「ごめん、仙ちゃん」 「いいさ。お前が謝ることじゃない」 ビール缶が散乱した中で文次郎は高鼾を掻きながら寝入っていた。ばかすかと飲んだビールはいったい何本になるだろうか。何も言わずにひたすらハイスピードでアルコールを呷っていた文次郎は、唐突に「仙蔵なんて、逢えるわけねぇだろ」と言って、こたつ布団に体を潜らせてしまった。それを、私はこの部屋で見ていた。-----------------見ていることしか、できなかった。 「ごめん」 うなだれる小平太に「気にするな」と、再度声を掛けたものの、私と爆睡しているヤツとを見比べ、「うん。けど、私がもうちょっと上手に話を運んでたら、文次郎に仙ちゃんのこと気付いてもらえたんじゃないかな、って」と呟いた。気落ちする小平太から「悪いのは、お前じゃなくこいつだからな」と、文次郎に視線を移動させ、ヤツを睨みつける。むぐ、っと鼻が詰まったような声を上げ、一瞬、気づいたのだろうか、と期待したが、すぐに、すぅ、と安らかな寝息に変わってしまった。 「ずっと傍にいるのに気づかない、文次郎が悪い」 *** ぱ、っと目を開けた瞬間、よく見知った景色が映っていた。文次郎の部屋だ、そう確信を持って思えたのは、高校生の頃------------私がまだ生きていた頃、よくこの場所に入り浸っていたからだ。家の離れであるそこは、トイレも洗面所も台所もあって十分に生活できるような造りになっていて、高校生の分際で生意気だ、なんて最初は思ったが、どうやら歳の離れた兄の結婚を機に追いやられたらしい。あまり詳しいことは聞かなかったが。まぁ、とにかく、大人の目から解放されているその場所は、居心地がよく、私は毎日のようにここで過ごした。自分の家で過ごす時間より、ここに居る方が、遙かに長かった。 (馬鹿でかい目覚まし時計、脱いだ物を入れるカゴ……あぁ、何一つ、変わってない) あの日、この部屋で「また明日な」と言って別れたときのままだった。あまりに見覚えがありすぎて、あまりにあの頃のままの光景で、忘れてしまっていた。ぼんやりと見回していると、ぐ、と寝言が布団の方から聞こえてきた。薄暗くて見にくいが、他にいるのはこの部屋の主ぐらいだろう、と近づく。 「アホ、そんなに被るからだ」 深く被った布団が息苦しいのか何か苦しげな声が上がるのが気になって、布団をちょっとどけてやる。その下から現れたのは、酷く苦痛そうな表情をしていた文次郎だった。ぐ、っと力が眉間に圧縮されていて避けるような皺が額にできていて、噛みしめる唇からは、悲鳴にも似た咆吼が漏れている。けど、それは何を言っているのか分からない。文次郎はあまりに苦しそうにしていて、面白がって見ている分には少し辛そうで、仕方ないから起こしてやろう、と思い、ヤツの肩を掴もうとして。 (っ) 手は、文次郎の肩をそのまま通り抜けてしまったて。思い出した。------------私は、黄泉がえってきたのだ、と。 (触れないんだった、か) 自分の体に刻み込まれている事実。自分が『逢いたい』と望んだ相手が、生きているその相手が『逢いたい』と望んだならば、黄泉がえることができること。その相手はもちろん、生前に関わりがある人であれば、己の姿を見せることができること。ただし、死んでいることには代わりがない。物に触れることはできても、生きているものに触れることはできない。そして、三日後には、また別れを告げなければならない、ということ。 (文次郎の部屋に来た、ということは、こいつが望んだんだろうな) 私に逢いたい、と。そうでなければ、今、私はこの場にいないのだから。文次郎が私と逢いたいと望んでくれれたことを、素直に喜ぶべきことなのか、分からなかった。文次郎が私のことをまだ忘れずにいてくれたことは嬉しい。だが、それが果たしてこいつにとって倖せなことなのか、と問われれば、ノーと言えるからだ。 (だいたい、冗談半分だったのだ) 文次郎に逢いたかった。それは嘘じゃない。確かに、『もう一度逢いたい人』と言われて、真っ先に浮かんだのは、文次郎だったのだから。だが、逢いたい、と望んだのは半分、冗談だった。自分が望んだとしても、文次郎が私を望まなければ、黄泉がえりは成立しない。もう文次郎は私のことなんか忘れているだろう、そう思ったからこそ、望んだのだ。逢いたい、と。まさか、文次郎が忘れてなかったとは、思わなかった。 (さっさと忘れてくれればよかったものを) こうやって苦しんでいても、起こしてやることもできない、役立たずの自分が黄泉がえってきた意味などあるのだろうか。そう思ったが、今更どうすることもできない。残された時間、私に行き場所はないのだから。とにかく文次郎に二日間だけ家に置いてくれ、と頼むしかないな、と *** だが、目を覚ました文次郎が私に気づくことはなかった。 「不思議だよなー私には見えるのに黄泉がえらせた文次郎には仙ちゃんが見えないんだから」 どれだけヤツの前に立ってみても話しかけてみても、全く反応がなかった。最初はまだ寝ぼけているだろうか、と思ったが、いつまで経っても文次郎が私の方を向くことはなくて、それで気が付いた。ヤツに見えてないのだ、と。黄泉がえらせておいて何なんだ、と腹が立って(自分のことは棚に上げておく)、どうにか気づかせてやる、と文次郎について回ったものの、ヤツは一向に私の存在を知ることはなくて。もしかしたら、誰にも気づかれないのだろうか、という思いが募り、私は近くに小平太が住んでいることを思い出し、会いにいったのだ。小平太には一発で気づかれて---------そうして、私は一つの可能性に思い当たった。 「まぁ、昔から文次郎は幽霊とか絶対に信じようとはしない堅物だったからな」 だから見えないのだろう、と呟けば、床に散らばったアルコールの缶を集めていた小平太の手が、ふ、と止まった。 「けど、ちゃんと言わせてくれればよかったのに」 「ちゃんと?」 どういう意味だ、という気持ちを込めて眉を上げれば、小平太は「ほら」と缶を机に置く作業をしながら話を続けた。 「『仙ちゃんが黄泉がえってきて、今ここにいるよ』って。そう私に言わせてくれればよかったのに」 小平太に黄泉がえってきたことと、それから、文次郎は気づかなかったことを伝えれば、小平太は「私に任せてよ」なんて、あっけらかんと笑った。どうするのだ、と問えば、「文次郎を呼び出す」と。この場で私が黄泉がえってきたことに気づかせよう、というつもりらしい。だが、私はそれを断った。 「……言った所で、私が見えなければ、同じだからな」 最初に自分が目を覚ました場所が文次郎の部屋だったから、ヤツも望んでくれたのだと考えていた。だが、幽霊を信じていない文次郎が、死んだ私に『逢いたい』と思うことなど、そもそもありえないのだ。たまたま、何か間違いがあって、私は文次郎の元に黄泉がえってきてしまったのだ。そうであれば、文次郎だけが見えていないという今の状況とに辻褄が合う。だとしたら、わざわざ見えない、気づいていないのに---------もう私のことなど忘れてしまったのに、今更、思い出させる必要もない。 (……このまま忘れてもらった方が、いいはず、だ) だから、私の存在を知らせようとする小平太の案を断った。小平太には悪いが、残りの二日をこの場所で過ごさせてもらえれば、それでいいと思っていた。だが、小平太は納得がいかなかったらしく、妥協案として、文次郎をこの部屋に呼んだのだ。----------------------------だが、結果は、何一つ変わっていない。むしろ、確信を得てしまった。やはり、文次郎が黄泉がえりを望んだ訳じゃないのだろう、と。 「ふん……呑気に鼾なんて掻いて寝てるとは、腹立たしいやつめ」 ぐぃ、っと頬でも抓ってやりたいところだが、あいにく、私の手はヤツを通り抜けてしまった。 (ここにいるのに、な) 2010.12.25 a.m.1:16
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