夢を、見た。夢の中でも自分はこうやって寝転がっていて、その畳の目を何となく眺めていた。夢だ、と分かったのは、現実と少し違うところがあったからだ。そんな大きな差ではない。それが自分の部屋でないことと、その畳が完全に日焼けて茶色に変色していることだろうか。ただ、そのことで、あぁ、これは夢なんだ、と自覚した。この光景を私は知っている。なぜなら、それは私の過去だから。かつての私を夢見ていた。 (あれは、まだ、夏休み前のオフシーズンのことだ) 畳の色を見れば分かる。毎日、日に曝されたために表は色褪せた、縁の緑も薄まってボロボロだった。まだ畳替えが行われていない証拠だ。海水浴客が集まる海開きに合わせて毎年、行っているのだが、見た感じ、まだなのだろう。そうして、思い出す。この夢が、一年と少しだけ前のものなのだと。----------------まだ私は高校生だった。この町を出ていくかどうかを決める時期のことを、私は夢見ていた。夢と分かっていて、その夢にずぶりずぶりとはまりこんでいく。 *** 雨になるとこの辺りの音は息を潜める。寄せては返す波音も、喚き続ける海鳥の鳴き声も、船の警笛やエンジン音も。いつもなら、騒々しいまではいかないがそれなりにざわめいているそれらも、拡散し反響し合う前に、発せられたと同時に萎んでいく。全ては雨に吸い込まれ海に還ってしまったようで、とても静かだった。 (雨は嫌いじゃないんだがな) 開けっぱなしの窓の向こう、随分と低い位置に居座る雲は鈍色に滲んでいた。湿り気が混じっているせいか、入り込んでくる潮風が重たい。雨音は聞こえてこないけれど、普段よりも一層濃い潮の匂いに、まだ降っているのだろうと容易に想像できた。べっとりした空気はともかく、雨の日の静けさは嫌いじゃなかった。何もない、寂れて一見静かに見える町は、静かだからこそ、うるさかった。一度、細波立ってしまえば、いつまでもその余波が耳鳴りのように続く。噂は噂を呼び、次々と波紋が広がっていく。人の噂も75日、ということわざがあるが、この町ではそれは通用しない。本筋とは随分遠いところで一人歩きしてしまい、尾ひれはひれと巨大化してしまうのだ。そうなれば、どうすることもできない。------けど、雨の日は、それすら全部、海に吸い込まれたんじゃないか、って思えるくらい静かだった。 (だから、嫌いじゃないんだがな……暇なのがなぁ) 掌を枕代わりに頭を支えながら仰向けになり、内心で呟く。内心、というのは、口に出した所ですぐに静けさに溶け消えてしまうからだ。日頃に耳に障るくらいの生活の音ですら、雨と共に霞んで消えてしまうのだ。独り言など、あっという間に静寂に呑みこまれて、何事もなかったかのようにされてしまうのだろう。それは、あまりに淋しく、そしてどこか当たり前に思える想像だった。 (あー、暇) もう一度、心の中に吐き出し、体をぐるりと反転させる。今度は横向きになり、二の腕へと頭を収める。と、日焼けしきって緑から黄色を通り越し、茶色へと変色している畳が視界に入った。特にすることもなく、なんとなく、その畳の目を数えながら遠くに視線を繰り上げて行くと、すっかり朽葉のような色合いの畳に、机か何かを引きずったかのような跡が残されているのが目に留まった。 (そーいえば、そのうち畳替えか。面倒だな) 今、自分が寝転がっている部屋は、自室ではなかった。鉢屋の家が夏場に営んでいる民宿の一室。海に面した、一番眺めのいい部屋だった。そんな客室に自分がいることができるのも、今はオフシーズン真っただ中だからだ。めぼしいものが海水浴場しかないこの町は、観光客のほとんどが夏場に集まる。季節はゆっくりと熱に焦がれてきてはいるものの、もちろん、海に入水することはできない。海開きは、来月だった。こんな中途半端な時期にであれば海釣りに来るおっさんらが素泊まりに使う一番安い部屋ならともかく、この部屋が使われることはない。 (どーせなら、こんな暇な日に、畳替えでもすればいいんだけどな) ただでさえ寂れている風情をますます助長しているのが、この日焼けした畳の色合いだった。哀愁を醸し出しているそれは、海開きの直前、客室全部に渡って替えられる。夏の間だけ、ぴかぴかの草の匂いが漂うのだ。その手伝いに駆り出されることは長年の経験で分かっていた。こんな退屈な日なら喜んで、とまではいかないが、まぁ、手伝う気になれる。けど、実際に行われるのは、カビ防止のためにいつだって晴天の日なのだ。しかも雷蔵と遊びに行く約束をした日に限って、鉢屋家の一大行事である畳替えが行われる。 (雷蔵、) ふ、と思考に浮かんだ彼の名は、あっという間に私を捕えた。寄せては返す波が途切れることがないのと同じように、一度彼のことを思えば、己から切り離すことなどできない。自分にとって、彼はそういう存在なのだ。 (雷蔵はどうするんだろうな?) 休み明けに提出期限が迫っていた進路希望調査の存在が頭にちらつく。最初から答えは出ているのだ。この町に連れてこられて以来、『外に出る』が口癖だったのだから。行先は後回しにして、とりあえずそのことだけでも書いておけばいい。迷うことなどなにもない。--------はずだった。真っ白の紙は鞄の中に眠らせてある。 (つくづく自分らしくない) 別に何も書かずに出すことも考えれたが、最高学年に上がり教師の攻勢も強まってきたことから後々の事を考えると得策とはいえない。そう頭では理解していても、ペンを持つと、そこから進めなくなるのだ。 (……さよなら、が嫌だなんて) *** 別れることに、慣れているはずだった。夏場の観光業が主力となっているこの町に連れてこられて、おまけに家が民宿を営んでいるとなれば、当然、人の出入りは激しい環境に置かれて育ってきた。昼過ぎにやってきて、次の朝にはいなくなる。その繰り返し。淋しい、なんて感情を持つことはなかった。時には、一週間ぐらい滞在していく人もいて、仲良くなることもあった。話をせがむ私を可愛がってくれる人もいた。『外』に出たいと希う自分にとって、彼らの話はとても鮮やかに映った。だが、そうやって親しくなった人とも、そのうちに別れの朝がやってくる。ぱんぱんに詰め込まれた荷物と真っ黒に焼けた顔で「またな」と。それでも、淋しい、という感情よりも、もう話が聞けないのか、という残念な気持ちの方が先だった。 (私と違って、雷蔵は泣いてたけどな) 自分が雷蔵の家の店である本屋に入り浸っているのと同じように雷蔵が私の家の民宿にしょっちゅう遊びに来ていて。よく客に双子と間違えられたものだ。同い年で必然的に一緒にいるから、雷蔵も私と同様に(いや私以上に)客に可愛がってもらっていて。そんな彼らがいなくなると、しゅん、と雷蔵は萎れてしまうのだ。見送りの時に泣いていたことも、二度や三度じゃなかった。 (きっと、それが雷蔵らしい所なんだろうけど) そんな雷蔵の透いた心の部分を誰よりも愛しいと思う反面、きっと、自分は決してそうはなれないのだろうと痛感していた。「またな」という約束が果たされることよりも、二度と現れることがなかった人の方が多いけれど、それを淋しいと思ったことは一度もなかったから。出会いがあれば別れがある。それが当然だった。その乾いた関係が自分には丁度良かった。ひっそりと閉塞された空間だからこそ感じる煩さよりも、よほど自分に合っていると思っていた。別れが淋しいだなんて、一度も思ったことがなかった。 (けど、) 今、自分が抱え込んでいる感情はただ一つ。『雷蔵とさよならをしたくない』ということだけだった。 *** あの日、初めて感じた。『雷蔵と別れるのが淋しい』だなんて。 (馬鹿だなぁ、私は) ごろり、と寝返りを打った先に広がっていたのは靄がかかった黒だった。寝ている間に陽が落ちてしまったのだろう。光明の名残は勢いに乗る夜に食われんばかりになくなっていく。闇に陥墜するのも時間の問題だろう。畳に貼りついていたために篭っていた熱も、背中が開いたために風に撫でられて冷えていく。夕闇は、どこか秋の憂いを含んでいた。そう、波音は聞こえなかった。まるで、夢の続きを見ているみたいだ。けれど、雨は降っていない。波音の代わりに、どこか浮かれた空気感が私の耳を支配していた。 (あの時、はっきりと宿った想いを私はなかったことにしようだなんて……できるはずもないのに) ぐるりぐるりと考え込む思考は光さえ見失ってしまう。手探りをしようにも、己の指先すら見えないくらいの闇。そして、それは比喩だけでなく現実もだった。侵食していく闇に勝つ術がなかったのだろう。いつしか、さっきの僅かな残滓でさえも呑みこまれ光を失った部屋に、ただひとり。過るのは、夏祭りの日に目の辺りにした彼の面影。 (どうしてできるなんて思ってしまったのだろう。雷蔵の困った顔を見たから? それとも、) 不意に闇が震えた。マナーモードにしたまま放置してあった携帯だ。急に生まれた閃光はびかびかとせめ立てる。俺の目も、そして、気持ちも。サブディスプレイに刻まれた名前に、俺は顔を己の体にくっ付けんばかりに、頭を抱え込んだ。視界を闇に同化させていれば、ぷつり、とその振動が途絶えた。ほ、っとしたのも束の間、また、すぐに次の波がくる。 (しつこいな、勘右衛門も) 何回も繰り返されるそれに、出るまで掛け続ける、というやつの意気込みが伝わってきたが、俺は無視し続けた。そろそろ履歴が勘右衛門の名前で埋まるんじゃねぇだろうか、という頃になって、ようやくその振動から解放される。ほ、っと胸を撫で下ろし、俺は着信ありの文字を無視して携帯の電源を切った。 (何か、やけに静かだな) 唐突に落ちた静寂は驚くまでに息を潜めていた。いつもであれば、海水浴に行った客も釣りにいった客もひと風呂浴びて、食堂に集まる時間だ。一番、バタバタと足音が掛け巡って騒々しいというのに、今日に限って恐ろしいほどに静まり返っている。 (まさか、客が誰もいねぇってことはないよな) いくら盆を過ぎてから客足が少なくなるとはいえ泊り客が零ということはないだろう、と考えている思考の狭間に、じりりり、じりりり、とベルの音が入り込んだ。古めかしいそれは家の電話だ。家といっても番号は民宿のもので、一階のフロント(というか受付)にあるから私が取ることは滅多とない。まさか、母親までいないということはあるまい、と無視を決め込めば、案の定、階下で「はい、民宿鉢屋ですが」とよそ行きの母の声がしているのが耳に届いて、私は眠りに身を預けようとまた目を瞑った。だが、 「三郎―」 と、母親の覇気に邪魔される。寝たふりでもしようと思ったが、もう一度「三郎っ」と呼ばれた声には怒気が含まれていて、さすがに起きていかないわけにはいかない。何だというのか、と、橙の電球が吊るされた階段をのたのたと降りていけば、「電話」とフロントから出てきた母親にコードに繋がれた受話器を押しつけられる。 「電話? 私に?」 民宿の電話が話し中になっては困る、と中学も早々に携帯を持つ身となった自分としては、家電に掛けてくる連中に心当たりがなかった。誰、と聞こうにも「早く切りなさいよ」と急かされ、そのまま「もしもし」と喋ることしかできなくて。 「鉢屋、今、どこ?」 聞こえてきたのは勘右衛門の不機嫌そうな声だった。よく考えればあり得そうなことなのに、と心の中で軽く舌打ちする。今さら切るわけにもいかない。仕方なしに俺は言葉を返した。 「……家。家の電話に掛けて来たんだから当たり前だろ」 「そうだった。って、お前、携帯出ろよ。寝てたのか? もうすぐ始まるんだけど」 苛立つ勘右衛門を越えて聞こえてくる雑踏は楽しそうに弾んでいて、それで、ようやくさっきまで宿が静かだった理由が分かった。花火大会、だ。皆、早く飯を食べて、年に一回の花火大会に繰り出したのだろう。あいにくこの宿からは岬一つ向こうなために見えない。宿のマイクロバスに乗って近くまでピストン輸送する、なんてことを言っていたような気がした。 (あぁ、そうか、勘右衛門に花火大会のことオーケーしたんだった) 雷蔵と気まずいムードになってしまったのを感じて、だから「なかったことにしよう」って告げて。雷蔵には、いつも笑っていてほしかった。できることなら、私の隣で。だから、あの告白を取り消した。その時、雷蔵は何も言わなかったものだから、これで流れていくのだろう、と思った。そう感じたからこそ、勘右衛門に5人で見に行こうと誘われた時、躊躇いつつも「そうだな」と返事したのだ。もう、戻れたはずだから。告白する前まで。それこそ、あの想いを知った瞬間まで戻れないけれど、それでも、この夏が始まる前までには戻れたはずだった。けど、結局、戻れなかった。 「……みんな、来てるのか?」 「それが、雷蔵だけなんだよね。今、一緒にいるの」 覚悟を決め、ぎゅ、っと右耳に受話器を押し当て尋ねると、溜息混じりの返事が戻ってきた。勘右衛門の口から出た『雷蔵』という言葉に、どん、という振動が重なる。遅れて、空いていた左耳にも同じ響き。花火、だ。ぱらぱらぱら、と右の耳で音が散った。火の尾が落ちていく幻影が、瞼裏に浮かんだ。さすがに、反対の耳からはその音は聞こえない。同じ町内とはいえ、随分と遠いからだろう。雷蔵はどんな様子だ、そう聞こうと思ったが、代わりに出たのは別の言葉だった。 「兵助とハチもいねぇのか?」 「そうなんだよね。しかも、二人とも連絡取れないし」 「二人で楽しんでるんじゃねぇの」 「なら、いいけど。……じゃなくて、さ。来ないの? 」 「今から行ったって、もう、どうせ終わりだろ」 さっき始まったばかりとはいえ、花火大会の会場は海岸線をずっと辿っていった先で、歩いて行ったって30分以上は有に掛る。チャリは砂浜じゃ役に立たねぇ。岬の方から回り込むには峠を越えなければならないため、あまり変わりないだろう。支度をしたってクライマックスに間に合うかどうか微妙なところだ。私はそうはぐらかしたが、勘右衛門は核心を突いてきた。 「雷蔵がいるから?」 また打ち上がった花火の音が炸裂する。けれども、勘右衛門の声は、はっきりと私に届いた。きっと、隣にいるであろう雷蔵にも聞こえているだろう。遅れてきた振動が、胸をえぐる。潮の匂い。もはや、それが通り抜ける風に混じる本物なのか、それとも、己の胸に詰まっている涙なのか分からなった。ずっと怖かったのだ。雷蔵と離れるのが怖かった。独りになることが。---------けど、今、私の隣にあるのは、あの日感じた『淋しさ』だけだった。 「……すまない」 どう説明をすればいいのか分からず、ただただ、元に戻れなかったことを謝罪することしかできなかった。また勘右衛門に溜息を零される。それから少し呆れた口調で「何があったのか知らないけどさ、雷蔵も待ってるから……」と言われ、次の瞬間、「え、ちょっと、雷蔵!?」と、不意に、勘右衛門の声が跳ねあがった。何だろう、と思う間もなく、花火の音と共に割りこんできたのは雷蔵の声だった。 「三郎、今、そっちに行くから。逃げないで、ちゃんと話をしよう」 右耳に聞こえてきた振動からワンテンポ遅れて、私の体が震えた。 *** 気が付けば、私は真っ暗の海岸線をひた走っていた。ずっと怖かったのだ。雷蔵と離れるのが怖かった。独りになることが。あの『淋しさ』を感じることが。だから、ずっと逃げてきた。----------雷蔵が笑顔を見せてくれないから、と雷蔵のせいにして逃げていた。 (雷蔵は、一度だって私のせいにしなかったのに。ちゃんと、向き合ってくれていたのに) 潮騒に混じって花火の音が聞こえるが、まだ見えない。砂浜にサンダルを取られて、なかなか進めない。息が上がる。額から噴きだした汗が目に入って痛い。足がもつれ、こけそうになる。必死に踏ん張って、体勢を立て直し、また疾走る。前へ前へ前へ。雷蔵へと。 「三郎っ」 不意に、暗闇に声が弾けた。そこにいるのは、顔をくしゃりと歪めた雷蔵だった。きっと、私も同じ表情をしていたと思う。色濃くなる潮の匂い。込み上げてくるものに「雷蔵、」そう呼ぼうとしたけれど、声にならない。手を伸ばした。ふれた温もりを、今度こそ抱きしめた。 「私は、雷蔵が、好きだ」 潮騒と花火の音。そこに夏の終わりを知らせる虫の音が混じる。そう、季節は移り変わっている。夏が逝く。私がこの夏よりも前に戻りたいと思ったのと同様に、いつか、この夏に戻りたいと願う日がくるのかもしれない。けれど、もう二度とこの夏に戻ることはできないのだ。------------決して忘れられなくなった、この夏には。 「僕も、三郎が好きだよ」 0828
「あ、花火、終わっちゃったね。やっぱり、一緒に見れなかったや」 「……悪ぃ」 「楽しみにしてたのになー、花火」 「……すまない」 「……あ、部屋に線香花火ならあるが……」 「じゃぁ、まぁ、今年はそれでよしとするかなぁ」
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