「あ、雨」 僕の家に顔を覗かせたおばちゃん(三郎のお母さん)が「じゃぁ行ってくるわ」と出かけた途端、屋根を叩く音がした。ぱた、ぱた、ぱた、と間隔が狭くなっていき、やがて途切れることなく打ち付ける。窓を閉めようかどうか迷って、入り込んでくる涼しい風に、開けたままにしておくことにする。けれど、潮の匂いが断たれると、なんとなく落ち着かない。 「夕立か?」 電気も付けず薄暗い中をぼんやりと外を眺めていると、背後から当然のように三郎が入ってきた。振り向けば、さっきまで寝ていたのだろうか、ぼりぼりと頭をかいてだらしない恰好のままで。彼の眼は、まだ眠そうだった。くわぁぁ、と大きな欠伸を一つ。既視感を覚える。いや、既視感とは違うか。実際に目にしたことのある光景なのだから。いつだって、こうやって僕の部屋に入ってきて、何気ない時間を過ごしていたのだから。この夏を迎える前と、何一つ変わらない。-----------本当に何もなかったみたいだ。 (まぁ、そうなんだろうな。なかったことにされたのだから) 「さっき、雷、鳴ってたよ」 遠雷が聞こえたかと思うと、白い光に溢れていた空は一気に暗転して、分厚い鈍色の雲は世界から色を奪った。それでも、ずいぶん離れた所に雷雲があるのか、それとも窓から見えるのとは逆の方向から近づいているのだろう。稲光らしきものが奔る様子はないけれど、時々、腹の底から震えるような地響きが、雷の存在を示す。 「そうだったか? 私、聞いてねぇって」 「三郎、寝てたから。おばちゃん、大丈夫かな?」 彼女は雷が鳴っているというのに、「ちょっと、三満屋さんのとこに行ってくるわね」と出て行った。雨が降り出したからすぐに戻ってくると思ったけど、雨脚が強くなっても戻ってくる気配がない。滝のような雨に、窓の向こうに広がる世界は真っ白に煙り、ぼんやりと物の形が見える程に視界が悪い。 「あー、どうせ、くっちゃべってるから、しばらく帰ってこねぇよ」 そっけない物言いだったが、何だかんだ言っても、心配してるのだろう。そう言うと柱に身をもたれさせて座った三郎は、ちらりと視線を窓の外に投げた。つられるように見れば、雨に色を奪われた世界は、灰色に塗りたくられた絵のようだった。地面を穿つ勢いのある激しい雨音は、耳をつんざきそうなほどに痛く。雨に閉じ込められてしまった世界で、二人、ただただ、その景色を眺める。 --------------------この世で、二人っきり、みたいだ。 このまま、雨が止まなければいいのに、と一瞬だけ思う。それは、すごくすごく温かいことのような気もした。けれど、すごくすごく淋しいことのような気がした。 「……今週末じゃなくてよかったね」 耳に降り積む雨音は沈黙を嫌うかのように僕たちの間を取り持っていたけれど、その響きに馴染んでしまったためかフェードアウトしていき、やがて静けさが重たくなった頃、僕は薄闇にも三郎の怪訝そうな表情が見え、僕は、ちらりとカレンダーに視線を走らせた。僕の視線を辿ったのだろう、彼は「……あぁ、花火大会か、土曜日」と、誰に聞かせるでもなく呟いた。この田舎町の一大イベントが終われば夏が終わる。-------------僕と三郎の関係を変えた夏が、そして、そのことをなかったことにされた夏が、終わる。 「今年は課題とかないから楽だな」 「毎年、悲惨だったからね。花火大会も危うく行けなくなるとこだったし」 去年まではこの時期になるとたくさんの課題を抱えて唸っていたことを思い出してそう告げる。僕はどちらかといえば昔から計画的に宿題を進めるタイプだったけれど、三郎はといえばほとんどサボっていて、それこそ最終日まで溜め込む人だった。けれど、 「そうだったか?」 さらり、とした彼の言葉は、去年までのことなんて忘れてしまったかのような、何の感情も籠められていなかった。--------今回の事も、そうなってしまうのだろうか。一粒の雨が地に滲みいって他のそれと集まり川となっていつしか海へと流れ着いて元が分からなくなるように、この夏のことも、あの告白も、日常の記憶と同じように埋もれていって、そうして何もないことにされてしまうのだろうか。 「そうだよ。課題が終わったら花火大会、って頑張ったのに。もう忘れたの?」 「あー、何か、そんな気がしてきた」 「もー」 あの約束も忘れてしまっただろうか。ずいぶん昔にした、この夏の約束。 *** 「どうしたの、三郎?」 不貞腐れた面持ちで僕の部屋に入ってきた三郎に声を掛ければ「花火大会さ、やっぱり子どもたちだけじゃ駄目だとさ」と不服そうに彼は唇をさらに尖らした。 「やっぱり? 僕のところも駄目って言ってた」 「行くなら一緒にだってさ。ったく、日頃、放任主義なクセに何なんだよ」 冷たい匂いの充満する、薄暗い部屋の空気が、小さく揺れた。三郎は、潜むように笑っていた。きっと、同じことを思ってるのだろう。中学生にもなって、家族で、なんて。はぁ、と暗澹とした溜息を零した三郎は「あと二年は我慢かー」と視線を遠いところに投げた。 「高校生くらいになったら許可降りるかもな」 「僕のところは、どうだろう。下手したら高校でも無理かも」 友達同士で行くと告げただけで、すごい剣幕で反対された。そんな堅物な両親のことだ(僕の母親と三郎の母親は姉妹だけれども、どちらかといえば磁極のような反対の性格をしている)、あんまり期待しない方がいい、と自戒の意味も込めて呟くと、じゃぁさ、と三郎は僕の方に小指を立てた。 「大学生になったら、一緒に行こうな」 *** 子ども騙しの指きりげんまん。けれど、残された熱は確かに僕に残されたままだ。僕が覚えている約束を、三郎は忘れてしまったのだろうか。聞いてみたかったけど、尋ねるのが怖かった。もし忘れていたとしたら、そうだとしたら僕一人で騒いで馬鹿みたいだ。けれど知りたい気持ちもあって、ぐだぐだと悩みに頭を唸らせていると、不意に、過去が閃光に切り裂かれた。轟音が腹まで響き渡り、その振動に体が跳ねた。 「うわっ! びっくりしたー」 「結構、近かったな」 「うん。今のどっかで落ちたかなぁ」 「雷蔵、平気になったんだな?」 「え?」 「雷。昔は、あんなに大泣きしてたのに」 忍び笑いのような、無理に抑えようとして、喉からくぐもった笑い声が彼から漏れてくる。彼の黒い瞳には目の前の僕が映っているけど、きっと見てるのは昔の僕、だ。まだ、何も関係が変わっていない。ううん、関係すら始まっていない、無邪気なころの僕だろう。 「……そうだっけ?」 「なんだよ、忘れたのかよ」 からかいの含んだ眼差しの三郎に、心の中で答える。嘘、だよ。ちゃんと覚えてるよ。小さい頃、まだ三郎がこの町に引っ越してくる前のことだ。やっぱり、こうやって二人で留守番をしてた時のことだった。体の芯から響く雷鳴の中で、あまりの恐怖に僕はずっと泣きじゃくっていた。「大丈夫だ」と頭をなでてくれた、力強く包み込んでくれた、三郎手の温もりを。 (忘れることなんて、できない、よ) 三郎の言葉は、行動は、温もりは、ひとつ、ひとつ、僕に刻み込まれている。好きだ、と言われた前のも、言われた後のも。全部、全部。ひとつ、ひとつ、降り積もって、重なっていく。忘れることなんかできなかった。忘れることができるはずがなかった。そうして、気付いてしまった。 -------三郎との思い出と、三郎への想いが、今の僕をつくっている。 秋の、ふかふかの銀杏の絨毯を踏みしめるときに。冬の、音が吸い込まれそうな銀世界に耳をすますときに。春の、やわらかな風に渡っていく花の香りを感じるときに。そして、夏の海を見つめるときに。傍にいるのは三郎だった。いつの季節だって、晴れの日だって雨の日だって、朝だって昼だって夜だって。笑っていても、泣いていても、怒っていても、楽しんでいても。考えるのは三郎のことだった。目をぎゅっと瞑って走り出しても迷わず、そこに行き着く。--------------すべては、三郎、に。 「あの話、忘れてくれ」 そう告げられた言葉すら、忘れることはできない。 (……忘れたくない) また空が目を焼かんばかりの光によって切り開かれた。雷鳴が地面を叩き割る。ふ、と三郎に「雷蔵」と名前を呼ばれ、僕は「ん?」と彼の方を見遣った。青い焔が彼の瞳にゆらゆらと宿っている。何だろう、と身構えていると三郎は表情をくしゃりと歪ませた。泣き笑いのような面持ちで僕を見つめていた。 「今年の花火大会、私、行かないからさ」 「っ……」 「兵助とハチと勘右衛門とで楽しんで来いよ」 「……嘘つき」 「え?」 「約束したじゃないか。花火大会に行こうねって。大学生になったら一緒に行こう、って。三郎は勝手だよ。勝手に人のこと好きになって、勝手に告白して、勝手にやっぱりなかったことにしてくれ、って。そんなの勝手すぎる。勝手だよ。僕の気持ち、何にも考えてない」 ぎゅっと押しつぶされそうな胸の内を吐き出すと、薄暗い部屋の中で、僕の言葉はやけに生々しく響いた、気がした。あんなに煩かったはずの雨音をかき消してしまったようなくらい、はっきりと。瞼の奥に逃がしてしまった孤独はひそと濡れた。泣きたかった。 「……すまない」 「また、そうやって勝手に謝る。やっぱり三郎は勝手だよ。勝手すぎる」 「雷蔵?」 この土砂降りの雨みたいに、号泣したかった。 0824
「何で、勝手になかったことにしようとするのさ」
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