元気で頑張れよ、と笑顔で餞けの言葉を告げた担任に、もう一回入口で頭を下げると俺は後ろ手で扉を閉めた。
まだ行く先が決まらない生徒もいるのだろう、ピリピリとした職員室の空気からようやく解放される。
自然と強張っていた肩の力が抜けたような気がして、凝り固まった首をぐるりと回していると、

「あ、ハチ、終わった?」
「遅い。何分待たせるんだよ」
「映画の時間に間に合わないな」

少し離れた廊下の柱から、待っていた三人が三者三様の言葉を投げかけながら俺の方に近づいて来た。



「悪ぃ。話しこんじゃってさ」

白っぽい雨痕が残る汚れた窓の向こうに、砂埃が舞う校庭で下級生がサッカーをしているのが目に付いた。
面白みのないパス練習なのか、やる気のなさそうにちんたらと動いている奴も、ちらほら混ざっている。
別に物珍しいものでもなんでもないのに、なんでだか、その様子を目で追ってしまう。
つい、最近まで自分たちもああやって授業を受けていたのに、

「なんか、実感、ないな」

独り言のように呟いただけだったけど、聞き留めた雷蔵が俺の方を見て「卒業の?」と尋ねてきた。
肯定するように頷いた俺に、三郎が、にたりとした笑顔を向けてきた。
「何だよ?」と聞くと、笑みが深くなる。



「ハチですら泣かなかったもんな」
「俺も、ハチが男泣きするの期待したんだけどな」
「兵助まで。や、けど、あれは泣けないだろ。まだ合格発表待ちだったし」
「卒業式って雰囲気じゃなかったもんね」
「最後のホームルームも、バタバタって感じだったしな」

兵助の言葉を最後に誰ともなく口を噤んだために、四人の間に静寂が落ちた。
ふ、と視線を窓ガラスの向こうに投げると、退屈な授業中に何度も焦がれた淡い空。
いつもそこから抜け出したくって、でも、抜け出せなくて、ぼんやりと見上げてたのと同じ空。



「俺さぁ、一度やってみたかったたんだよな」
「何を?」
「ほら、よくあるじゃん。青春ドラマとかで卒業式の夜に校舎に忍び込む、みたいなの」
「あーあるね」
「青春っぽい感じがして、憧れだったんだよなぁ」
「ハチらしいな」
「じゃあ、今からやってみる?」

唐突な企むような表情の三郎に「何を?」と聞くと、楽しげな彼の口の端がさらに上がった。



「青春」

三郎らしくない言葉に、思わず三人でお互いの顔を見やって、笑いが噴き出した。



「「「ぶはっ、ひゃ、はははっつ! ひぃ、ははっ!」」」
「そんな爆笑するなよ」
「ひっ、はっ、三郎の口から、せっ、青春なんて、言葉がっ」

息も絶え絶えに答えた俺たちに対し三郎は、珍しく真面目な顔で「チャンスだって」と断言した。



「チャンス?」
「そう。今は授業中。教師は1,2年の授業か職員室。
 だから、3年生の教室は、誰もいないだろうなぁ。
 卒業生とはいえ31日までは学校に籍があるから、バレても怒られる程度だし」

どうする? って目で交わし合った俺たちの答えは決まっていた。









***



「なんか、あれだな」
「うん」

俺たちが過ごした場所、と最初に訪れたのは、つい最近まで使っていた自分たちの教室だった。
スキップしそうなくらい軽やかな足取りで中に入ったけれど、弾んだ心はすぐ萎んだ。
哀しいんだか、なんなんだか分からなくて、それ以上言葉にならない。

もう、担任が片付けてしまったのだろう、整列していた机は、後ろに乱雑に寄せ集められている。
壁面はぽつぽつと残された画鋲があるだけで、カレンダーも便りも、何もない。
がらん、とした殺風景な印象の教室に、よそ者になった気分になる。

うっすらと残る黒板の、『卒業おめでとう』の文字の痕だけが、かつて自分たちが過ごした証のようだった。



「Time sure does fly. 」
「なんだっけ? それ」
「光陰矢のごとし」

俺の問に答えを返したのは、英語のフレーズを呟いた三郎ではなく、いつにも増して無表情な兵助だった。
雷蔵は少しでも空気を和らげようとして、けれども、どうしようもできない、って感じで小さく笑った。
太陽に向かって並んでいるせいか、逆光で三郎の表情は影に呑まれていた。

きっと、全員、同じ気持ちだった。



「屋上、行かないか?」

ずぶりずぶり、とどこまでも落ちてきそうな気分を変えようと、パン、と俺は手を軽く叩いた。
その弾けた音に淀んだ濁々しい空気が割れて、三人がはっと俺の方を見たのが分かった。
「そうだな」と兵助の同意に三郎と雷蔵が頷くのを見て、俺は教室に背を向けた。









***



「なんだかんだで、屋上もよく来たよな」
「冬とか雨の日は別にして、ここで、お昼を食べたからね」
「一年の頃は、兵助とクラスが違ったからな」

階段を上がろうとして、来客用のスリッパが、ペタンペタン、とくっつく音がやけに耳についた。
ずっと履き慣れた上靴と違って、爪先に引っ掛かる重さは、まだ慣れない。
天窓から差し込む光の中で、白い埃がひらひらと踊っている。



屋上へと続く扉を開けた瞬間、伸びやかな空が目に飛び込んできた。
さっきまでの重たい空気が、全部浄化されてしまいそうなくらい、鮮やかな青。
気がつけば、いつものように両手を組んで頭上よりも高い所に引きつけて背筋をピンと張っていた。



「くあぁ」

隅々まで沁み渡っていく春の匂いに、つい、あくびが漏れる。



「でっけぇ、あくび」
「春休みになって、あんなに寝てるのにね」
「寝過ぎじゃねぇの?」

からかいながら、定位置に座り込んだ三人を見て俺も柵の所にもたれかかり、ゆっくりと、辺りを見回す。
運動場で行われていたサッカーはミニゲームに入ったらしく、さっきとはうって変わって、攻撃的に砂埃が舞い揚がっている。 盛り上がっている雰囲気は伝わってくるけど、つむじ風に押されて流されてしまうせいか、そんなに遠い場所じゃないのに歓声は届かず、まるで音なしのビデオを見ているような気分になる。

(もう、戻れないんだよな)

ケツを着けたコンクリートが温かくて、空が青くて、無性に泣きたくなった。






「けど、何か、こんなに静かな屋上って変な感じだな」

涙が出そうな気持ちを隠し通そうと、自分を奮い立てるように大声を出すと、雷蔵が応じてくれた。

「あー、確かに。なんか静かすぎて、落ち着かないね」
「そうか?」
「三郎はさ、しょっちゅうサボってたからな」

意味ありげな視線を三郎に投げかけた兵助に、雷蔵が「あぁ、そっか」と相槌を打った。
けど、俺は雷蔵と違って兵助の言葉の意味が分からず、「ん?」と心のうちに思う。
そんな俺の表情を汲み取ったのだろう、兵助は説明を加えた。



「俺らと違って、うるさい休み時間以外にも屋上に来てたってこと」
「あぁ、なるほど」
「僕なんて、何回、三郎を探しに屋上まで来たか」
「……そうだったか?」
「そうだよ」

じと目で雷蔵に見られた三郎は、慌てて雷蔵から視線を背けて。
「ま、過去は過去だよ」と訳の分からないことを言って、あさっての方向を見た。
その態度に「何回どころじゃないや」と追及の手を伸ばそうとした雷蔵の言葉尻をチャイムが掻っ攫う。



「あ、昼のチャイム」

ほっとした表情の三郎に、雷蔵が「仕方ないなぁ」と小さくため息を吐くのが分かった。
それを見ていた兵助が「三郎、いつか痛い目にあうぞ」とやり込める。
俺は、きっと、泣き笑いの表情を浮かべていたと思う。



---------------- いつもと変わらない、そして、たぶん一生変わらないやりとりに。






学校のあちらこちらから緩やかな解放感が漂い出し、ざわめきが高まっていく。
束の間の自由を得た生徒達の賑やかな声が校舎内に溢れ返る。
と、突然、階段と繋がっていた扉が開いた。


「あっ、…すみません」

弁当片手に飛び出してきた黒い髪が、俺たちを見るやいなやすぐ戻ろうとするのを見て、慌てて引き留める。



「や、こっちこそ悪ぃ。今からここでお昼食べるんだよな?」
「はい。…あ、でも先輩方がいるなら」
「俺らもう行くから、使ってくれ。なっ」

振り返ると、充足した柔らかな笑みの三人が「あぁ」と頷いた。











(今は、ただ、前を向いて。いつか懐かしむその日まで)
Blue In The Blue.