いてちょう

ふ、と透いた匂いが、胸いっぱいに広がる。
頭上に広がる空の色は色粉を水に溶かしたように淡く柔らかで。
穏やかな日差しに、ゆっくりと、季節が移ろいでいくことを感じる。



(あ、)

長屋と長屋に掛かる渡り廊下から、裏庭の隅にその背中を見つけ、慌てて飛び降りた。
軽く屈みこんだ青紫の衣は、まるで鋳型に押し込まれたかのように動かず。
足音を立てて近づく僕にすら、気づいてないようだった。



(兵助くんは、この頃、おかしい)

特別どこが、というわけではない。
今日の委員会だって、的確な指示を出していたし、僕の失敗もフォローを入れてくれた。
(あとで、目一杯叱られたのも、いつもと変わらない)
けれど、冬の入りに感じたその思いは、日に日に確信へと変わっていく。
ふ、とした瞬間、兵助くんの魂が身胸に閉ざされて、籠ってしまっているのを感じる。
まるで、蝶が自分で吐いた糸で身を留め、蛹になっていくような、そんな感じ。

(どうしたんだろう?)






「兵助くん」

呼びかけると、ゆったりと背中を流れる髪が振り子のように揺れ、兵助くんが振り向いた。
彼の瞳に一瞬浮かびあがった驚きの色は、すぐに、苦笑にかき消された。
まるで、気がつかなかった自分を嘲笑うかのように。



「…あぁ、斉藤か」
「どうしたの?」
「凍て蝶を見てたんだ」
「いてちょう?」

僕の言葉に「あぁ、」と少し場所をずらしてくれて。
ひょい、と覗き込むと、この季節でも青い葉に、枯葉のようなものが引っかかっている。
強い風が吹いたら飛ばされてしまいそうなそれは、よく見ると産毛のようなものが柔らかく密集していた。



「あー虫の蝶か」
「そう。凍てつく蝶で、凍て蝶」
「冬でも蝶っているんだ。けど、茶色だから蛾みたいだね」
「あー、そうかもな。ま、でも、翅を閉じてるから蝶だろうけど」
「そうなの?」
「まぁ、多少例外もあるらしいけどな」
「詳しいんだね」
「あー、前にハチ、あ、竹谷のことな、に聞いた」

僕が知らないと思ったんだろう、兵助くんはわざわざ注釈を付け直した。
その律義さが彼らしくて、思わず笑みが漏れた。
と同時に、一陣の淋しさが胸を冷たく突く。

(僕は兵助くんの事をたくさん知ってるけど、兵助くんは僕の事に興味がないんだろうな)

そう思うだけで、竦んでしまう。
浮かび上がってくるこの想いを、告げることを。
今の関係で十分じゃないか、これ以上何を望むんだ、って。

----------- 今以上の関係を希いながら、そうやって、押し隠してきた。



「そうなんだ」

胸の痛みを誤魔化すように蝶へ手を伸ばして、その頑なに閉ざされた翅に指先が触れた瞬間、
「斎藤」と鋭い声に咎められた。



「触ると、鱗が落ちて弱っちゃうから」
「あ、ごめん」

人差し指と親指をすり合わすと、ざらり、と僅かな感触が灯った。
光を反射する鱗粉は、こすってもこすっても消えずに。
指に刻まれた紋様に入り込んでしまった。



「あんまり長生きできないだろうけど、せめて、な」
「長生きできないって?」
「こいつらさ、春の陽を浴びることはできないんだと」

兵助くんは、春のように暖かな、愛しむような笑みを蝶に向けた。

----- その表情に、見惚れる。

(いつか、その眼差しが僕に向けられればいいのに)






不意に甘やかな風が僕たちをかき分け、目に鮮やかな紫色が過った。

「あ、」
「飛んだ」
「あぁ」

見上げた先に開いた翅が、ひらり、ひらり、と光を零す。
穏やかな日差しに鱗を煌めかせながら、水色の空へと飛び立っていく。
どちらからともなく、ほぉ、と嘆息が漏れ、僕たちはその蝶が見えなくなるまで、そこに立っていた。



「外が茶色だったから、中も同じような色だと思ってた」
「確かに、綺麗な紫だったな」
「僕たち四年生の色だね」

冗談めかして言った僕の言葉に、兵助くんは、ふ、と押し黙ってしまった。
そのまま、ゆっくりと深みに落ちていく彼の面持ち。
眉間に刻まれた皺の険しさに、言葉が出ない。

(兵助くん?)



「……あのさ、斎藤」
「なぁに?」
「綾部って、どんな奴?」

突然出てきた名前に、じわり、じわり、と心臓が固まっていく。
嫌な予感に、なんとなく兵助くんの方が見れなくて。
蝶が飛び去った空に目を向け、答える。



「綾ちゃん? 面白いよ。綾ちゃんがどうかしたの?」

凍てついた空気も緩み、どことなく空にも優しい色が広がっている。
降り注ぐ日差しに混じる淡い匂いは、梅の香だろうか。
和やかな温かさに、僕たちは包まれている。

-------------けど、これは偽物の春だ。だって、凍て蝶は、春の陽を浴びれない。



「な、何でもない」

そう答える兵助くんの声が慌てているようで、胸にとぐろを巻く嫌な予感が、確信に変わった。











(春は遠くて、遠すぎて…きっと、僕のところには来ない)