、けれども、鉢屋の相貌は問いかけることを拒絶しているように見えて。

「じゃぁ、もし、どこかでそっくりな奴を見かけたら、伝えるよ。『鉢屋がずっと待ってる』って」

我ながらお節介な気もしたが、鉢屋の唇がほころんでいるような気がして、言ってよかったと安堵する。この二日で見た笑みの中で、一番、穏やかなものだった。

「なら、わたしも、一つ、いいことを教えてやろう」
「何だ?」
「お前に蟲を宿しても、お前が望む人を目の前に蘇らすことはできない」

思わぬ事実に呼吸が止まる。一拍、乱れて「それって!」と叫ぶ頃には三郎はどこかに姿を消していた。吹き抜ける一陣の風に混じって「わたしが蘇らせられるのは、死者の記憶だけさ」と掠れた声がして。俺は胸元にずっと大事にしまい込んである鏡を取り出した。

「必ず見つけるからな、兵助」





面無