かじかむ
ずっと聞こえていた、衣擦れのような幽かな音が途絶えているのに気がついた。 読みかけの本を閉じ、夜着の上にはおっていたものを胸元で合わせて、蝋燭を手にする。 寝息を立てている留三郎を起こさないように、そっと、扉に手をかけ、僅かな隙間からすり抜ける。 一日中降り続いていた雪は、止んでいた。 「明日は、忙しくなるだろうなぁ」 ぼんやりと、ほの白い光が辺り一面を覆っていた。 闇目にも、ふかふかとした雪が、どかり、と積み上がっているのが分かる。 ふ、と上空を見上げると、昼間は厚かった雪雲は瓦解して、薄く膜が張っているような空合いだった。 (あ、まだ、しきみは残っているかな) 雪遊びに興じる下級生、雪中訓練に明け暮れる上級生。 冷たい中に居続けて、風邪を引く者や、氷の火傷を負う者も出てくるだろう。 体を温める薬草がどれくらい残っているか、ふと、そのことが気になって、医務室に足を向けた。 はぁ、と悴む手に息をかける。 生まれては、消え、また生まれていく白の連鎖。 温まった傍から、すぐに冷たさに侵食されていく指先。 これだけ寒いと、みな、素早く布団に潜り込んだのだろう。 弛んだ気配の寮長屋に背を向け、医務室のある棟に足を運ぶと、途端に人の気配が消えた。 きゅ、と廊下に足を滑らせる度に鳴る軋む音すら吸い込まれてしまいそうな、静けさに包まれている。 凍りついた手で医務室の戸を開けると、眩さに目が閃んだ。 「今夜は、満月だね」 月光が、差し込んでいた。 縁側の戸を開け放った前に、見覚えのある、少し丸まった背中。 深い闇夜の衣は、いつの間にか雲が切れた宙の明るさの前に、はっきりとした影を落とす。 「雑渡さん……何やってるんですか」 「何って、座ってるよ」 「そうじゃなくて」 「あぁ、雪を見ていた」 「…もう、いいです」 真顔で冗談のような事を言い、真意を汲み取らせない彼に、小さく苛立ちを覚える。 彼の怪我を見て以来、こうやって、時折やってきて。 僕に、酷く優しい睦言を置き去りにする。 「伊作くんを待っていたんだ」 --------------その度に、悴んで、動けなくなる。 「もう止んじゃったけど、来る途中も、雪、凄かったよ」 「…僕が来なかったら、どうするつもりだったんですか」 「うん。でも来てくれたでしょ」 向けられた穏やかな笑みに、ぐっ、と自分の手を握りしめた。 爪を掌に立てると、入り込んでいく痛み。 失いそうで、失えない。 (悴んでも、感覚は残っている) 「……縁側の戸を開け放つなんて、医務室で風邪を引く気だったんですか」 「雪を見ていたかったからね」 「医務室で風邪を引いたら、大馬鹿ですよ」 「そうだね。ちょっと、寒かった」 鼻声で未だ居座ろうとする彼を部屋の中に引きずり込む。 返す手で戸を閉めようとすると、「開けといて」と駄々っ子のように声を上げた。 無視しようかとも思ったけれど、騒ぎになって他の人が来るのもまずい、とその言葉に従う。 「うん。少しでも中に入ると違うね」 「温かくしないと、本当に風邪を引きますよ」 「あぁ、体、温めるのに手っ取り早い方法があるよ。酒を飲めばいい」 「僕、一応保健委員長なんですけど」 「真面目だね。飲まないのかい? けれど、酒は百薬の長と言うよ」 「傷が痛みますよ」 「じゃあ、代わりに伊作くんが温めてくれる?」 「遠慮しておきます」 棘の含んだ声で答えると、雑渡さんの肩が小さく揺れ、眼差しが緩んだ。 火がとっくに落ちてしまった炭は、硬い光沢を帯びていた。 再び火を入れようと、火種ににじり寄せようとしても、なかなか上手くいかない。 どこからともなく持ち出した酒に痺れを切らしたのか、「貸して」と僕の手から火種を奪った。 一瞬、触れた指先が、悴んだように、動かなくなる。 「随分と降ったね」 「そうですね」 「日差しが届かない所は、残るかもしれないね」 「そうですね」 火箸で転がした炭が、ちろり、と火に舐められ、僅かに火の粉が舞い上がった。 燗鍋の代わりの鉄釜からは、とろり、と甘やかな湯気が漂ってくる。 焔に赤く照らされた包帯と、そこに蠢く陰影。 「そろそろかな」 「そうですね」 「やっぱり、飲むんじゃないか」 からかう口調に僕が押し黙っていると、彼はくつくつと笑いながら二つの猪口に酒を注いで。 おもむろに酒器と猪口を一つ掴み、立ち上がって縁側に向かうと、僕を手招きした。 残された猪口を手に取ると、とぷり、と細波立った。 「伊作くんとね、雪見酒がしたかったんだ」 「そうですか」 雑渡さんはさっきから、猪口を傾け、ゆるりと円弧をそこに描いていた。 ゆっくりと温もっていく指先に、僕は猪口に口を付けた。 とろり、とした感覚が喉を通り抜けていき、胃の腑から熱が戻ってくる。 「月が出ていて、きれいだね」 「そうですね」 もともと、あまり身のあるような会話を、雑渡さんとしたことはなかったけれど。 今日の会話は、まるで糸のきれてしまった凧のようで、どこに行き着くのか見当がつかない。 「来る途中、木が雪の重みに耐えかねて折れていたのを見たよ」 「そうですか」 「でも、この学園は雪吊がしてあるんだね」 「えぇ。留さんとか、用具委員会の子を中心に毎年してます」 視線を遠くに投げると、学園長がお気に入りの大木には、幾重にも縄が渡されていて。 幹の部分は、すっぽりと、むしろに覆われいて。 丁重に、温かく保護されていて。 ----------------大事にされているのが、分かる。 (留さん、僕が部屋を抜け出したこと、気づいてるかな) 「伊作くん、」 ぼんやりと、同室の彼のことを考えていると、不意に、指先に彼の温もりがあった。 どさり、と重みに耐えかねた雪が屋根から滑り落ちるのが遠くに見える。 からからと乾いていく声で、かろうじて「何ですか」と問う。 「しばらく君に会えなくなりそうだから」 「…そう、ですか」 指先が、心が悴んでいくのを、僕は感じることしかできなかった。 (悴むんじゃなくて、凍りついてしまえばいいのに。そうしたら、何も感じないのに) |