壱
ひどく体は疲れているはずなのに、頭が妙に冴え冴えとしているのは、興奮しているせいだろうか。 いつもとは違う慣れない環境に、知らず知らずのうちに感情が高ぶっていたのであろう、 早くに床に入ったはずなのに、なかなか寝付くことができなかった。 明日の (いや、もう今日だろうか) 早朝からの日程のことを考え、早く寝なければ、と思えば思うほど、 布団に籠った熱が邪魔をする。 (少し夜風に当たってこよう) 隣で寝息一つ立てず静かに寝ている三郎を起こさないように、そっと、部屋から抜け出した。 波音は遠く近く、ぶつかり、跳ね返り、さざめき合いながら耳に留まる。 海岸線を歩いていると、部屋にいた時よりも随分と濃く感じる潮風が髪や頬にべたべたと貼りつく。 その身を大きく削り取られた月は、まだ生まれたばかりのようで、随分と低い位置にその身を沈めている。 (もうすぐ晦だなぁ) 弱々しい月光はほとんど頼りにならず、深淵の闇に包まれた世界で、ようやく慣れてきた目が、 ぬばたま色に輝く砂浜を捕らえる。 ぼんやりと海を眺めている間にも少しずつ水位が上がってきたのだろう、足もとに小さな飛沫が掛かった。 迫り来る波を避けるために場所を変えようと、浜辺から少し離れた岩場へと足を向けた。 「ん? 何だろう?」 ふ、と視線に何かが引っかかった。 沖の方に視線を転じると、漁火にしてはやけに青白い光が、炎のように、ちらちらと、揺らめいていた。 幼い頃に祖母に聞かされた狐火の話と重なって、気味の悪さにゾクリと背筋を這いのぼる戦慄をなんとか 抑え込み、よくよく見ようと目を凝らす。 (見に行くべきだろうか、見に行かないほうがいいのか) 何か異変が起こっているのであれば先生に伝えるべきであろう。 しかし、こんな時間に先生を起こすのもしのびなかった。 そもそも、今日初めてこの地を訪れた身では、これが普段と奇することなのか、 それともいつものことなのかを判断することができない。 とりあえずその正体が何なのか、光の元まで見にいこうかと足を動かし、ふ、と海賊さん達に言われた 『掟』の言葉が脳裏を過った。 (勝手な行動は避けた方がいいんだろうなぁ) チームワークを重んじる海の男たちは、僕たち五年生のまとまりの良さを至極褒めてくれていた。 曲者ぞろいの学園において没個性な学年だと言われることの多い僕たちは素直に喜んだもので。 (ただ、忍者として、目立つというのもどうかとは思うんだけどね、) それを破ってまで見に行った方がいいのかどうなのか、思い悩むところだった。 (一人で光の正体を探るか、先生に報告するか、誰かほかの人を起こすか… 三郎は絶対行くっていうし、兵助は先生を起こすだろうし、ハチはそもそも起きないだろうなぁ) 思考の狭間で唸っているうちに、ふ、っとそれは消えてしまい----そして、二度と見ることはできなかった。 「…で、その火の正体が気になって寝不足?」 眉を顰め、眉間に皺を寄せ、呆れたような表情で、三郎が僕を見た。 もちろん、三郎は僕の顔をしているわけで、要は僕が”呆れた時“に見せる顔なんだろうけど。 三郎は僕の話をちっとも信じてないって感じで、あくびを一つ洩らすと、頭巾を片手で器用に結わえていく。 「うん」 「馬鹿だな、今日は遠泳だっていうのに」 「分ってるさ。……けど、気になって」 小屋の先に広がる浜辺で「集合」と大声を張り上げている木下先生が見え、僕も慌てて頭巾を巻く。 雲ひとつない空は、今日も暑くなることを知らしめているようで、少し憂鬱な気分になる。 一歩踏み出すと、刺さるような日光に、くらり、と瞼の裏の血潮が歪んだ。 「雷蔵、あやかしを見たって?」 「まだ、あやかしと決まったわけじゃないさ」 「そうなのか? 残念」 と、話を聞いていたのだろう、ハチが楽しそうに口を挟んできた。 豪気な笑い交じえ「あやかしなら一度手合わせしてみたいものだな」と妙な冗談をのたまう彼に、 三郎が「腕力で勝てるわけないだろ。通り抜けてしまんだから」と混ぜ返す。 「本当にそうかどうかは分からないんだ。海の上に光を見ただけだから」 「海の上って、どのあたりだ?」 「んー、あの松が生えている崖があるだろ」 「あぁ」 波に打ち砕かれたような穴がいくつもあいている崖を指さす。 塩枯れをしている寂れた岩場の中で、その松の緑は鮮やかで、とても力強い。 昨晩の闇の中で浮かんだシルエットはそのままで、まるで天に手を伸ばしているようだった。 「そこから辿って、その船の舳先と結んだところらへんだ」 「確かに、何もないね。海の上だ」 「だから不思議なんだよね」 僕が差した指を辿り、三郎は腕を組み、睨みつけるような眼差しを投げかけていて。 じっと注がれたままの視線は、酷く深刻そうな色を帯びている。 三郎に声を掛けようとして、 「漁火じゃなかったのか?」 いつの間に話を聞いていたのか、兵助に遮られた。 その口調からも、あやかしなど信じられない、というのが伝わってくる。 (まぁ、僕も自分自身の目で見なければ、きっと、そんな馬鹿げた話を信じようなんて思わないけど) 「うーん、なんかそういう色じゃなかったんだよ」 「色?」 「うん。ほら、漁火って、こう明るい橙をしてるだろ」 「あぁ、炎だからね」 「そういうんじゃなくて、鬼火みたいな、青白さがあったんだ」 目を閉じればありありと浮かびあがる焔。 じりりっ、と瞼を焦がすように烙きついたそれ。 思い出しただけで、背筋を舐められたような、妙なおぞましさを覚える。 「ふーん。どう思う、兵助?」 「もしかしたら、発光する生物が海にいたんじゃないか。ハチ、知らないか?」 「さすがに、海の生き物までは、そこまで詳しくないなぁ」 そう言いながらも、頬を掻きながら、ぶつぶつと、思いつく限りの生き物の名前を列挙し出した。 と、「そこ四人、さっさと集まれ!」と先生の怒声が飛んできた。 いつの間にか、僕たち以外は並んで点呼を待っていたらしい。 慌てて皆が集合している場所へと駆け足で向かう。 「後で、海賊さん達に聞いてみればいいんじゃないか?」 そう言う三郎は、いつもの、何か新しい悪戯を思いついたような、そんな顔をしていた。 戻 進
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