「……結婚したい人がいるの」

 え、っという言葉を呑み込んだのは、びっくりしすぎてしまったからだ。今まで、一度たりともそんな話を聞いたことがない。そりゃまぁ、母さんは贔屓目に見ても綺麗だと思うし、働き者で気遣いもできる。何事にも動じず、おおらかに笑ってくれる、自慢の母だ。そんな母さんは僕が五歳の時に父さんを亡くしてから、十三年間(いや、もうすぐ十四年間、か)、僕を女手ひとつで育ててくれた。
もちろん、僕が幼い頃は再婚の話も周囲で持ち上がっていたらしいし「雷蔵くんのパパにどう?」なんて目の前で紹介されたこともあった。けれど、それを全て断ってきたのだから、これからも母一人、子一人で生きていくのだろう、そう信じていた。だから、母さんが死んでしまえば、僕はたったひとりになってしまうのだ、と決めつけていた。

(そっか、結婚するのか……)

だから、母さんの突然の告白に、僕の中で驚きと同時に安堵が広がった。--------『家族』が増えるのだ、と。これで、ひとりぼっちにならなくてもいいのだ、と。それと同時に、少しだけ淋しさも覚える。幼い頃から、何となくだけど、決めていた。母さんが再婚したら、その人に任せて自分は離れようと。

(まぁ、ちょうどいい機会なんだろうな)

 大学に入ってから、親の庇護化にいつまでも甘えているわけにはいかないよな、とは思っていた。社会には出てないけれどバイトで貯めたお金もそれなりにあるし、奨学金と合わせれば十分にやっていける。ただ、今、言ったら色々ややこしそうな気がして、僕は話を切り出すのは止めた。

(母さんが倖せになることが大前提だしね)

 母さんを任せられるような相手だといいのだけれど、と思いつつ訊ねる。

「どんな人?」
「……反対しないの?」

 てっきり、どんな人なのか教えてくれると思っていたら、質問を質問で返された。思いもよらない反応に「どうして?」と訊ねれば「だって……こんな歳になって再婚だなんて、って思うじゃない、普通」と伏し目がちに母は答えた。何となく母さんの言わんとすることは分かったけれど、僕は反対する気なんてこれっぽっちもなかった。むしろ『家族』と呼べる人が増えることが、すごく嬉しかった。

「僕は母さんが倖せなら、それでいいと思うよ」

 ずっと女手一つで苦労してきた母だ。その母が倖せになるのが、僕の何よりの喜びだった。そう答えると、母さんは本当に本当に綺麗な笑顔を、心からの笑みを僕に向けた。

「本当!? 来週、その人に会ってくれる?」
「うん」

 僕が頷けば、ぱ、っとさらに笑顔の輝きが増したような気がした。その表情を見るだけでも、きっと、すごくいい人なんだろうな、というのは予想できたけれど、母さんの口からちゃんと聞きたくて。もう一度「どんな人なの?」と問いかければ、母は「すごく優しくて、穏やかで。いい人よ。雷蔵も好きになってくれると嬉しいわ」とうきうきとした表情を僕に見せた。

(そっか、そんなにいい人なのか……だったら、安心だな)

 まだ見ぬ再婚相手に、ぼんやりと重ねるのは亡き父親だった。

***

 寒さだけでなく、緊張で冷え切った指先を擦り合わせる。だが、なかなか熱は戻ってこなかった。母が待ち合わせ場所に、と指定した店は、名前からしてすごくお洒落なものだった。少なくとも日本語でも英語でもない店の名前を僕は読むことができず、だいたいの住所と綴りだけを頼りに探し出したものの、その外観だけで怖じ気づいてしまい、心臓が弾けそうなほど緊張している自分がいた。

(……うわぁ、何か、すごく場違いな気がするのだけど)

 一度店の前に来たものの、ドアを開ける勇気が出ず、僕は少し離れたところから店を眺めることにした。ファーが温かそうなコートを着た女性が、すらり、と流れるような動きを見せた男の人にエスコートされて入っていく。重厚な場から、明らかに僕一人が浮いていた。

(こんな日に限って、母さんは仕事が遅くなるっていうし)

 数時間前に入ったメールには仕事が長引いて遅れることと、それから、先に入って待っていて欲しいといった旨のことが書かれていた。相手方を待たせるのは失礼だしなぁ、と、約束の時間の二十分くらい前には店までやってきたはいいものの、雰囲気に圧倒され、完全に気後れしてしまっていた。

(うーん。どうしよう……入るべきか、止めておくべきか……)

 このまま辺りをうろつくには明らかに不審者になってしまうのは分かっていたが、ぐるぐるとした思考を留めることができなくて。そうこうしているうちに、店側の人が気づいたようで。 す、っと引かれたドアに導かれるように、僕は中に入った。

(本当に、ここでいいんだよね……)

 その空気感に圧倒される。

「いらっしゃいませ。ご予約のお名前は?」

第一声に『予約』という言葉が入ることに、ますます恐縮しながら、僕は「えっと、……不破、で予約をしてあるかと思うのですが」と母に教えられていた己の苗字を告げた。黒服の男性は落ち着いた雰囲気の笑みで「少々お待ち下さい」と僕に告げると、確認のためだろう、視線を落とした。

(合っているよね)

慣れない雰囲気に、ただただ、緊張ばかりが心臓を支配する。打ち付ける鼓動が目の前の店員さんにも聞こえて居るんじゃないだろうか、ってくらい煩い。すごく気が遠くなるような時間を過ごしていると、

「不破様でいらっしゃいますね。ご案内いたします」

 と、ゆったりとした低音を含めて受付の人間は微笑んだ。あと少しで別れを告げるかもしれない、己の苗字。そう考えると、何だか不思議な感じがする。詳しいことは何も聞いてないから、どうなるのか分からないけれど、もし、母さんがその人に嫁ぐことになったら、僕もその人の籍に入るだろう。

(ちょっと淋しいけど、でも、家族の証みたいなものだしね)

思いに浸っていると「こちらです」と、さっきとは別の黒服の男性が、す、っと近づいてきた。別にする必要もないのだろうけれど、つい、会釈をしてしまう。黒服の人は、案内をするかのように、さっと、腕を曲げ奥へと指し示した。それに従って、歩を進める。

(何かすごいな……まるで映画の世界みたいだ)

 天井から吊り下げてあるシャンデリア、やや落とされた照明が照らし出す淡い光、花瓶には僕の掌よりも大きく開いた花が幾つも生けられている。壁には豪華な額縁に囲われた絵。きょろきょろ見るのはマナー違反だ、と分かっていても、ついつい、周囲が気になって意識をあちらこちらに飛ばしてしまっていた。密やかな談笑は、バックでゆったりと流れるクラシックに重ねられ、まるで高貴なメロディみたいだ。

(どうしよう、こんな場所を選ぶような人なんだ)

大事な母親の結婚相手に会うのだ、という緊張に加え、普段、来ることのない雰囲気に僕は完全に呑み込まれていた。単に歩くことでさえも手と足が同時に出ているんじゃないか、って自分で思うくらい、ぎくしゃくしてしまう。

(粗相をして嫌われないようにしないと)

僕のせいで母さんの結婚話が破談になるのが、一番怖かった。今まで、ずっと、ひとりで苦労してきたのだ。何としても倖せになってほしい。だから、僕が失敗するわけにはいかなかった。相手の気を損ねるのだけは、どうにかして避けなければいけない。そう思えば思うほど、心臓が馬鹿みたいに速くなって、体の内部を破って飛び出てしまいそうなほど煩く打ち付けていた。

「こちらでございます」

 黒服の人の声によって、僕の緊張はピークに達した。ひときわ大きな花瓶とそこに生けられた花や葉によって、奥のテーブルの様子は分からない。緊張が最高潮にまで高まって、どうしても、足取りが遅くなってしまう。

「お連れ様が見えました」

 先に歩いていたボーイが花瓶を回り込んで背中しか見えなくなる。聞こえてきた言葉に、この向こうには母さんの結婚相手が来ているのだ、そう知る。どんな人なんだろう。何を喋ればいいんだろう。膨れあがった緊張と期待に息が霞む。破裂しそうな心臓を抱えながら、一歩を踏み出して、

「えっ!?」

 思わず驚愕の声を上げていた。黒服の咎める面持ちに自分がいる場所がどこだったのか一瞬のうちに考え巡らせ、その先に続くはずだった叫びを何とか呑んだ自分を褒めてやりたい。それくらい、びっくりした。-----------だって、そこにいたのは、僕とさほど変わらないくらいの、年端のいかない人だったから。

(本当に? 本当に、この人が、母さんの再婚相手なの?)

 何回、瞬きをしても目の前の光景は変わらない。不躾だなんて構ってられず、僕は彼を凝視していた。一見すると若そうに見えるだけで実は歳がいった人なのだろうか、と、まじまじと見つめるが、そうじゃなさそうだ。どれだけ上に見積もっても三十に届くか否かといったところだろう。

(母さん……本気で?)

 くらり、と眩暈うものに襲われる。さすがの僕でも、この衝撃は大きかった。再婚、という言葉のイメージから、かってに母親と同世代だと思っていた。自分の父親が年老いたくらいの人物を思い描いていたのも強いのかもしれない。多少の年齢差については別に構わないと思っていたけど、あまりの展開に、冗談だよね、と言いたくなる。

「えっと、……母の再婚相手の……」
「あぁ」

 違っていて欲しい、と思いながら訊ねたけれど、彼はあっさりと肯定した。くらり、と眩暈を覚える。