さくらあめ
閉め切った部屋に冷たい土の匂いが、ひそりと染み入ってきた。 明かり採りからのぞく光沢のないざらりとした曇天から細々と糸のような雨が垂れ下がってきていた。 薄暗さに参った眼孔に鈍い重さを感じて眉間の辺りを指で揉みほぐし、再び、書物の方に目を走らせる。 五月蝿い同居人のいない間さっさと読み進めよう、と思っていたそれの頁を繰る手は遅々としていた。 教師からは難攻不落と手渡されたが、その称号にふさわしいものだった。 一見すれば単なる軍記物で低学年でも十分に楽しめるだろう。 しかし、その平易な言葉によって幾重にも隠された戦略の奥深さ確かなもので、それを解き明かした時の快楽は言葉にできなかった。 知識の海に、どっぷりと溺れて行く-------------- どれくらい経ったろうか、ふいに、頬を撫でる湿り気が強まった。 「目が悪くなるぞ」 五月蝿い同居人が帰ってきたと、それまで吸いつくように見ていた書面から顔を上げ、投げられた声の方に目を向ける。 縁側に立つ文次郎からは、どこもかしこも一段と暗い色合いに変色していて鬱蒼とした衣を纏っていた。 鍛練上がりなのだろう、仄白い蒸気が肩先から、ゆらゆらと上がっていた。 「えらい濡れようだな」 深草色の制服からは滴り落ちそうなほど水気を重く含んでいるのが見てとれ、思わず視線を景色に飛ばす。 けれど、目にはほとんど形が捉えれないほど細い小糠雨はさっきと変わらず。 どうすれば、水に潜ったかのように濡れることができるのか。 (まぁ、どうせ文次郎のことだ。雨にも構わず、ずっと鍛錬をしていたのだろう) 額に貼りついた髪を払いながら「水も滴るいい男だろ」と冗談にしか聞こえない言葉をのたまう文次郎に、間髪入れずに返答する。 「アホ。濡れ鼠の間違いだろうが。 その格好で中に入ってくるなよ。床が濡れる」 私の言葉に文次郎は唇を歪め、けれど、文句を口にすることなく腰ひもに手を掛けた。 どっぷりと濡れているから衣が体に絡みつくのだろう、手こずりながら引きはがしていた文次郎がちらりと私の方を見た。 物欲しげな視線に文次郎の求めているものが分かり、深く吸い込んだ空気をため息に代え、手元にあった手拭いを奴へと投げつける。 空中でそれを受け取った文次郎は、縁側にどっかと座り込むと肌蹴た肩の辺りから垂れてくる水滴を拭い始めた。 「さっさと、体を拭け。また風邪をひいても知らんぞ」 「そしたらまたお前に看病してもらうさ」 いつぞやのことを思い出し、奴をからかってやろうと言ってみたけれど、文次郎の方が上手だった。 するりとかわされ憮然と無言で睨みつけた私に、くすり、と文次郎の奴は余裕の笑みを漏らした。 頭の一発でも叩いてやろうと近づき、ふと、奴の髪に何かが付いているのに気がついた。 「お前、頭に何付けてるんだ?」 「頭に?」 汗と雨とが混じった青臭さの立ち昇る髪に、淡い紅の一片。 「花びら、か?」 指で梳くようにして、髪に絡め取られていた花びらを掬いあげる。 力を込めてしまえば破れてしまいそうなほどの薄さに、自然と指先の力が抜けた。 そっと摘んだそれを見せると、奴は意を得たようで、「あぁ」と納得するように頷いた。 「さっき、桜の木の下を通ったからな」 「優雅だな」 「そうか? まぁ、見事だったが」 「今日あたり、満開か?」 「あぁ。けど、この雨じゃ、あまり、もたないだろうけど」 すぐ傍に桜木があるわけでもないのに、まるであたかもそこにあるかのように、文次郎は外を眺めていた。 ずっと遠くを眺める眼差しは、移り変わる季節を惜しむかのように、脆く揺れていて。 けれど、全てを受け入れているかのような静謐さが、そこにあった。 ------------------- 死ですら、享受してしまうような潔さが、そこに。 「文次郎」 「何だ?」 「桜は好きか?」 「ん? まぁ、嫌いな奴はいないんじゃねぇか?」 不思議そうに言葉尻を上げた文次郎は、それでも、私の言わんとすることを汲み取ろうと、こちらに視線を注いだ。 いつだって偽りのない奴の双眸は、今日も何一つ変わらず真っ直ぐ私を見つめていて。 けれど、そこに映り込んでいる私は、いつもと違ってぐらついているのが自分でも分かった。 自分でも判別つくぐらいだ、文次郎にも伝わったのだろう、「仙蔵?」と困ったように私の名を呼んだ。 「お前は、桜に似てるな」 それ以上、言葉にすることができず、ただただ、きつく奴を抱きしめることしかできなかった。 (似ている。真っ直ぐに生きようとするところも、潔く散ってしまいそうなところも) |