「あ、」 建物の影に入り込んで真っ暗で足下が見えないアパートの階段を昇っていると、ふ、と思い出したように兵助が声を上げた。手すりを頼りに先に上がっていた俺は振り向いて兵助がいる辺りを見たが、闇に呑み込まれて輪郭すら分からなかった。恐い。兵助がいない世界-----------------ぱ、っと浮かんだのは、あまりに淋しい世界で、「どうした?」と咄嗟に出たのは縋るような声だった。俺の出した声にびっくりしたんだろう「あ、大したことないんだけど」と少し戸惑うような響きが階段に響いた。 「下に大家さんが住んでるんだけど、ちょっとお年を召してるからさ、様子見てくる」 「俺もついてくか?」 「いいよ。すぐだから」 とんとん、と足音が近づいた、と思った途端、手に温もり。ちゃり、と擦れる金属音。耳元で「先、部屋に戻っていて」と温かい風が吹き抜けた。それを感じた次の瞬間、また足音。今度は遠ざかる。慌てて追いかけようにも兵助と違い、勝手の知らないアパートだ。下手に追いかけて階段でも落ちる方があれだろう、と俺は諦め、兵助の言われたとおり、先に戻ることにした。掌の鍵をぎゅ、っと握りしめる。 (こんな風に、一緒に棲みたかったよな) 叶わなかった夢をもう一度やり直しているようだった。倖せと、その対極にある淋しさ。両方がこの手の中にある。もう絶対にできなかったことをこうやってやることができた、兵助ともう一度逢うことができたという喜びと、そして、また、あの身が切れそうな思いをする別れをしなければならない、という痛み。確実に俺の中で何かが減っていっている。それは、もう、戻らない。 (兵助は、俺が黄泉がえってきてよかった、って思ってくれるだろうか) 今はいい。けど、明日、俺はいなくなる。一番辛い時に、俺は兵助の隣にいてやることができなかったのに、俺はまた同じ事を繰り返そうとしている。俺がいなくなって、兵助が俺が死んだときのように哀しむかは分からない。けど、もし、兵助が哀しみ苦しんだとしても、俺は一緒にいてやれることはできないのだ。 (馬鹿だな、俺) 逢いたかった。兵助にもう一度、逢いたかった。ただそれだけだった。-------------なのに、 「ん?」 ふ、と誰かに呼ばれたような気がして、俺は顔を上げた。考えながらもどうやらちゃんと体は動いていたらしく、気が付けば階段を上がりきり、扉がずらりと並ぶ廊下にいて。兵助の部屋の前に、一つの影。階段よりもやや闇が薄まっている中で、ぱ、っとそこだけに光が灯っていた。その正体が携帯のバックライトだと気づいた瞬間、「ハチ」と呼名された。佇んでいた影は、懐かしい友人だった。 「勘右衛門」 どうしてこんな場所にいるんだ、という疑問は、けれど、口にすることができなかった。 「やっぱり、黄泉がえってきたのか?」 挨拶よりも先に勘右衛門の口からそんな言葉が出てきて、俺は驚きつつも「あぁ」と相槌を打った。それから「気が付いたら、兵助の部屋の前だった」と付け足す。携帯を手にしていた勘右衛門はそれを折りたたんだ。す、っと途切れる明るさ。慣れない目が、ぐっと闇を呑み込む。ぎゅ、っと目を瞑り、しばらくして開ければ、再び勘右衛門が見えるようになった。ぼんやりと溶ける輪郭に向かって「兵助なら、もう少ししたら上がってくると思う」と告げた。だが、帰ってきた言葉は全く違うものだった。 「兵助に言ってあるの?」 勘右衛門のその言葉の意図が分からず「何が?」と俺は訊ねた。すると、彼は少しだけ躊躇うように息を詰めた。 「明日、いなくなるんだろ」 ひそ、とした冷たさが俺たちの間に入り込んでくる。勘右衛門は責めるわけでも咎めるわけでもなく、ただ、淡々と俺に事実を突きつけた。上手く息が回らない。苦しい。笑って誤魔化したいのに、唇は引き攣るばかりでそれを赦してくれない。真っ直ぐに見つめる彼の目差しに観念するしかなかった。 「……何で、そのこと」 肯定を含めた問いかけを勘右衛門にした。けれど彼は答えることなく、別のことを聞いてきた。俺から視線を外さずに。 「兵助に、そのこと、伝えたのか?」 じ、っと濯がれる視線に、全てを見透かされているような、そんな気持ちになる。 「……いや、言ってない」 言えなかった。最初から分かっていたことだ。これが、期限付きの奇跡だってことは。俺がいることができるのは、明日までだ。そう、何度も思った。言わなければ、と。けど、思えば思うほど、どうしても言えなかった。兵助が「月曜日に来よう」と言ったときに思った。月曜日に俺はいない、と言わなければ、と。これで言わなければ、もう言えないだろう、と。けど、俺の口から出たのは「そうだな」なんて言葉で。 (馬鹿だよな、どうしたって破る約束なんてして) じゃぁ約束な、なんて出してきた兵助の指に「あぁ、また来ような」って俺のそれを絡ましてしまった。温かかった。泣きたくなるくれぇ、倖せだった。-----------------来ることのない未来に、夢を見てしまった。奇跡が起こるんじゃないか、って。そんな夢を見てしまった。そうなればいい、と願った。 「どうして……」 「言って、兵助の哀しむの顔を見たくねぇ」 あの日、命が途切れた瞬間から、昨日、黄泉がえってくるまで、どれだけ兵助が、泣き、苦しみ、もがき、哀しみ-----------------そうして、それでも生きようとしてきたのか、俺は知らない。けれど、少なくとも、俺がまた別れを告げたならば、また同じような道を兵助に与えてしまう、そんな思いがあった。まだ兵助が俺のことを想っているといううぬぼれではなく、俺自身がそうだから。あの日から、泣き、苦しみ、もがき、哀しみ-----------------後悔した。だから、俺は、今ここにいる。 「言わない方が、兵助が哀しむの、分かってるだろ」 「分かってる……けど、もう、俺は泣き顔を見たくないんだ」 きつく咎める口調の勘右衛門が正論だということは、分かっていた。言わずに勝手に逝ってしまえば、きっと、兵助を哀しませるだろう、と。けど、言ったところで、何も変わらないのだ。俺はもう明日にはいなくなる。兵助に言おうが言わまいが、その事実だけは誰にも覆すことができないのだ。-----------だったら、俺は最後の最後まで、兵助の笑顔を見て逝きたかった。 「自分勝手すぎる」 勘右衛門が、ぽつりと呟いた。もう一度勘右衛門は「自分勝手すぎるよ」と俺に真向かった。 「分かってる……」 俺の我が儘だ。俺が再びの別れを迎えるその時に兵助の笑顔をこの目に灼きつけておきたいだけなのだ。-----------このまま、冥い場所で、ひとり、永久の眠りに就いても淋しくないように。ずっと兵助のことを覚えておけるように。ただ、それだけのために、俺は兵助に告げずに逝こうとしているのだ。 「分かってない。何も分かってない。どれだけ、兵助を苦しめることになるか」 「けど、今度は大丈夫だろ」 「何が」 「支えてくれるヤツが傍にいる」 ぱ、っと瞼裏に浮かんだのは、俺にとっての倖せの象徴であるそれ。あのペアカップ。もし、俺がいなくなって兵助が哀しんだとしても、そいつが兵助を笑顔にしてくれるだろう。そいつが兵助を倖せにしてくれるだろう。俺がいなくても、兵助は、きっと笑顔で生きていってくれる。---------------------それは、酷く淋しいことだった。 「どういうことだよ、ハチ?」 「勝手に逝ってしまった、って俺のことを怒って罵って、そうして早く忘れてしまえばいい。別の誰かと倖せになってほしい」 本当なら、俺が倖せにしたかった。この手で、兵助を笑顔にしたかった。--------------けど、それは、もう叶わねぇから。俺が兵助に与えてしまうのは哀しみばかりで、俺が兵助の笑顔を奪ってしまっていて。黄泉がえらなければよかったんだろうか、って今でも思う。けど、もう、俺は黄泉がえって兵助と逢ってしまった。 (たら、れば、なんて考えても仕方ねぇ) 今の俺にできること---------------------それは、兵助の倖せを祈ることだけなのだから。 「何言ってるんだよ、兵助の倖せはっ「あれ、勘ちゃん? ハチ?」 ぱ、っと振り向けばそこにいるのは兵助だった。聞かれてしまっただろうか、っと、ざ、っと血の気が引く。勘右衛門はバツが悪そうに俺と兵助と交互に視線を送って、けれど、何も言わずに成り行きを見守る方に姿勢を変えた。心臓を捻り潰されたような痛み。兵助が何を口にするのか、と緊張が鼓動に直結する。 「どうかした?」 (聞かれてなかった) 安堵にすっと肩の力が抜ける。爆発しそうだった心臓からも緊張が解けていく。怪訝そうに俺と勘右衛門とを見比べている兵助に、勘右衛門が余計なことを言う前に「いや、何でもない」と先手を打っておく。ちらりと勘右衛門は咎めるような目差しを俺に送ってきたけれど、それでも、それ以上は何も言わなかった。 「そう? 何か、大きな声で喚いてなかったか?」 「……や、勘右衛門と久しぶり会ったから…騒がしくなっちまって悪かったな」 「いいけど。……そういえば、勘ちゃん、仕事は?」 突然、話を振られて驚いたんだろう、虚に付かれたように「あぁ」と話の輪に勘右衛門が戻ってきた。 「まだ途中なんだけど、さっき雷蔵に会ってたから」 「雷蔵に?」 「あぁ。どうしても聞きたいことがあるから、って」 二人の口から出た名前は俺の全然知らないヤツの名前だった。もしかしたら、例のマグカップの持ち主なんだろうか。そうだとしたら、頼みたかった。兵助のことを。俺が逝ってしまった後のことを、兵助を倖せにしてほしい、ということを。どんなヤツなのか知りたい、という思いは、けれど、口に出すことができなかった。 「……そろそろ、俺、戻らないと。まだ取材のまとめしてる最中だから」 「そっか。忙しそうだな……気をつけて」 「ん。じゃぁ、兵助、またな」 「おぉ」 離別の挨拶を兵助に向かっていた勘右衛門は、不意に、俺の方に向き直った。 「ハチも……」 勘右衛門が言葉に迷っているのが痛いほど伝わってきた。またな、じゃない。さよなら、だから。 2010.12.25 p.m.7:26
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