ひなが
(時々、全てを投げ出したくなる) 流れゆく日々はせわしく、それでいて緩慢な日常を自分自身は楽しんでいた。 授業も委員会活動もそれなりに楽しんでいるし、仲間と過ごす毎日になんら不満はない。 けど、間欠泉のように吹きあがるその感情は、学年が上がることに増えているような気がする。 --------------------その正体を掴めない苛立ちを、ずっと、抱えていた。 その衝動に駆られた時は、たいていは気を紛らわせてやり過ごしていた。 からくりの製作に取り組んだり、は組の仲間を引っかけたり、手当てをする乱太郎に諫められたり。 主に餌食となる団蔵には爪の先程の僅かな罪悪感というものがあるような気もしていたけれど、その方法が一番いいのだから仕方ない。 それでもなお、どうしようもない時は、皆からひそりと離れることにしていた。 (はぁ) 布団も引かずに寝転んだ床は硬く、すぐに自分の体温が移った。 籠った熱が煩わしくて大きく寝返りをしたら、ガツッ、と足首の節を打ち付けた。 その骨まで痺れる痛みに思わず舌打ちが零れ、静まり返った部屋にやけに大きく響き渡った。 (今頃は、座学の時間か) ちらりと横目に入った影の長さから、そう判別するけれど、力の抜けきった体は床にへばりついたまま離れない。一日休めば、それを取り戻すためには相当な努力をしなければならなくなることは身を染みて分かっている。寝ていてもなんとかなった低学年に比べ、随分と学科の授業も難しくなってきたからだ。 (さすがに、マズイよな。もう、連続で三日も授業を休んでるし) 頭では分かっていたけれど、けど、どうしようもない倦怠感が足の爪先まで染み入っていて、もう一度、寝がえりを打った。 『技や術というのは乗算だ』 そう教わったのは、父からだった。 生粋の武士である父は、背中でしか語ってこなかった。 だからこそ、唯一、口にしたその言葉は、はっきりと刻まれている。 「一日休めば零を掛けるのと同義、か」 独り言のつもりで呟いた自分の声の大きさに驚いて、そんな自分を嘲笑う様にため息を一つ、胸から押し出した。その途端、腹底に潜む苦々しさが溶けだして、口の中に広がっていく。また何かが音もなく自分の中に降り積もった。 それは、密やかに盛られ続けた少量の毒が体内に蓄積されていくような、そんな感覚なのかもしれない。 *** 人の温もりが感じれない静けさに慣れかけた耳が、小さな違和を掴んだ。 どことなく音程の外れた鼻歌と共に、軽やかに弾む足音が廊下から近づいてくる。 染みついた習慣というもは恐ろしいもので、気配を察知したと同時に敏捷な筋肉は反応を示していた。 一つ一つ順序立ってしか動けないからくりとは違って、人間の体というものは、ほぼ同時に動くのだろう。 さっきまでの怠惰な体はどこへ行ったのかというくらいの速さで、気がつけば身を起こしていた。 (誰だ?) 厄介になる相手だったら隠れよう、と目の奥が引き攣る程に意識を集中させる。 迷いなくこの部屋へと向かってくる足取りは、たった一人しかいない。 逃げ出そうと浮かしていた腰を、降ろした。 おそらく、きっと、どこにいたって彼は自分を見つけるだろうから。 「あ、いたいた兵ちゃん」 部屋にいない、という考えは微塵もないのだろう、確信のある声音が障子戸が開くと同時に聞こえた。 柔らかさの滲む笑みを覗かせると、何の衒いもなく部屋に踏み込んできた。 当然のようにからくりを避け、となりに座る。 「……どうしたのさ。今、授業中だろ」 自分のことを棚に上げて訊ねると、三ちゃんはそのことを含むように微笑んだ。 「兵ちゃんだって一緒でしょ」という言葉は咎めるような鋭さはない。 けれど、どことなくたしめるようなそれは、古里の母を思い出す。 「兵ちゃんと日向ぼっこしようと思って」 「日向ぼっこぉ?」 「うん。今日、いい天気だよ」 知っていた? と問いかける言葉に、思わず外に面する廊下の方を振り返る。 障子に濾過されて柔らかく届く光の明るさに、初めて気がついた。 感慨に耽っていると、不意に、腕を三ちゃんに掴まれた。 「外、行こうよ」 腕力は自分の方が上だから、振り払うこともできたけれど、「ねっ」と言う三ちゃんの笑顔に押し切られた。 *** 「暖かいねー」 「うん」 「随分、日も長くなったし」 温もりの溜まった縁側で、二人、会話らしい会話もせずに宙を眺める。 塀の向こうに見える山々は、白い霞に覆われて、その影だけがぼんやりと佇んでいた。 春が統べる空は長閑にどこまでも広がっていて、遠くに聞こえる小鳥の囀りは華やかだった。 (春だなぁ) 穏やかな陽気に眠気を誘いこまれて、つい、喉がかっぽりと開いて、 「「ふぁぁぁ」」 同時に生まれた欠伸に、思わず二人で顔を見合せて、また同時に笑いが噴き出した。 「「ぶはっ、!」」 腹から湧きあがる笑いについつい体が捩じっていると、積み重なっていた何かが雪崩打っていった。 「さ、三ちゃん、真似しないでよ」 「真似なんかしてないよ。真似したのは兵ちゃんの方じゃん」 「そんなことないって」 腹から湧きあがる笑いについつい体が捩じっていると、自分の中で積み重なっていた何かが雪崩打っていって、すっと消えてしまった。 笑い続けているうちに何が面白いのか分からなくなったけど、なんだか楽しくて、すっきりして。 久しぶりに、ちゃんと三ちゃんの顔を見たような気がした。 「三ちゃん」 「ん?」 「ありがとう」 ちらりと視線を投げた三ちゃんは、僕もちょうどサボりたいなぁ、って思ってたからね」と悪戯っぽく笑った。 (その温かな笑顔に、いつだって、救われる) |