かざはな
足下に違和感を覚えた時には、遅かった。 落下するのを耐えようと、もがくように手を振り回すと、誰かに掴まれた。 けれど、重力に逆らうことはできず、そのまま、唐突な暗闇に、視覚が奪われた。 「大丈夫か?」 「その声、兵助くん!?」 「あぁ、お前が落ちそうになるのを見かけたから。…間に合わなかったけどな」 「ごめんね、巻き込んじゃって……」 「斉藤が謝ることじゃない」 それより重いから退いてくれ、と闇に落ち着いた声が響いた。 耳元の温かさに、改めてその近さを知る。 慌てて退くと、少し、その温もりが遠ざかって。 (ちょっと、ラッキー、かな) 目が慣れてきたためか、ようやくおぼろげな輪郭を捉えた空間はひどく狭い。 二人でいれなくもないけれど、互いに重なってなんとかいられるような大きさで。 兵助くんに少しでも圧しかからないよう体を折り曲げようとして、鈍い痛みが足首に走った。 「っ」 「どこか痛めた?」 「あ、大丈夫。何でもないよ」 「斉藤、平気なふりをする方が迷惑だ」 低い声が鋭く飛んだ。 (あ、怒らせちゃった。どうしよう) 腫れかけているのだろう、だんだんと熱を帯びてくる足首を、兵助くんは無言のまま看やっていて。 そっと、気を使うように触れる、ひんやりとした兵助くんの優しい指先が、痛い。 足よりも、胸が、痛い。 「折れてはないけれど、この足じゃ、登れないな」 「ごめんね、」 「謝らなくていいから、今できる最善のことを考えろよな」 「こんな狭いところじゃのろしを……炊くわけにもいかない、よね?」 先日授業で習った知識を取り出してみたけれど、返事はなくて。 呆れかえったような兵助くんの視線を薄闇でも感じて、居心地が悪くなる。 取ってつけたように、否定の言葉を継いでみたけれど、彼の額の皺が深くなっただけだった。 「斉藤、火種持って火薬庫に入ろうとしてたのか」 「あ、」 「あ、じゃない。あ、じゃ。何回言わせるんだ」 兵助くんの硬い声に圧倒されて、謝罪の言葉すら発することができない。 これ以上嫌われたくない、って思いだけが、ぐるぐるとのたうち回っている。 (謝らないと。でも、許してくれないかもしれない) 「ところで、何か火薬庫に用があったのか? 今日は火薬を使うクラスもなかったはずだし、委員会もないし」 圧し掛かるような空気が、兵助くんの言葉で一変した。 ふ、と軽くなる胸内に、錆びついていた口が滑らかになる。 「あ、うん。ほら、昨日の委員会で火薬整理が終わってなかったでしょ」 「あー。よく気が付いてたな」 「兵助くんのことだから、一人で片付けるんじゃないかなって思って来たんだけど、そしたら」 「そりゃ災難だったな」 「うん。でも、」 (兵助くんと一緒なら、災難じゃないよ) 「でも?」 つい、滑り落ちた秘め事を兵助くんは耳聡く捕らえて、不思議そうに聞き返してきた。 「ん、何でもない」と誤魔化すと、それ以上追及されることはなくて。 安堵と淋しさの両方を覚える自分の傲慢さに苦笑する。 -----------言ったら、無事でいられない、のにね。 「にしても、随分、深くまで落ちたなぁ」 ため息まじりの兵助くんの声につられるように、視線を上げる。 ぽっかり、と射抜かれた円い空。 いつか街で見かけた南蛮の硝子みたいな硬そうな青がはまっている。 「あ、」 「どうした?」 「たぶん、この穴は綾ちゃんのだから、そのうち、綾ちゃんが見に来ると思う」 その時に引っ張り上げてもらおう、と言うと兵助くんが、よく気が付いたな、と笑った。 それは、先生が生徒を褒める時のような感じに似ていたけれど。 それでも、彼に認められた気がして、胸が温かくなった。 けど、 「綾部に言っとかないとなぁ。火薬庫の周りを掘らないように、って」 愚痴めいた言葉を零した兵助くんの表情は言葉に反して、柔らかい笑みを浮かべていて。 まるで春の陽射しのような、温かな眼差しを空に向けていた。 そう、愛しい人を見つめる時の。 -----------------どうして、僕じゃないんだろう。 「凍えそうだなぁ」 「斉藤?」 (言ってしまおうか。潔く言って楽になってしまおうか) ひらり。 口を開こうとした瞬間、白が僕たちの間を過った。 指先に落ちたそれは、じわり、と熱に溶かされて、水に帰った。 速く、遅く、鋭く、鈍く。 風に翻弄されて、辿りついた先で形を失っていくかに見えるそれは。 地面にしがみつき、斑模様を造っていく。 -----------------あぁ、やっぱり、潔く、なんて無理だ。 「風花か。道理で寒いわけだ」 しみじみとした彼の呟きに、「へくしゅん」と、僕はくしゃみで返事して。 我ながらしまらないなぁ、と思いつつ、隣に顔を向ける。 兵助くんの目に、呆れた色が戻っていた。 「斉藤、羽織は?」 「あ、部屋に置いてきた」 「これ、貸してやるよ」 厚い羽織を脱ぐと兵助くんは、僕の方に差し出した。 「あ、大丈夫だよ。兵助くんが着ていてよ」 「そんな唇青くして、大丈夫っつっても、言っても説得力がない」 「けど」 「俺の手伝いをして風邪をひかれたとなると、困るからな」 「じゃぁ、半分だけ」 しみ込んでくる兵助くんの温もりに、泣きたくなった。 (ごめんね、綾ちゃん。けど、やっぱり、諦めれないや) |