暑さのせいかまろみのある闇がずっと広がっていた。重なり合った熱の層を逃がすように、一つ、寝返りを打つ。どれだけ強制的に瞼で遮断しても、私を眠りに誘うことはなかった。耳鳴りがする。月の満ちが近いはずなのに、潮騒は聞こえてこない。もう遠ざかったはずの祭りの喧噪がまだ宿っているような気がした。咽喉を嗄らすような潮の香りの代わりに、とろりと夜に溶ける甘い匂いに頭が痛い。 (これで、よかったんだよな……) 期待していたわけじゃない。けれど、心のどこかで思っていたのだ。ひょっとして、私にとって雷蔵が特別であるように、雷蔵にとって私が特別なんじゃないか、と。自惚れだろうと何だろうといい。少なくとも好意がなければ、いつまでも我儘な私に付き合ってくれるはずもないだろう。 (けど、その好意が「Like」だったというわけだ) 私が胸にしたため続けてきた想いを告げた時、雷蔵の眼差しに浮かんだのは、それ以上の言葉を拒むものだったのだ。その目が叫んでいた。「言わないでくれ」と。それでも諦めきれなくて「一度でいいから、考えてくれないか」と頼んだ時も、ただただ、困惑を表しただけで。 (あんな困った顔をされてしまったら、望み薄だろうし) まるで自室と変わらぬように私の部屋に来ていた雷蔵は、その日以来、一度も顔を出さなかった。避けられていた。そして避けていた。バイトの持ち場が違うのは幸いと言うべきなのか。言わなければよかった、なんて私らしくもなく後悔をして。だから、「なかったことにしてくれ」と雷蔵に告げた。それで元通りに戻ることなどできるわけないなんて、分かっていた。一度咲かした感情を摘み取ったとしても、根は残るだろう。ずっと今まで育ててきた想いなのだ。決して、枯れることはないだろう。それでも、 (雷蔵の笑顔が見れないのが一番嫌だ) 雷蔵を困らせるくらいなら、雷蔵と気まずくなるくらいなら、開花した想いを散らしてしまうことなど簡単だった。あれは冗談だったんだ、と口にしないことが、せめてもの弔いだった。手折ってしまった感情への。雷蔵への想いへの。 「っ」 誰かに聞いてもらいたい衝動に駆られ、飛び起きて枕元を叩けば当たり所がよかったのか目を光が灼いた。サイドボタンを一つ押せば、ぱちり、と乾いた音と共に眼前に朝焼けの海が広がった。今年の元旦に、雷蔵と初日の出を見た時に撮った写真だった。思った以上に綺麗だったために、そのまま、ずっと待ち受けにしていた。 (あの時は、こうなるなんて思ってもいなかった) 墓場まで持っていく想いだったのだ。雷蔵への想いは。なぜなら、私と雷蔵は切っても切れぬ血の繋がりがあったから。従兄弟なのだ。いつか雷蔵が結婚して子どもができて歳を重ねていって、その時に隣人であればいいと思っていた。そうやって長くに続く雷蔵の倖せを祈るだけの、そんな存在になるはずだった。雷蔵への想いなど、深い深い地中の底に埋め込まなくてはならないものだったのだ。陽の光を、水を与えてはいけなかったのに。 「馬鹿だな」 指先が探す。私の話を聞いてくれる人はいないだろうか、と。兵助、勘右衛門、ハチ……画面で頁が繰られる旅に思い浮かぶ顔は、けれども、いつも最後にはそこに行き着くのだ。雷蔵が闇に現れ、煌々と鳥居の上方から照らし出された灯。どれだけ瞼に腕を押しつけて深い闇を創り出しても、そこに浮かぶのは鳥居を照らし出すために据え付けられた橙色の灯りで翳った雷蔵の面持ち。振り払っても振り払っても、決して消えることのないそれ。 (どうして、あんな顔をしたんだろうか) 雷蔵を困らしていたのは俺の告白なのだ。それを取り消したら、ほっとした面持ちを見せるだろう、そう想像していた。彼は迷い癖はあるが、きっぱりと決めたことに対しては驚くほどに白黒はっきりしているのだから。-----------なのに、実際、雷蔵が見せたのは、もっと混沌とした感情だった。夜闇のような、色と色が重なって濁ったような、黒に近い、けれども黒とは違う色だったのだ。 *** (あぁ、もう、考えたって分かるわけないか……少し、頭を冷やしてくるかな) 閉ざした瞼でも遮断できぬ彼の面影に眠ること諦め、私は布団から起き上がって部屋を出た。流石にまだ朝釣りに出るには早いためか、廊下には誰もいない。たくさんの寝息が寄せては返す波のように途切れることなく、響いている。夜間でも出入りできるよう施錠してないドアを開ければ、仄暗い眠りの底で、夜に溶けることもできずに行き場所を失った熱溜まりが静かに朝を待っていた。もうすぐ夜明けのはずなのに、まだ闇深い空は東ですら光に邂逅することができずにいる。確実に押し流されていく夏、辺りに散りばむ馨しい匂いは、外に出た途端にむせかえる程だった。ふらり、と足を向ければ、全てが黒に沈む中でただ一つの白がそこにあった。正確に言えば、天上にたゆたう光がそのままそっくり映し出されたような清浄な白だった。目に沁みるそれから逸らした視線は、 「あ、」 その場で立ち尽くす雷蔵を捉えた。ちりちりと灼かれる胸を裏側に押しやりながら雷蔵に話しかけた。 「……雷蔵、おはよう?」 熱が溜まった空気に疑問系の挨拶が濁してみれば、雷蔵は口の端だけ笑った。きゅっと下がったままの眉。困った時の彼の癖だと知っている。ずっと彼を見てきたのだから。困らしているのは私だと知りながら、けど、そのまま立ち去ることもできなくて。私から話しかけたのだから、さらに言を重ねていいものか憚りを感じていると、結び忘れたように中途半端に開いていた雷蔵の口がようやく音を紡いだ。 「……なんで、疑問系?」 「いや、まだ暗いから」 おはようと言うにはまだ早いだろう、と継ぎ足すと雷蔵は「そうだね」と確かめるように辺りを見回した。さっきから一分とて動いていない暗がりに、そのうちに朝が来ることすら信じれなかった。月の光に照らし出された雷蔵の面影が最初よりも幾分和らいでいるのは気のせいだろうか。いや、気のせいじゃないだろう。さっきまで絶壁の溝が刻まれていた眉間をゆるりと緩め、雷蔵は柔らかに笑った。 「珍しいね」 「何が?」 「三郎がこんな時間に起きるの」 いつも僕に起こされてばかりなのに、と穏やかに微笑む雷蔵は、いつもの雷蔵で。まっさらな、迷いのない眼差しに、ほ、っと胸を撫で下ろす。やはり、あの色は私の見間違いなのだろう。何か言いたげな、感情が混ざり合った眼差しなど、私が雷蔵に迷っていてほしい、と願っていたからそう見えてしまっただけにすぎないのだ。 (まだどっかで期待してるなんて、私も諦めが悪いな) 「すごい匂いだな。頭が痛くなる」 濃縮された香りに世間話のように話を継ぐと雷蔵は白い大輪の花を見遣って「月下美人だからね」と応じた。何となく耳にしたことのある音は、やがてその文字へと繋がった。確かに、その字面に相応しい妖艶さを醸し出している。ふ、とその名前で思い出したことがあって私は雷蔵に尋ねた。 「月下美人って、一晩で咲いて枯れるヤツか?」 「そうそう。今年は綺麗に咲いたね」 「今年は、って前から咲いていたか? 初めて見た気がするんだが」 私の問いに雷蔵は「三郎、朝、遅いから見たことがないだけだと思うけど」と呆れを含んだ笑みを向けた。否定できず「あー。確かに、去年とか、雷蔵に起こされる時間は昼近くだったしな」と頭を掻いている私に、ふ、と雷蔵はその表情を引っ込めた。夏に似つかわない冷たい海風が、私たちの間を通り抜けた。きつくなる匂いに、ぐらり、と脳幹が揺さぶられる。芳香に気管が縛り付けられる。 「いつまでも、僕に起こしてもらってちゃ駄目だよ」 「雷蔵?」 また、あの色。折々と重ねられた色は塗りこめられ、深い黒翳を彼の眼差しに落としていた。 0811
「いつまでも、一緒にいるわけじゃないんだから」
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