随分と温かさを感じる日々だけれど、夕刻の凛とした空気は冬が居残っているような気がする。 少しずつ力を失っていく暮明に、ものの際が徐々に薄闇へと溶け込んでいく。 俺はつるりと淡く光る床に腰を下ろし、バケツへと汲んできた水に雑巾を浸した。 水面に浮かんでくる塵に、雑巾を軽くゆすごうと、手もその中に入れる。 じん、と痺れるような冷たさに指先から剥がれていく体温ですら、分からなくなっていく。 水と自分との境界が溶けていく。 (けど、この感覚は嫌いじゃない) 三年間、ずっと、この感覚と付き合ってきた。 体育会系の部活ともなれば、準備や片付けは自然と後輩の仕事となる。 礼に始まり礼に終わるこの部でも、悪しき(と自分は思う)習慣は入学当初よりあった。 部活以外でも剣道漬けの自分にとって先輩が床拭きをしない事は驚きだった。 けど、師匠が言うには、中学校の部活では珍しいことではないらしい。 まして自分の通う中学は剣道の強豪校でもなく、部活動が全員必修なために入部している連中もいるのだ。 (けど、礼を尽くすのは剣の道にとって大切なことだ) だからこそ、自分が部長になってまずしたことは「片付けの水拭き全員で」というものだった。 けれど、「いい子ぶるなよ」と同級生は嫌味を言ってやろうとしなかった。 同じように床を拭いている俺に、後輩は気まずそうにしていた。 剣道経験のない顧問の教師からはそれとなく「後輩に任せれば」と言われて。 引退した先輩からは「伝統なんだから」と諫言されたこともあった。 それでも、水に手を入れた時の昂ぶった気持ちがすっと収まっていく感覚が好きで、俺だけはそれを貫いた。 *** 「金吾」 いつも以上に丹念に床を磨いていると、ぴちゃん、という水音とその後に残される静寂の余韻が打ち破られた。 顔を上げると、扉の隙間から顔だけを出して、こちらを窺うように喜三太が立っていた。 中に入るのを躊躇っている様子に「入ってこいよ」と声をかけ、床の水拭きに戻る。 「もう来ないかと思ってた」 「遅くなってごめんね」 ぺたり、ぺたり、と床に貼りつくような湿った足音に、喜三太が裸足だと知って、俺は再び視線を上げた。 丈が全くあっていない紺色の袴から、すらりと伸びた素足は、寒さのせいかチアノーゼのような紫を帯びていた。 俺の視線の先に気がついたのか、喜三太は自分を見下ろすと失敗を照れているように曖昧に笑った。 「すっかり、袴の着方忘れちゃってさ。 金吾と違って引退以来着てなかったから、丈が短いのもさっき気がついたんだ」 「……喜三太も成長期だったんだな」 「何それ。ひどいなぁ」 喜三太は小さな子どもみたいに頬を軽く膨らませ、それから、ふ、と辺りを見回した。 「あれ皆は? 追い出し会が終わって、もう帰っちゃった?」 「後輩はお別れ会の準備。他の連中は汗を流しに一回帰るって」 「金吾は帰らなかったの?」 「いや、帰るさ。雑巾がけが終わったらな」 開け放ったままの扉から吹きこんできた東風が、陰に溜まっていた埃と俺の肌から饐えた臭いを巻き上げた。 真夏でもないのにした汗臭さに、思わず苦笑してしまった俺の前に、喜三太がしゃがんで。 床に置いてあった雑巾を丁寧に拾い上げた。 「雑巾、借りるね」 「え」 「僕もお世話になったからね」 喜三太はバケツの中で何度か雑巾を揉むと、拳を縦に交差させ、固く絞った。 何度も何度も繰り返し、連なる水音がやがて途切れるのを確かめて。 喜三太は俺が拭いた痕を目を皿のようにして探し、その隣の列から雑巾がけを始めた。 軽やかに疾走する髪が、振り子のように左右に大きく揺れる。 たんたん、と歯切れのよい足音が床に刻み込まれる。 -------------あぁ、そうだ。 「良くも悪くも一本気」と師匠に言われた性格に、たくさんの敵を作った三年間。 けれど、そんな俺のことを理解してくれて味方になってくれた奴がいた。 こんな俺を信じてくれた奴がいた。 (俺だけじゃ、なかった) 喜三太に奪われた雑巾の代わりを取りに、雑巾が干してある掃除道具箱へと足を向けた。 *** 「あー疲れた」 一通り道場を拭き終わった喜三太は、軽く肩で息をしていた。 力いっぱい、ぎゅ、っと雑巾を指先で握りしめていたせいだろう。 まっすぐ雑巾がけをすることができなかった床には、うっすらと白と光の斑模様。 「喜三太、そこ、拭けてないぞ」 「あ、ホントだ」 「相変わらず下手だな」 「けど、前よりは上達したと思わない?」 「前よりは、な」 一度拭いた所を、もう一往復して戻ってきた喜三太は、はらり、と落ちた前髪をかき上げ、俺を見遣った。 「金吾は高校に入っても、やっぱり剣道部に入るの?」 「あぁ」 何の迷いもなく即答した俺に、喜三太は「そっか」と俺に温かな微笑みを向けた。 その穏やかな表情に、一瞬、聞こうかどうかどうしようか、という思いを彷徨わせて。 聞くのが怖くて、時間を稼ぐために雑巾をバケツの中に放りなげて洗うことにする。 けれど、俺の言葉を待っている沈黙に負け、結局、「喜三太は?」と尋ねる。 「生物部」 断言したその言葉は、きっと、さっきの俺と同様に迷いはないのだろう。 それは、ずっと、覚悟してきたことだった。 同じ高校を受かったけれど、もう二度と、こうやって雑巾がけをすることはないのだ、と。 だから同じように「そうか」と受け入れの言葉を呟く。 けれど、さっきの喜三太みたいに、笑えている自信はない。 ---------------俺一人で、ちゃんとやっていけるんだろうか、って不安で。 「一緒にやらないか」と何度も口にしそうになって。 「もう喜三太は決めてるじゃないか。これ以上、甘えるな」と叱咤する。 けれど、心のどこかで、「喜三太は俺がいったら入部してくれるんじゃないか」って思ってしまう。 まるで、このバケツの水みたいに、酷く汚いモノがぐるぐると浮かび上がっては沈殿していく。 「金吾」 いつの間にか俺の傍に来ていた喜三太は、汚れた雑巾を片手に隣にしゃがみ込んだ。 小さなバケツの間口で二人で洗うことはできないから、止まっていた手を慌てて動かす。 水中の中で何回も左右に雑巾を振ると、バケツの中にある薄灰色の水が、さらに濃くなった。 「何だ?」 「僕、この三年間、金吾と一緒に部活をやって思ったんだけどね。 金吾って、とっても剣道が好きなんだな、ってすっごく伝わってきたよ」 「……ん、そうか」 喜三太の称賛で生まれた照れくささを誤魔化すように、力に任せて雑巾を捩じる。 「うん。そうだよ。だから、金吾と一緒に部活ができて、よかった。 で、あのねぇ、金吾はまっすぐだから、さ。もちろん、自分にも厳しいし。 だからさ……なんて言うのかな。うん、人から疎まれたりすることもあるかもしれないけど」 たどたどしく綴られた喜三太の温かい言葉が、じんわりと耳にしみ込んでいく。 「僕は、いつだって、金吾の味方だからね」 ぎゅ、っと力の限り絞った雑巾から、一つ、二つ、雫が滑り落ちた。まるで、涙みたいに。 (あぁ、そうだ。喜三太が俺を信じてくれるなら) まがりくねった道の先、 こわいものなどなにもない
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