いつもと街の様子が違う、と気が付いたのは、昼も遅くに起きてきてからだ。階下に住む大家の老夫婦から「どうも、電気の調子が悪くてのぉ。ちょっと見てくれないか」と言われて、配電盤の所をみたけれど、電気は来てなくて。どうやらそれがこのアパートだけでなく街全体の問題らしい、いうのは、辺りを見回してみて、初めて知った。 (その後に勘ちゃんから来たメールには『仕事』と書かれていたけど、それと関係があるのだろうな) 急に仕事が入る、ってのは、相当、大きな事件なのだろう。勘ちゃんに聞くのが一番速いのは分かっていたけど、忙しい中に時間を撮らせるのは申し訳なくて、最初は携帯のネットで状況を調べていた。けど、そのうちに電池の残量が気になって、途中から見るのを止めてしまった。そうして、夕方になり薄暗くなった頃、また大家さんが訊ねてきた。チャイムが使えないからだろう、玄関のドアをノックする音に顔を出せば、そこにいるのは夕闇に包まれた大家さんの奥さんの方だった。 「あ、大家さん。まだ電気付かないですね」 「今日中の復旧は無理そうみたいね」 「そうなんですか……」 「あ、それでね、これ、よかったら使ってくださいな」 おっとりとした奥さんに手渡されたのは、いわゆる災害用のろうそくだった。ひとり暮らしのこの部屋には、ろうそくどころか懐中電灯すらなくて、すごく有り難いもので「いいんですか?」と訊ねつつ、俺はそれを受けとった。奥さんは「いいのよー。困ったときはお互い様でしょ。さっき、配電盤、見てくれたしね。まぁ、大丈夫だとは思うけど、火の始末だけ気をつけてもらえば」と柔らかな笑みを俺に向けた。ありがとうございます、と頭を下げれば、「おやすみなさい」と早すぎる挨拶を残して、次の扉へと向かっていくのを見送って、俺は中に戻った。雷蔵と勘ちゃんとの約束がなくなった今、特にやることもなくて------------気が付けば、俺は寝入っていた。 (まだ、暗いけど、いったい何時なんだ?) 時間の感覚がすっかり狂ってしまった。時計、と思ったけど、真っ暗で棚にあるはずのそれは音を刻むばかりで時刻までは分からない。電気を点けようと考えたけど、もしかしたら、まだ復旧してないのかも、とまずは携帯を探すことにする。曖昧な輪郭の中、探っていた手に固い物が当たった。引き寄せてみれば、捜していた携帯で、よかった、と安堵しながら開ければ、ぱっと光が暗がりを裂いた。 (まだ、日付を越えてないのか……) 普段ならまだ起きている時間だけに不思議な感じがする。まだ電気は戻ってないのだろうか、と携帯の明かりを頼りに、壁際のスイッチを手探りすれば、突起が指に引っかかった。ぱち、っと押してみたけど、茫洋と広がっている闇が消えることはなく、もう一度押し返してみる。やっぱり、変化はなかった。と、音沙汰もなかった携帯が、突然、震えだした。サブディスプレイには『勘ちゃん』の文字。 (あれ、どうしたんだ?) 用件メールには返信しなかったけど、それはいつものことで。今更、勘ちゃんから連絡がくる理由が分からなかった。何かあったんだろうか、と思いつつ「もしもし、勘ちゃん?」と出れば、ふ、っと一瞬、ラインを途切れたような間が俺たちの間に落ちた。それから「ごめん、こんな時間に」と勘ちゃんの声が聞こえだした。 「いや、いいよ。ちょうど起きたところだし」 「起きたところ?」 「そう。勘ちゃんからメールもらって、しばらくして寝ちゃったからさ」 そう説明すると勘ちゃんはどこか噛みしめるようにして「寝てたのか」と俺の言葉を繰り返した。どこかいつもと違う様子に、ちょっと不審に思う。何かあったんじゃないだろうか、と思ったけど、俺の口から出たのはどうしてだか「勘ちゃんは仕事上がり?」といった、当たり障りのないことだった。 「いや、まだ今から原稿書くんだけどね」 「え、そっか、大変だな。例の電気がこないやつだろ? いつ復旧するんだ?」 俺がそう訊ねると、また、妙な空白が俺たちの間をつないでいた。やがて、細い声が、ぽつりと俺の耳に届く。 「あ、ごめん。俺、そっちの担当じゃないんだ」 「そうなんだ。じゃぁ、なにか別の事件を抱えてるのか?」 俺の問に、今度こそ完全に勘右衛門は口ごもったのが分かった。こっちの息づかいが聞こえてしまうんじゃないだろうか、そう心配するくらいの静かな沈黙。あまりに静かで。静かすぎて、携帯にくっついている耳までが痛くなる。守秘義務的な事件だったのかもしれない、と思い当たって「あ、言えないようなことだったら、言わなくていいから」と付け足そうとしたけど、 「兵助」 びん、と心に真っ直ぐ響いた言葉に、その補足の言葉を俺は呑み込んだ。 「もう一度、ハチに逢いたいって思う?」 ハチ。不意に彼の口から出たその名前は、ずっと俺の中で生きている名前だった。 「……どうしたんだ、急に?」 勘ちゃんの質問の意図は、さっぱり分からなかった。どうして今ごろ、という思いが強かった。そうだ、今ごろ、だ。もうハチと逢えなくなって、ハチが俺の中だけで生きている存在になって、長い年月が経っている。あの頃のハチの身長を超すことはできなかったけど、それでも、ほとんど変わらないくらいには追いついたはずだ。それくらい、かけ離れてしまった。過去になってしまった。だから、どうして今になって、という思いが強かった。けど、「いいから、質問に答えて」と有無を言わせない口調に、俺は正直に伝えた。 「……逢えるものなら逢いたい、って思う」 すると勘ちゃんは「倖せになれないとしても?」とさらに、訳の分からないことを言ってきた。さすがに気になって「勘ちゃん?」と呼び止めたけど、「いいから、答えて」と強く言われてしまった。電話越しに伝わってくるいつになく真剣な声音は、俺に偽る隙なんか与えてくれなかった。すぅ、と一度だけ息を深く吸い込んで、それから答える。 「俺の倖せは、ハチといられることだよ」 「そっか……ならさ、願ってごらん。『ハチに逢いたい』って」 「え、ねぇ、勘ちゃん、それ、どういうこと?」 混乱する頭で何とか質問をしたけれど、電話口の向こうから聞こえてきたのは、どこか淋しそうな「また電話するね」という声と、それから、ぷっ、という通話が途切れた音。引き留める間もなく、「え、あ、ちょっと」と言ったときには、すでに俺の耳には通話を終えた後のツーという機械音が届いていた。 「何だったんだ?」 意味が全然分からなかった。いきなり電話が掛かってきたかと思えば「ハチに逢いたいか?」と問われた。ハチ。俺の中に棲んでいる彼の名を、俺はあの日以来、一度だって口にしたことがなかった。彼が俺の中に棲みだした日以来、一度も。だから、ああやって、他の人に口にされると、思い知らされる。--------俺の中に棲んでいるだけで、もう、生きてはないのだと。 (逢いたいに、決まってる) もう一度逢うことができたなら、どれだけ倖せか。その後に、どんな辛いことがあったとしても、もう一度ハチに逢うことができたなら、どんなことだって耐えることができる。何を代償にしたって構わない。ハチに逢うことができたなら、もう、他に何もいらなかった。 (ん?) と、玄関の方から何か聞こえたような気がした。なんだろう、と耳を澄ませば、扉を打ち付ける音。風か何かだろうか、と意識を向けていれば、また、音がした。緩急つけたリズムがあるそれは、自然の物じゃない。誰かがノックしているのだ。こんな時間に来るとなると、大家さんくらいしか思いつかなかったが、とりあえず出ようと、「はいはい」と声を掛けつつ、ドアへ向かう。やたらと急かすようなノックに、インターホンで確認することもせずに扉を開けて、 「はいはい。どちらさまですか?……っ、」 世界の全てが息を潜め、奇跡が佇むのを見つめていた。これは、幻だろうか。廃墟に残された、夢語りだろうか。触れてしまったら消えてしまうような、そのまま醒めてしまうような。いや、幻でもよかった。うたかたの夢でもよかった。もう一度、彼に逢えるなら。ハチに逢えるなら 「……ハチ?」 ずっと、心の中で呼び続けていた名前。あの日以来、一度も声にはしなかった、彼の名。それを口にしたとき、言霊は息づき、それは確かに現のものとなって。--------------------------------夢でも、幻でもない。確かにそこにハチはいた。気がつけば、俺は手繰り寄せ抱きしめられていた。ぎゅ、っと胸を押し当て、確かめる。その、彼の温もりを。奇跡を。 「兵助……逢いたかった」 祈ってた。奇跡が起こるように、と。もう一度、ハチと逢えるように、と。 -------------------------------------ずっと、逢いたかった。 2010.12.24 p.m.11:52
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