「伊作、」

久しぶりに呼んだような気がするその名前は、なんだか舌がもつれて上手く言えなかった。
それでも、砂糖菓子を食べた時のような、淡い甘さが口の中でほどけて。
くすぐったいような、変な気持ちになる。



「留さん」
「ぼんやりしてると穴、落ちるぞ」

そこに目印がある、と告げると、あぁ、と照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
慣れた所作で目印の所を避け、その隣の土を踏みしめた途端、伊作が視界から消えた。



「伊作、大丈夫か?」

僅かにしか響かない俺の声に、深さは大したことがないことを知って。
それでも怪我をしてないだろうか、と絞めた瞳で穴の底を浚うように覗き込む。
「うん、大丈夫」といつもと変わらぬ声が戻ってきて、ほっと、胸をなでおろした。



「ほら、手を貸せ」

俺の差し出した手を伊作の掌が包み込む。
ゆっくりと馴染んでいく温かさは、春のように優しい。
優しすぎて、海の水を飲んだ時のように喉がヒリヒリする。

(何度、こうやって伊作を助けたのだろう)

そう思い返しても、その数を推し量ることなどできないことは、自分が一番よく分かっていた。
この学園に入学してから今日にいたるまで、日常の中にぴたりとはまりこんだ光景。
それはあまりに自然と日々に溶け込んでいて、思い出そうとしても、今日の空のように朧げになってしまう。



助け起こした伊作は、体にまみれていた土埃を手で払いながら「いつも、ごめんね」と呟いた。
小さなそれは、巻き立ったつむじ風に浚われて、あっという間に彼方へと飛ばされていく。
「いや」と答え、その先から零れ落ちそうになる言葉を、ゆっくりと、呑み込む。

(これからは俺がいないんだから気をつけろよ、なんて呟いてみた所で、どうにかなるわけじゃない)

俺が俺の世界に出て行くように、伊作には伊作の道があるのだ。
もともと別々だった道が学園の中で重なっていたにすぎないというのに。
どうして、あの時、一つの夢を描いたのか。
その理由を恋と名付けるのであれば、俺はもう二度としなくていい。これが最後の恋でいい。



あれほど淋しい夜があることを、俺は伊作と出会うまで知らなかった。









「留さん?」

その声が、俺を過去から今へと引き戻す。
いつか過去を懐かしむ日が来るのかもしれないけれど、今はまだそこにいるのだ、と。
ぼんやりとしてしまった俺を気遣うように、小首をかしげながら伊作が俺を覗き込んでいた。



「どうしたの?」
「何でもない。それより、さっき、何、眺めてたんだ?」
「ん。桜、咲かないかなと思って」

俺の方に向けた眼差しを、再び伊作は遠くへ投げうった。
あどけない柔らかさのある空に伸びる枝は、まだ、冬の夜のように黒くて。
春へと向かう蕾は僅かに膨らんでいたけれど、薄紅は見えず頑なにその身を閉ざしているのが分かる。



「卒業式には間に合わないかもな」
「もう、明後日だもんね」

そう答えた伊作の声が震えていたのは、気のせいじゃないだろう。
気のせいだとするなら、それは、きっと俺自身の心が震えていたのだろう。
明後日、と唇でなぞってみるけれど、現実味のない乾いた音だけが胸に落ちた。



俺と伊作との間を繋ぐ沈黙は、時を押しとどめようと必死だった。

「久しぶりに会ったのに、何か話すことないの?」
「お前こそ」

けれど、それは叶わぬことだということは痛いほどに分かっていた。
伊作は小さく、本当に小さく口を緩めて笑い、それから、ゆっくりと天を仰いだ。
つられる様に見上げた空は、ぴかぴかと磨かれたように光が満ちて、春をすぐそこまで連れてきていた。


「でも、本当に久しぶりだね。こうやって、留さんとゆっくり話すの」
「そうだな。卒業試験以来、なんか立て込んでたし」
「うん。片付けとか引き継ぎとか、結構大変だしね。
 あ、そうだ。退寮の手続き、もう終わった? 事務の先生のところでいいんだよね?」
「あぁ。さっき終わらせてきた」

空から戻された伊作の目に浮かんだ翳りを、俺は哀しいほど穏やかな気持ちで受け入れていた。



「いつ、旅立つの?」
「卒業式の次の日」
「そっか。じゃぁ、今年は一緒に桜を見れないね」

胸底に絡みつく息苦しさも、瞼の奥が熱く痛いのも、全部風に舞い上がった砂ぼこりのせいだ。
そう思いこめば、そのせいにしてしまえば、きっと楽になれる。
けれど、それは俺にはできない。したくない。



「伊作」

ゆっくりと、指を伊作の方へと伸ばし、その温もりを刻みつける。
彼の、俺の名を呼ぶ声を何度も何度も反芻する。
瞼の奥にその姿を焼きつける。



「留さん?」
「ありがとう、な」











(もし、二度と彼と道が重ならなかったとしても、靭く生きていけるように。)
依存しなければいい









title by 無限のム