かんべに

銀鼠色の雲に覆われた空は酷く寒々しく、光が遮られているせいか、昼間だというのに随分暗かった。
長屋に自室に戻る途中で、ふと、教科の課題が出されていたことを思い出した。
自然光で机に向うには心もとない明るさに、少しだけ憂鬱になる。

(部屋の明かりの油は、まだあっただろうか)

そんなことを考え考え、長屋の戸に手を掛けた。



「あれ? 三郎?」
「あー雷蔵。おかえり」

白粉の鉢と刷毛を片手に長机の前に座っていたのは、三郎だった。
僕に挨拶を終えると、すぐに振り返り、置かれていた鏡の方へと意識を集中させているようで。
なんとなしに、三郎の背後にある壁にもたれ、彼がその顔に化粧を施していくのをぼんやりと眺める。



「どこか出かけるのかい?」
「学園長のお使いでね。何、すぐに戻るよ」

手慣れた様子で白粉ではたいた顔を整えて出来上がったのは、もう“僕”ではなかった。
そして、“三郎”でもなく。
そこにいるのは、町を歩けばすれ違う人すれ違う人が振り向くであろう、美しい人。





「さて、」

“彼女”は、鏡台の傍らに白粉を丁寧に戻すと、紅猪口に手を伸ばした。
湿気を嫌うからであろう逆さにしてあった猪口をひっくり返すと、表面が光った。
鏡台の載っている机に置いてあった燭台の光に当てられ、ねっとりとした糖蜜のような輝きを見せる。



“彼女”は、ほっそりとした薬指を咥えると、その指を猪口の中に戻し、ゆるゆると、柔らかく弧を描く。
しばらくして、もたげた“彼女”の爪先は、鮮やかな、くれないに染まっていた。
その色を、そっと、唇に置いていく。

(綺麗、だな)



「雷蔵?」

僕が見つめていたのに気が付いたのだろう、鏡越しに艶やかな唇が僕の名を紡ぐのが分かった。



「いや、きれいな紅だなぁ、と思って」
「あぁ、これは寒紅だからね」

特上品さ、と僕の方に振り返り、微笑む様は、まるでどこぞの姫君かと思わせる。
鏡の中にいる映し身ではないその唇は、匂い立つような赤に彩られていて。
“彼女”が三郎だ、ということが分かっていても、動悸がする。



「特上品?」
「遥か北の方の地では、夏ごろに摘んで、何度も洗って、臼で付き、丸めて、
 ふみしめて、外に干しては雨に気を使い、ようやく都まではこばれ、
 そこでまだ日も出ぬうちから紅だけを取り出し、絞り出し、刷く…気の遠くなるような話さ」
「へぇ。本当に手間がかかってるんだね」
「だからこそ、この玉虫色なんだろうけどね」

“彼女”は大事そうに紅猪口を包み込んだ手を見つめ、まるでそれに語りかけるように言葉を継いでいく。



「そうだ、雷蔵」

不意に跳ね上がった声に、瞳の奥に閃いた光。
鮮やかに染まった口角が悪戯っぽく、きゅ、っと上がって。
にやり、と笑った“彼女”はさっきと打って変って“三郎”そのものだった。



「寒紅は口中の虫を殺すって言葉、知ってるかい?」
「え、…あぁ、でも、迷信でしょ」
「迷信かどうか、試してみないと分からないじゃないか。実際、唇の荒れに紅はいいらしいぞ」
「へぇ、そうなの?」











(「雷蔵にも付けてやろうか、寒紅。もちろん口移しで」)