怒涛の忙しさだった盆を終え、久しぶりにバイトが休みだったというのに結局することもなくて、昼食を食べてからずっとだらだらと床の上で過ごしていたせいか、ちょっと体の節々が痛い。けれど、起き上がる気力はどうしても生まれなかった。熱ばんだ溜息を一つ吐き出す。ずっと体が重たかった。塩水が体に充たされておもりになってしまったかのようだ。塞がれた咽喉がひりひりしている。 (あーあ、もう今日も終わってしまうな) ごろり、と寝返りを打てば、遠く夕景にうっすらと白んだ一番星が窓の向こうで光っているのが目に留った。残照が染め抜く紫雲がうっすらとたなびく空は、どことなく哀愁を漂わせていて。お盆を過ぎたあたりから日が暮れるのが早くなったような気がする。いつしか聞こえてくる蝉の音色はひぐらしに変っていた。 「へーすけくん」 大きく弾んだ俺の名前を呼ぶ声に次いで、こちらの返事も待たずに階段を上ってきたきたパタパタと子どもみたいな足音が届いた。階下からだというのに、こうもはっきりと聞こえる声に、やかましい奴が来た、と思いながら伏せていた体を浮かせる。けど上体を上げるまではいかず、頭を掌と肘で支えながら。と、そこに再び「へーすけくん」と。首だけ回せば想像通り、淡い影の中、向日葵の色を写したかのような眩い金髪がさらさらとを揺らしていた斉藤がそこにいた。それから、もう一人。 「あれ、勘ちゃん」 斉藤の気配に気を取られていて、足音が二つあることに気付かなかった。のそりと起き上がりながら「どうしたんだ?」と尋ねると「バイトが暇だったからさ早く上がろうとしたら、偶々、タカ丸さんと会って」と勘ちゃんは事訳をしてくれた。毎年そうだ。この時期になるとクラゲが大量発生して、時に遊泳が楽しめなくなるのだ。元々、全国的に有名な海水浴場でもなんでもない。近くの都市部から人が来るだけにすぎず、そういった客は大抵、お盆までに遊びに来てしまう。送り火を終えればこの町からは人影が消え、急速に閉ざされていくのだ。 「兵助に用事があるって言うから、連れてきちゃったけど」 よかった? と目だけで問う勘ちゃんに俺は内心だけで溜息を洩らし、唇を引き上げて形を整えた。何とでもない、と装う必要もなく、自然と「あー、別にいいよ。暇してたし」という言葉が零れる。けれど、俺を見遣る勘ちゃんの眼差しは、まだ、心配そうに波動していた。 「そう?」 「あぁ。まぁ、座ってよ。今、飲み物、持ってくるから」 立ち上がった俺を勘ちゃんは「悪い、俺、これから家庭教師のバイトがあるんだ」と手で押しとどめた。だから帰るよ、と続けた勘ちゃんは、最後まで案じるような面持ちを見せつつ、勘ちゃんは階段を下りて行った。斉藤に「ちょっと待ってて」と声を掛けて勘ちゃんの背中をつける。裏口でサンダルに足指を引っ掛けているところで、追いついた。 「ありがとな」 「え?」 「斉藤、連れてきてくれて」 あー、と濁す勘ちゃんはくしゃりと顔を歪めて俺を眺めていた。 (勘ちゃん、ずっと勘違いしてるよなぁ。俺と斉藤のこと) *** 斉藤と俺との関係を一言で表すことは、ちょっと難しい。一番簡素にまとめるなら、この前、ハチに告げた『高校の後輩』という言葉だろう。確かに高校の後輩だったのだが、斉藤はちょっと変わっていて年齢は俺よりも一つ上だった。中学卒業と同時に美容師を目指すと言って、一度街へと出て、そうして突然戻ってきたのだ。見た目といい経歴といい、三郎とは別の意味で異端児だった彼の噂は染料に布を付けたみたいに、あっという間に広がった。狭い町だし、歳もほぼ同じであるために面識はあった。ただ、俺と斉藤がたがいにきちんとを認識したのは、俺の在籍する高校に奴が入学してきて、委員会の後輩になった時だった。 (あぁ、こいつが斉藤か。噂どおりだな) 校則規定違反も甚だしい、太陽が透けてしまいそうなほどの輝きを誇る髪に俺はそんな感想を持った。噂で塗れた目しか持たなかった俺は、その色で見てしまった。どうせ軽い奴なんだろう、大して考えもせずに生きているのだろう、町から出て行ったのもどうせ逃げ出したのだろう、と。--------けれど、実際に接してみて、そうじゃないと知った。もっと大きなところで彼は生きているのだと、知った。 「手、どうしたんだ?」 夏だというのに冬場のような罅割れやささくれや目立つ指先は、いつも洒落た恰好をしてキメている斉藤には不似合いで。疑問に思って尋ねてみれば、ふにゃふにゃとした笑みを宿しながら「あー、薬剤で荒れちゃって」と斉藤は零した。 「薬剤?」 「パーマとかカラーリングとか、家でも練習してるから」 「……そんなことしてるのか?」 「うん。毎日、やらないと腕が落ちちゃうからね」 「……大変だな」 俺の言葉に「そーでもないよ」といつものように、へらりと笑った癖に、その後、不意に真面目な光を瞳に宿して、皸や罅割れでいっぱいの手を眺めて宣じた。太陽の下で輝く向日葵のような眩しい金髪が俺の目を射った。 「一流の美容師になるって決めたからね」 思い知らされた。いかに自分が狭く閉ざされた世界で生きていたのか、ということを。僅かにしか、本当に僅かにしか変化することのない、町。ゆるやかに自殺していくような、ただ時の流れに朽ちて行くのだけのこの町は、積年の色で染められていて。三郎を始め、多くの若者はこの町から出たがっていし、実際、高校卒業を期に離れる人が多かった。俺自身は閉鎖的な空気を嫌いつつも、けれども、そこにぴったりと当てはまっていたのだろう。成績優秀品行方正という言葉が通知表に並んでいて、疑問を持ちつつも、どうにかしようという気はなかった。 (けど、こいつは、そんな小さなことに囚われていないんだろうな) 以前に町を離れていったのも美容師の学校に入るためで、俺たち若年層が単にこの町を出て行きたがるのとは違う。この偏屈な町を出て行きたいのではない、街に行って本当に自分のやりたいように生きたい、そう願って行動しているだけなのだ。 (すごいな……) 斉藤に大して、恋情だとかそんなものは一切、持っていなかった。ただただ、その眩しさに羨望を覚えていただけだ。こいつみたいに生きれたら、と。---------だから、その宣言通り、斉藤がずっと入りたくて仕方なかった店に雇ってもらえることになって、また街へと出て行った時も、こいつらしいという感想しか覚えなかった。 *** 部屋に戻れば、俺の部屋の数少ない漫画を勝手自由気ままに読んでいる斉藤を見ながら、心の中だけで溜息を収めておく。 (けど、勘ちゃんは何か勘違いしてるんだよなぁ) 斉藤がいなくなった後、泣いたのは事実だった。ただ、理由は勘ちゃんが思っているようなこととは違った。勘ちゃんは俺が斉藤のことが好きで斉藤がいなくなったから元気をなくしたんじゃないか、と思ったらしい。けど、実際はと言えば、斉藤みたいな生き方に憧れながらも安寧とした生活を選ぶ自分に大して嫌気が差して、落ちていただけなのだ。けど、勘ちゃんにはしばらく慰める言動をされた。最初は「そんなことないって」と否定していたけれど、訂正すればするほど勘ちゃんが色々と思いを巡らすことに気づいて、途中で面倒になって放置してしまっていた。 (もしそうだったとしても、昔のことなのにな。それに今は……) ぱ、っと脳裏に浮かんだ大輪の笑み。そこにいるのはハチだった。明るくて優しくて温かくて、それこそ向日葵のような、まっすぐに咲き誇る笑顔。その笑みは俺を照らし出してくれた。ハチに想いを馳せていると、「てっきり、今日もバイトかと思ったら休みだったんだね」と残念がる斉藤の声が俺の思考を打ち破った。何を考えてるんだろう、と頭を被り振る。そうなら遊びに誘えばよかった、と大げさに嘆く斉藤に「というか、まだこの町にいたのか?」と言葉を投げた。 「酷いなぁ、兵助くん」 「お盆過ぎまでって言ってただろ」 まさか一週間近くも斉藤の奴が滞在するとは思っていなかっただけに、まだ残っていることに驚いてそう口にしたのだが、斉藤は気にいらなかったらしい。不服そうに唇を尖らせて「だって、帰るの淋しいんだもん」と呟いた。大の男がもんだなんて言っても可愛いともなんとも思えないのだが、言わないでおく。 「店はいいのか?」 「うん。明後日から出勤予定だから。明日の最終で帰るよ」 帰る、という言葉が、つきり、と胸に痛みを突き立てた。太陽の花のようなハチの笑みがそこに重なる。まだ夏だ。まだ夏は終わらない。なのに、呑みこんだ風の冷たさは、どこか秋の憂いを帯びていた。ひぐらしがぼんやりとした闇に溶けていく。--------別れなんて、慣れていたはずだ。ずっと、出会いと別れを繰り返す町で育ったのだから。この町は終着点にはなれない。皆、いずれは出て行く。別れには、慣れているはずだった。 (ハチだって、同じことだ) 「ちょっと会わない間に変わったよね、兵助くん」 「そうか?」 「うん。うまく言えないけど、空気が柔らかくなった」 薄暗い室内で、斉藤がどんな面持ちをしているのかは分からない。けど、きっとあの日と同じ真剣な色をその眼差しに宿している、そんな気がした。斉藤がゆっくりと紡ぐ言葉は、まるで去り逝く夏の遺言のようだった。深い深い哀しみが俺を覆う。じわり、と滲んでいく世界に俺の喉は海水で塞がれた。 「兵助くんを変えたのって、あのハチっていう人?」 0820
別れなんて、慣れているはずだった。なのに---------
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