ぐん、と空の果てへと丸い頭頂を伸ばす入道雲。先端の、きらりと跳ねかえる皓さに思わず目を細める。昇りきった陽射しは狂気じみた熱を膚に叩きつけていた。今日も暑い。だが、こうも毎日のように最高気温の記録更新と騒がれてしまえば、いい加減耳タコだ。とはいっても、体が慣れる分けはねぇ。昨日の暑さと今日の暑さの違いなど分かるはずもなく、上手いことパラソルの影に身を潜め、首にアイスノンを巻いてやり過ごすことしかなできなかった。

「ハチ、先に休憩、取るか?」

朝一番のピークを過ぎればしばらく貸し出した大きな浮き輪やビニール製のワニが戻ってくることはない。体力的な面を考えれば、海の家の中でも割と楽な持ち場だった。貸し出しの管理をすればいいのだから。ただ、直接文句を受けることも他と比べておおいからか、精神的には面倒な面もあるけれど。スタートが遅れた海水浴客の中には時々嫌な奴もいる。タイミングが悪く、他の客に全部押さえられていて貸し出すことができずに「すみません、今、全部出ちゃってて」と頭を下げると、舌打ちされたり文句を言われたり、小さな子に泣かれたり。時には罵声を浴びせられたり。けど、今日は気にならない。おまけに兵助と一緒だなんて、ラッキーすぎる。

「あー、兵助が先に行けよ」
「や、いいよ。俺、まだそんなお腹空いてないし」

あと一時間もすればお昼時になって海に出て行った最初の客が戻ってくる。そうすれば暫く忙しいのは目に見えていて、それまでに飯を腹の中に入れておかなければならない。少し先の砂浜はカラフルなパラソルが海風にはためいていた。ひときわ強く吹く風に、無意識のうちにBGMとなっていた客の歓声が大きくなる。と、足元を白が疾走った。

「っと」

誰かが棄てたのが飛んできたのだろう。コンビニの袋だった。ぱ、っと手を伸ばしたけれど、すんでの所ですり抜けられる。咄嗟に足で踏み押さえようと砂を蹴りあげたけれど、間に合わない。追っかけなければ、と反射的に飛び出した体は、けれど、その場で空回った。

「はい」

ド派手な蛍光色の海水パンツから視線を上にあげれば、その水着にも負けないほどの明るく色が抜かれた髪。太陽の加減もあるだろうが、本当に突き抜けるような金色をしていた。伸びやかに広がる水色の空とのコントラストが眩しいくらいだ。服装で髪型で相手を判断しちゃいけねぇ、ってのは分かっているけれど、目の前の男が明らかにちゃらそうな感じだったため、一瞬、俺はその似つかわない行動に見とれていて。その男に再び「はい」と白のビニル袋を突きつけられ「え、あぁ」と反応できた。男が拾ってくれたのだ、とようやく理解できて、慌てて頭を下げる。

「あ、ありがとうございます」

視界の隅に男のへらりとした柔らかい笑みが映った。そのおっとりとした物腰に、コイツいい奴なんだな、と思いながらいると、ようやく「いーえー」とのんびりした言葉が届いた。すると、彼の語尾が消えかかった所に「斉藤!?」と別の声が割り込んだ。ん? 兵助? 疑問が浮かぶ俺の頭上をさっきよりもペースアップした、弾んだ声が通り過ぎていく。

「あー兵助くん」
「どうしたんだ、お前」
「どうしたって、お盆だから帰って来たんだよ」

楽しげな会話に思わず顔を上げて----------上げなければよかった、と眼前の海の広さよりもまだ大きい後悔が過った。楽しげ、じゃなくて、本当に楽しそうだったから。兵助の笑顔は太陽に照らされた入道雲みたいに眩しいほどに明るかったから。

「メール送ったじゃない」
「あー、そういえばメール来てたなぁ」
「もしかして、っていうか、やっぱり読んでないの?」
「やっぱり、って何だよ」
「やっぱりはやっぱりだよ。家っていうか喫茶店の方にいるかと思って顔出したら、おじさんが、『海の家でバイトしてるぞ』って教えてくれたからいいもののさぁ」

口数の少ない兵助がこんなにも会話を弾ませているなんて、きっと長年の付き合いなのだろう。ぽんぽんと紡がれていく応酬に俺が口を挟む隙などなくて。黙りこんでいると、ふ、と言葉が途切れ、兵助が俺の方に向き直った。兵助に「あ、ハチ」と名を呼ばれ、こいつの紹介でもしてくれるんだろうか、と思っていたけれど、

「やっぱり、先に休憩もらってもいいか」

笑顔で言われてしまえば、俺は頷くことしかできなかった。



***

結局、その後は、いつもの休憩と同じ30分もすれば兵助は戻ってきた。さんざんどうするか迷って勇気を振り絞って「さっきの奴ってさ、」と問いかければ兵助は「あー、斉藤? 高校の後輩だったんだ」とあっさり告げた。不意に風向きが変わったせいで、目の前の砂が舞い上がり熱塵が直接頬を叩いた。目が明けてられなくて、一瞬、瞑る。

「美容師を目指してるとかで、この町を出て行ったけどな」

瞼を開けた先、ぽつ、と零した彼の面立ちに翳が潜んでいるような気がした。



***

空には青空を切り抜かんばかりに眩い白が盛り上がっていた。ただ、圧倒的な白は天頂に近い部分ばかりで、山際から降りてきた入道雲の底には翳が溜まりつつある。灰色を帯びている部分が増していけば、そのうち夕立に代わるかもしれない。ねっとりと湿気の含む風が体にまとわりつく。ふ、と視線を落として、すっかり黒くなったな、とタンクトップから伸びる焼けた腕に思う。まるで、どっか南の島にバカンスにでも行ったみたいだと。

(まぁ、実際、海ってことは変わらないんだけどな)

耳を澄まさなくても、この町にいればどこからともなく聞こえてくる波音。膚に吸いつくような潮風。この町をあるいている限り感じる海の気配。けれど南の島にはない陰翳が、ふ、と辺りを見渡せば潜んでいるのを何となく俺は感じ取っていた。たとえば、斜め向かいの土産物屋の剥げかけて下地の木が見える白壁だとか、民家のガレージの屋根の錆びつきとか。

(あ、兵助)

寂れた景色から目を引き剥がし前を向けば、少し先に兵助を見つけた。この炎天下だというのに日陰に入ることもせず、ぽつ、と佇んでいる姿は陽炎に溶けてしまいそうで。ぐらりと揺れる輪郭に、幻を見ているんじゃねぇか、って思わず自分の頭を疑う。けれど、いくつ瞬きをしても、その姿は消えることはなくて。

「兵助」

何をそんなにも眺めているのだろうか。あまりに真剣な眼差しで壁を見つめている兵助に、その場で声を掛けるのは何となく憚れて俺は彼に近づくと、残り5mといった所でようやく彼の名前を呼んだ。それまで、じぃ、と壁面に注がれていた視線が、はちり、っと弾ける。俺の方に体が向けられたために、それまで彼の身に隠れていたものがはっきりと見て取れた。

「花火大会?」
「あぁ。毎年、8月の最後の土曜にあるんだ」

この辺りでは一番大きな花火大会だな、とその後も続く兵助の言葉は半分くらいしか俺の耳に残らなかった。8月の最後。その先にあるのは別れでしかなかった。終わり。兵助と別れる日が、もうすぐそこまできているのだ。目の前にいるはずなのに急に視界が暗くなって、ぼんやりとした翳に覆われてしまい、兵助がどこか遠いところにいるような、そんな気になる。

「この前の祭りと、あとこの時期のお盆と並んで賑やかになるんだ」

その呟きを最後に兵助はまた視線をポスターに向けた。生温かい風が兵助の黒髪を巻きあげた。どこか土埃の匂いが混じりだしている気がして、視線を兵助から上空へと移す。さっきまでまっさらだった入道雲は、いつしか灰溜まりのようなものに代わっていた。夕立でも降るのだろうか。

「……それ、あいつと行くのか?」

兵助の表情を見ていられなくて、俺は視線を足元に落とした。急速に薄暗くなっていく空間の中で地面に貼りついている影はますます深みを増していく。かさついた唇が痛い。からからに乾いた喉に引っ掛かりつつも押し出した言葉は俺の心臓を破りそうだった。俺の躊躇いなど何一つ気にすることなく兵助は尋ね返してきた。

「あいつって?」
「……ほら、昨日、バイト先に来ていた斉藤ってや」

だんだんと小声になっていく俺の「奴」という言葉の途中で兵助は「あぁ」と理解したように声を上げた。それから、あっさりと否定した。「いや、斉藤とは行かないよ」と首を横に振られ、ほぉ、と息を吐いた。よかった、という安堵の勢いのまま、「だったら」と口を開きかける。俺と行かないか、っていう言葉を告げるために、勢いのまま顔を上げて。--------俺はまた海よりも広く深い後悔を自身の爪痕に刻み込んだ。

「あいつがいるのはお盆の間だけだから。明日には行ってしまう」

ぽつり。言葉だけでなく雨も零れてきた。兵助の眼差しは入道雲の底のように冥い。



0814

「この町は終わりの町じゃないんだ。通り過ぎてく町だ。みんな、出ていく。誰も残らない」