ふゆあかね


約束の時刻を過ぎても先輩は来なくて、あまりの静けさに落ち着けず、なんとなく部屋を歩き回る。
部屋に差しこんでいた光が弱まり赤味が増したような気がする。
隅の窪みに棲みついた陰が、また濃くなった。



「すまん、遅くなった」

降りかかった声に、心臓が大きく跳ね上がった。
振り返るも同時、さっきまで微塵もなかった先輩の気配が突如現れた。
足もとに長く落ちる先輩の影が、一歩、二歩と近づき、俺のそれに重なる。



「こっちこそ、すんません。演習があったんすよね。どうでしたか?」
「ふん、もちろん私がへまをするわけがないだろう」
「…そうですね。じゃぁ、引き継ぎ、よろしくお願いしまっす」

自慢話が始まりそうな気配に、慌てて、本来の目的を告げる。
少し出鼻を挫かれたようだったけど、先輩は「あぁ」というと懐から帳面を取り出した。
綴じられた部分は少しほつれ表紙は泥に汚れていたけれど、先輩の手つきに、大事に扱われてきたのが分かる。



「何っすか、それ」

その問いかけに、先輩はそこから柔らかな眼差しを外し、俺の方を見た。
帳面から俺の方に移動する、その僅かな間に先輩の目の色が、すっ、と変わった。
別に俺に向けられている視線が冷たい、とか、尖ったものになった、というわけではない。

ただ、同じでないということだけは、はっきりと分かった。



「これか? 体育委員会の友」
「体育委員会の友?」
「そう。委員会の内容やら、予算委員会での立ち回り方やら書いてある」
「そんなもの、あったんすか?」
「あぁ…代々委員長に引き継がれてるものだ。私も、二年前、七松先輩に頂いた」

七松先輩、と綴る先輩の唇は、とても愛しそうで。
再び、帳面に戻された視線は、とても温かで。
それは、俺にきっと向けられることのない、もの。

(こんな所にも、七松先輩、か)

卒業を機に会うことのなかった七松先輩は、けれど、この二年もの間ずっと忘れることがなかった。
振り払っても振り払っても決して切り離すことのできない影のように。
いつも、どこかで七松先輩を感じていた。

---------------俺と、それから、きっと、滝夜叉丸先輩も。



「じゃぁ、私が読んでやるから、よく聞いておくんだぞ」

帳面に先輩が目を落とすと、つい、と睫毛の影が長く落ちた。
滔々とよどみなく流れていくその声は、まるでせせらぎのように心地よく。
迷いなく動き言葉を紡ぎ続ける、その柔らかそうな唇を、ただただ俺は眺めていた。








「っ! 三之助っ」
「え、」

不意に、耳朶に熱が吹き掛かった。
それが、間近にある先輩の声だと気づき、思わず後ずさりする。
胸を穿ってそのまま飛び出してしまそうな心臓を服の上から押さえつける。


「どうした?」
「…いえ、先輩の声の大きさに吃驚しただけです」
「お前がちゃんと聞いてなかったからだろうが」
「聞いてましたって」

慌てて笑顔も繕ってみたけれど、先輩はちっとも信じてないようで、疑いの視線を俺に注ぐ。


「じゃぁ、今、私がなんと言ったか言ってみろ」
「えーっと、…何って言ったんすか?」
「お前なぁ」

呆れたように、わざわざ大きく溜息を吐きだし、先輩はこめかみの辺りを軽く揉んだ。

「もう一度言うから、今度はちゃんと聞いておくんだぞ」









ゆっくりと力を失っていく西日は、山の先端に引っ掛かりそうなほど低い位置まで来ていた。
差し込んだ陽光が見切れていく部屋は、少しずつ昼間の熱が失われていく。
風に運ばれてきた土の匂いには、夜の冷たさが滲みだしている。



「…というわけだ」
「とりあえず、予算をもぎ取ればいいってことっすね」
「お前、無理やりまとめたな」
「まぁ、事実じゃないっすか」

軽口に似た俺の返答に、先輩は盛大な溜息を零した。



「そうだが…とりあえず、引き継ぐ事項はこれだけだ。何か聞きたいことはあるか?」
「今のところは。分からないことがあれば、先輩に聞きに行くからいいっすよ」
「私が卒業するまではな。基本的なことは、これに書いてある」
「了解っす」
「じゃぁ、これを渡しておく」

先輩はいじらしく帳面を一度撫でると、それから名残惜しそうに、ゆっくりと、手放した。
俺の手に移されたそれには、先輩の温もりが残っていて。
薄れていく温かさを、握りしめる。

(今日言わなければ、きっと、二度と道が重なることはない)



「不安か?」

俺が黙り込んだの理由をそう捉えたのだろう、俺を覗き込むように先輩が訊ねてきた。

「……まぁ、それなりに」
「三之助なら大丈夫だ」
「明日は槍が降ってくるっすね。先輩に褒められるなんて」
「あのなぁ…これでも、私はお前を認めてるんだぞ。
 三之助が四年になっても体育委員会に来てくれて嬉しかった。正直、不安だったからな」
「俺も先輩でよかったっすよ。七松先輩よりは体育会系が減ったし」
「お前なぁ。……さてと、そろそろ食堂に行かないか?」

演習中はまともなものが食べれなかったからな、と入口に向かう背中が、あの日の背中と重なる。



(俺は、後悔したくない)

そう思った瞬間、今にも折れてしまいそうな先輩の細い肩を力づくで引き戻し振り向かせていた。
咄嗟のことだったのだろう、その反動のままに、俺の腕の中に収まった。
驚いた表情の先輩に、言葉を紡がれる前に、ふさぐ。



「あの時、先輩が泣いたのが分かる気がします」

瞼の裏に、二年前の春先の出来事が浮かび上がる。
誰もいない裏庭にたなびいた煙を辿ると、そのもとに、紫色の衣に身を包んだ背中。
焔に呑まれていく若草色の、七松先輩の頭巾を見つめていた先輩は、全身で哭いていた。

(あの日から、ずっと-----------)



「三之助?」

問いかけの言葉が抱き締めかけた俺の腕に掛かる。
戸惑いの色を堪えた眼差しが俺を見上げていた。
山の向こうに夕日が消えた。



「俺、先輩のことが……」











(落ちていく残照は、あの時の先輩の制服の色と同じ、深い深い紫色だった。)