くるいざき



(雪が降りそうだな)

温かな日が続いたと思えば急に寒くなったりと、春立ちの暦を過ぎても天候は安定しないようで。
教室から見える空は低く、つやをなくした鋼のような雲が重たく垂れこめていた。
どことなくよそよそしさを覚えるのは、寒さのせいだろうか。



人の熱が失われた教室は、私以外に誰もいなく、ひっそりと、していた。
それでも完全な静寂というわけではなく、生徒のざわめきが肌に伝わってくる。
この放課後の委員会の時間は、開放感と疲労感が入り混じった、独特の空気が流れると思う。

(今日は委員会も休みだし。静かなうちに早く課題をしてしまおう)



机に向い書物を取り出したとたん、隠す気の全くない大きな足音が廊下に響き渡った。

(あぁ……できなかった)



「たーきー」

背後から覆い被さるような気配に思わず拳を構える。
鍛錬バカな先輩ならこれくらい避けれるだろう、と思ったけれど。
拳に残された衝撃に思わず振り返ると、俯き加減で顔を抑えている先輩がいた。



「たき、痛い」
「そうですか。で、何の用なんですか? 今日は委員会はないはずですけど」

涙目で訴えてきた先輩に構っているとキリがないと判断し、机に向かい直す。
書物に書かれている事に集中しようと、視界から先輩を追い出して、字面の一つ一つに齧りつく。
けれど、それを邪魔するかのように、先輩はわざわざ長机を回り込むと、私の前にどっかと座り込んだ。



「用はない」
「じゃあ、お引き取りください」
「用がなきゃ、滝に会いに来ちゃ駄目なのか?」

まるで仔犬のような純な視線が燦々と注がれて、絆される前に、こっちから外す。



「帰ってください。私も忙しいので」
「用がなきゃ、滝に会いに来ちゃ駄目なのか?」

一歩違えば、甘い睦言のように聞こえるだろう。
けれど、それも、先輩が言うとあっけらかんとしていて。
たちのわるい冗談のようにしか感じれず、あしらう様に答える。



「…ですから、私も色々と忙しいのです」
「じゃぁ、手伝ってやるよ」
「結構です」
「いいからいいから」
「結構って言ってるじゃないですか。……なんで、そんなに私に構うんですか?」
「好きだから」

歌うように、笑うように告げられたその言葉は、とても軽くて。
まるで、好きな食べ物や教科を告げられた時のようで。
こちらも軽く受け流す。



「そんな言葉、簡単に言っちゃ駄目ですよ」
「簡単なんかじゃないよ。滝のことが好きだって思ってるし」
「またまた」
「滝は努力家だし、友達や後輩想いだし。
 委員会だって一生懸命、頑張ってるし、そういうところ、いいなって思ってる」
「おだてたって、何も出ませんよ」

苦笑いをしながら顔を上げた瞬間、先輩の真っ直ぐな眼差しに囚らえられた。



(言わないでほしい、逃げ出してしまいたい)



いつか、その瞬間が来ると分かっていた。
それは先輩が私にじゃれついてくるようになった時ではなく。
先輩が睦言のような言葉を掛けてくるようになった時でもなく。

-----------私が先輩を『好きだ』と確信した時から、そう分かっていた。

(けれど、一生そんな瞬間がこなければいい、と思っていた)



「滝のことが、好きだ」

重く飲み下した唾が苦く、「嗚呼」と胸の奥に広がっていく。



「どうしたら、信じてくれる?」









「たき、七松先輩に竹取物語みたいなこと言ったんだって?」

櫛で髪を梳いていた手を止め、ぎょっと喜八郎の方を向いた。
すでに就寝の支度を終えた彼は、うつ伏せになりながら本を読んでいて。
訊ねてみたけれど興味がない、とでもいうように、その視線は文面を追っていた。



「は? 今、何て」
「痴話喧嘩の中で、この真冬に『満開の桜を見せてほしい』って言ったって」
「ちっ、痴話喧嘩って、私と七松先輩は恋人でも、何でもない。
 ましてや、夫婦など、断じてありえない!
 確かに、七松先輩に『桜を見せてくれたら信じる』と言ったが、
 断る口実というか諦めてほしかったから、そう言ったまでで…というか、何で喜八郎が知ってるんだ?」
「壁に耳あり障子にメアリー」

喜八郎のわけのわからない言葉を聞き流して、核心の部分だけ問い返す。



「つまり、盗み聞きしてたってことか?」
「私じゃないけどね」

あっさりと認められた言葉に、明日には尾ひれはひれがついた噂が触れまわるかと思うと、頭が痛くなる。



「あれ、どうしたの滝?」
「寝る」
「ふーん」

櫛を鏡台に投げつけるようにしまうと、そのまま布団の中に潜り込んだ。

(だって、どうせ、信じれない)












あの日、胸の奥に広がった苦味は薄れることなく、ずっと貼りついていた。

「たき」
「んー」

あの日とはうってかわって穏やかな陽気が、部屋の中に入り込んでいる。
ほんのりと色づいた空は、春のように柔らかく広がっている。
それでも、吹き抜けていく風は、まだ冷たい。

(七松先輩が来ないと静かだな)

あの日から、先輩と一度も会うことがなかった。
上級生は長期間にわたる実習もあるから、これぐらい会わないのも珍しくない。
なのに、気がつけば目は先輩の姿を、耳は先輩の声を、手は先輩の温もりを-----探してて。

見つからなくて、泣きそうになる。



「たき、脳みそ、溶けてる?」
「そーかもなー」

行儀が悪いと分かっていても、なんとなく力が入らなくて、机に雪崩れかかる。
机に触れた頬から体温が逃げ出すのを、じわりじわり、と感じていた。
隣にいた喜八郎が、ちらり、と視線を投げてきた。



「うん。最近、七松先輩、来ないね」

見透かした目の色に、用意しておいた言葉が喉につかえる。



「じっ、実習だろう?」
「けど、同じろ組の中在家先輩はいるよ」
「静かでいいじゃないか」
「淋しくないの?」
「べ、別に」
「滝は七松先輩が好きなんでしょ、何を迷ってるの?
 世間の目? そんなの今更じゃない。それとも、七松先輩に何か問題があるの?」

普段はあまり人の事に関心を持たない喜八郎が、珍しく口を出してきた。
問い詰めるような言葉は、けれども、優しくて。
張りつめていたものが氷解していく。



「違う。……違うんだ。先輩は悪くない。悪いのは、私なんだ」









「滝は馬鹿だよ」

私の話を聞き終わった喜八郎は、ぽつり、と呟いた。
自分もそう思う、と答えた私に彼はもう一度「馬鹿だね」と囁くように言った。
瞼が熱くなり、喉の奥からせり上がってきたものが零れそうになった瞬間、教室の扉が勢いよく開いた。



「たきっ!」
「な、七松先輩!? さっきの話、聞いてて」
「滝に見せたいものがある」
「え、ちょ、先輩っ!?」

気がつけば、俵のように肩に担がれた私は先輩の腕にしっかりと固定されていて。
反抗しようと手足をバタつかせても、びくともしなかった。
先輩は私の言葉を無視して喜八郎の方に向き直った。



「悪いな、綾部。滝を借りてくぞ」
「どーぞ。ちゃんと後で返してくださいね」
「おぅ」

ひらひらと手を振る喜八郎の姿が、あっという間に見えなくなった。
切りつけるような冷たい風が、熱を帯びた頬に気持ちいい。
目まぐるしく変わっていく景色は飛び去っていく。



「どこいくんですか?」
「秘密。あ、目、閉じててよ。楽しみが減るから」

ゆっくりと瞼を下ろし、先輩の長い髪に顔を埋める。
久しぶりに感じる温かさに、じわりと、また涙腺が緩む。
唇をぐっと噛みしめて、涙がこぼれ落ちそうになるのを堪える。

(最近、泣きそうになってばかりだ)



「滝、起きてる?」

誤魔化すように、「起きてますよ」と明るい声を張り上げる。



「もうちょっとだからな」
「先輩、汗臭いですよ」
「あー、ずっと桜捜し回っていて、風呂に入ってないから。ごめんな」
「……先輩は馬鹿ですよ」

ぽとん、と落とした言葉に返事はなかった。



「私はね、自分のことが信じれないのだ。
 どうして、先輩が私のことを好きなのか、分からない。
 先輩の言葉が信じれないんじゃなくて、そんな私がいることが信じれないんだ」
「滝は努力家だし、それで教科も実技も一番を取ってる。実は友達や後輩想いだし。
 委員会だって一生懸命、頑張ってる。そこを七松先輩は好きになったんじゃないの?」
「それは知ってる……けど、私が嫌な奴なのは、誰よりも一番私がよく知ってる」



喜八郎に告げた言葉が、ぐるり、ぐるり、と頭の中を回る。

(先輩の言葉を信じれない自分が、嫌いだ)









「滝、着いたよ。目、開けて」

耳元で柔らかく囁かれた言葉に従って閉じていた瞼を開け--------私は息をのんだ。
ふわふわと淡い紅に染められた世界が、そこにあった。
満開の、桜。


「これ……」
「長次に四季桜ってのがあるって教えてもらって。
 けど、普通は秋に咲くらしいから、狂い咲きをしてるのを探すのに手間取って」

先輩は私を肩からそっと降ろすと、柔らかな眼差しで私を包み込んだ。



「あのさ、俺は滝のことを信じてるよ。
 滝が滝のことを信じれなくても、俺が信じてあげるから。
 滝が滝のことを嫌いでも、俺はそんな滝もちゃんと好きだから。だから、それじゃ駄目?」

差し出された先輩の掌に、ゆっくりと指先を乗せる。



「駄目…じゃ、ないです」











(その温かさに、自分のことを好きになってみよう、そう思えた)