さゆ
「ふぅぅ」 肩まで風呂につかると、ため息が自然と漏れた。 ぼんやりと顔を包む靄の柔らかな温かさが心地よい。 辺りに誰もいないと思うと、つい、ゆっくりと手足を伸ばしたくなる。 「あー気持ちいいなぁ」 掌で湯を掬うと、ゆらゆらと、波紋が広がって。 すっかり天井に溜まった水滴が、ぴちゃん、と頬に落ちてきた。 少し温くなってしまうとはいえ、人の入りが少ないこの時間帯が一番落ち着く。 (やっぱり、お風呂は、考え事をするのにもいいよな) それに、今日みたいに底冷えのする日は、お風呂に入って温めるのが一番だと思う。 「雷蔵」 呼ばれると同時に、脱衣所につながる扉が開けられた。 寝巻きに着替えた三郎の肩からは、ほこほこと、湯気が上がっている。 いつもなら、ぴん、と張った三郎の声が、水蒸気のせいかやんわりと反響する。 「何、三郎?」 「先に部屋に戻ってるぞ」 「分かった。僕は、もうちょっと浸かってくよ」 「いいけど、考え事をしすぎて、そのまま風呂で寝るなよ」 昔のことを掘り返して、三郎は冗談めかして笑った。 「子どもじゃないんだから」という僕の反論は、さっと閉められた扉に遮られる。 届かない文句に、もう、と口の中でため息を押しこめると、手で湯を汲んで顔を洗う。 (いつまで、からかわれるんだろうなぁ。随分昔のことなのに) 色々と考え込んでしまうのは昔からの性分で。 特に、お風呂の中となると、どれだけでも考え事ができてしまう。 一度、三郎があまりの遅さに心配してのぞきに来たら、僕は湯船に浸かったまま眠りこけていたらしい。 それ以来、僕が「もうちょっと入ってる」と言うと、三郎は必ず「寝るなよ」と言い含めて出てくのだった。 「雷蔵? 入るぞ」 心配そうなハチの声音と共に、そろそろと扉が開けられた。 そのとたん、中に籠っていた靄がもうもうと戸外へ飛び出していく。 それを手で追い払うようにして洗い場に入ってきたハチは、僕の顔を見ると、 「あぁ、起きてたな」 と安堵したように、表情を緩めて言った。 「ハチまで…」 「いやさぁ、あんまり静かだったもんだからさ」 「そんな心配しなくても、ちゃんと起きてるから。 ところで、どうしたの? もう風呂に入ったんじゃなかったっけ?」 さっき、脱衣所から入れ違いに出ていったのを思い出して訊ねる。 するとハチは「これに湯を入れにきた」と、腕に抱えた物を僕の方に突き出した。 時間をかけて水飴を煮込んだような、どっしりとした茶色の丸っこい陶器製のそれに合点がいく。 「あぁ、湯たんぽか」 「食堂の方は火が落ちててな。お湯を沸かすのが面倒だからもらいに来たんだ」 そう言うと、ハチは濡れないように寝巻きの裾をたくし上げて、膝の間に挟み込みながら、屈んだ。 彼が陶器の器を湯船に入れると、こぽこぽと、底の方から泡が浮かび上がる。 最初は大きかったそれは、だんだんと小さくなり、やがて途切れた。 「悪い、邪魔したな」 「ううん」 首にかけていた手拭いで湯たんぽの表面を拭きながら、ハチは僕の方をじっと眺めた。 「何?」 「相変わらず、雷蔵は長風呂だなぁ、と思って」 「そう?」 「俺なんか5分も入ってられないってのに」 「ハチは行水すぎるよ」 「そうか? 兵助や三郎だって似たようなものだろ。あ、そうだ」 湯たんぽを抱えて立ち上がったハチが、ふと、思い出したように声を上げた。 僕が目だけで「何?」と問うと、どことなく笑いを忍ばせた表情でハチは僕を見た。 中々、言いださずにニヤニヤと笑っているハチに少し苛立って、今度は「何?」と言葉にする。 「外で三郎が待ってたぜ」 「え? だって、先に部屋に戻るって、」 「ありゃ、ずっと待ってたって感じだな」 そう言うと、呆けた僕を残してハチは「じゃぁ、お先」と出ていった。 「どうしたの、三郎っ」 濡れた髪を拭くのもそこそこに、僕が脱衣所から飛び出すと、柱の陰に一つの影。 その三郎の背中が、へくしゅっ、とくしゃみに大きく揺れるのが分かった。 けど、鼻をすすりながらも「何が?」と平然としていて。 「何がって、」 「雷蔵が部屋に戻ってこないから、心配になって、今、見に来たんだ」 「うそ。ハチが」 「……ハチのやつ、言うなったのに」 「それに、こんなに冷たい」 三郎の手を取ると、凍ってしまった彼の指先を包み込む。 「いつも待ってるんじゃないよね?」 「まさか」 「じゃぁ、何で?」 「雷蔵と一緒に見たかったから」 「え」 ほら、と僕の手を解くと、三郎は宙を指さした。 凛と透き通った闇に、削り氷をまき散らしたような星。 割れてしまいそうな硬い天空で、ちかり、ちかり、と光が瞬き煌めく。 「わぁ、」 「外でたらさ、すごい星だったから」 「うん。すごいね」 まるで、そこだけが世界から取り残されているみたいに、僕たちは冴ゆる夜に佇んでいた。 「くしゅっ」 「うわっ、雷蔵、髪を拭いてないじゃないか。風邪をひくぞ」 「風邪を引くのは三郎のほうじゃない?」 (「風邪を引いたら、雷蔵に看病してもらうさ」) |