(はぁ……)

ピエロ姿のハチには子どもたちが群がっているのに、俺の傍には空虚さが佇んでいるだけだった。握っていた拳を何気なく広げてみれば、そこには紫の線。ずっと握りしめたままの風船の糸が食い込んで血流を妨げてしまっていたのだろう。

「ギブ ミー バルーン!」
「ギブ ミー」
「ギブ ミー」

 飛び交う幼い声は俺に向けてじゃない。その熱帯びた声を一心に浴びているハチは忙しそうに、けれども笑顔を絶やさずに子どもたちに風船を渡している。-------------この仕事をするようになって三日目。この光景は、ずっと変わらない。俺は再び糸を掌に閉じこめ、少しだけハチから離れ、石段に座り込む。

(……何やってるんだろうな、俺……)

 惨めさだけが詰まった体は馬鹿みたいに重たい。溜息を押し出してみれば気が紛れるだろうかと思い、はぁ、と盛大なものを零したが心が晴れることはなかった。己とは対称的な青空が目に痛い。今日もよく晴れて、たくさんのお客さんが来園しているというのに、俺の周りだけは海溝に沈み込んだようだった。誰もいなくて、静かで、昏い。周りには人が溢れかえっているのに、俺だけがひとりだった。

(ずっと、ひとりだったのにな……)

ひとりでいることに、慣れていたはずだ。噂話がわんわんと響くと好奇の目差しが飛び交う、まるで嵐の中のような世界よりも、この閉ざされた静けさの方がずっと居心地がよかったはずだ。確かに、誰からも相手にされない、己だけしかいない世界はあまりに淋しく昏いものだった。それでも、膝を抱えてその内側に閉じ籠もっていた方が、ずっとずっとましだった。盾を持たない自分にとって、その世界から出ることは無防備な状態で矛を受け続けるのと同等だった。--------なのに今は、ひとりでいることが怖かった。人の輪に自然と溶け込んでいるハチが羨ましかった。

(何でなんだろうな……)

 理由なんて分からなかった。ただただ、淋しさだけを抱えつつ、子どもたちに囲まれているハチを遠くに見ているだけしかできなかった。羨ましい。それと同時に、己の不甲斐なさを痛感して。この場から逃げ出したい、辞めたい、そんな感情だけが、ぐるぐると俺の頭を巡ってる。

(もしかしたら、それが狙いだったんだろうか)

最初から、そうなると分かっていてじいさんは、俺をハチのアシスタントに位置づけたんだろうか。じいさんは端から俺を雇う気なんて無くて。己から諦めるように仕向けるためだったんじゃないだろうか。もちろんそうじゃないとは思う。けれど、そんな風に穿ち見たくなるくらい、己が荒んでいるのは分かっていた。

「何だ、もうへこたれてるのか」

嫌味で凝り固まった声に、振り上げ見なくても誰なのか分かった。ちら、と少しだけ首を傾けて視線を送れば、予想した通りの人影。嫌いなら声を掛けてこなければいいのに、という俺の願いは残念ながら聞き入られなかったようで、絡んでくる。

「お坊っちゃん育ちは根性がねぇな」

そこまで言われてもなお冷静な振りをする。言い返したところで何も変わらない。このままやり過ごした方が、互いの気持ちの面で楽だ。す、っと視線を外して俯いた。だが、

「足を引っ張られるハチも大変だな」

その台詞を無視することはできなかった。一番衝かれたくないところだった。自分が一番よく分かっていることだから。俺の風船は、俺の力だけでは一つとしてなくならない。ハチが気に掛けてくれた時のみ、減っていく。けれど、その間、ハチの手は止まってしまうわけで、俺は完全に足手まといになっていた。ぐ、っとへしゃげた息は肺に逆戻りをして。抉られるような痛みを、ひし、と耐える。

(迷惑かけて……それで、俺のこと面倒に思ったら……俺のことを嫌いになったら)

怖い。ハチに嫌われたら、そう想像するだけで、恐怖に取り込まれる。ハチに嫌われたら、また戻るだけだ。ひとりに。ほんの数日前と同じ世界に戻るだけ。そうと分かっているのに、そのことを考えると心臓の裏側を撫でられたような冷たさに襲われた。

「なぁ、兵助」

名前を呼ばれ、俺は意識を外側に戻した。それまでとはちょっと違う声のトーン。俺にじっと視線を注いでいた三郎の目差しからは尖ったものが消えているような、そんな気がした。

「ハチみたいに風船、配りたいか?」

当たり前のことを尋ねられ、俺は突っぱねるのも忘れ、自然と頷いていた。一向に減らない風船は空気しか入ってないはずなのに重たい。ふーん、と俺に意味ありげな眼差しを送った三郎はどこか楽しそうに唇を緩めた。

「いいこと教えてやろうか」


***

中略

***

「もう大丈夫だからな」
「怖い思いをしただろう」
「無事でよかったなぁ、坊主」

どんどんと積み重なっていく言葉に俺は口を挟む暇もなかった。あの後、意味も分からずパトカーに乗せられて。護送された先は警察署だった。ここしか開いてないんだ、と通されたのは、いわゆる応接室のようなものだろうか。柔らかいソファーに座った俺は、若い金髪碧眼の警官に栗毛を襟元で跳ねさせたこちらも若い警官、それから、そんな二人よりは年上の白い髭がごま塩のように混じっている黒人の警官に俺は囲まれていた。口々にしゃべりかけられ、勢いに圧倒された俺は、そこから逃れるように、ちらり、と窓の外に視線を遣った。日はすっかりと落ちて窓の際ままで闇が迫り来ている。

(ハチは大丈夫だろうか)

あの場で腕を鷲掴みにされ、引きずられるように俺はパトカーに乗せられて、ハチとは離ればなれになってしまって。ハチがどうなったのかは、さっぱり分からなかった。いきなり警察に連れられていって、心配しているかもしれないな、とひとりごちる。

(このまま、会えなくなったらどうしよう……)

警官たちの会話の端々から、自分が保護された、というのは何となく伝わってきた。新聞の探し人の広告に載っているくらいだ、捜索願いくらいは出ていても何ら不思議じゃなかった(ただ、家出人として保護されたにしては、やけに大体的なものな気はしたが)。とにかく、保護された以上、親元に帰されるのが普通だ。

(……そしたら、二度と会えない)

二度と。その言葉の昏さが俺を抉り抜いた。想像する。その重みを。二度と会えない、その淋しさを。不安に駆られ、ぐ、っと握りしめた拳。思わず、探した。いつもならばそこにあるはずの、柔らかな温もりを。けれど、爪先が触れたのは冷たい己の皮膚だけで。

(あ、そっか、あの花……)

警官たちに捕まったときに落としたことを思い出した。あの花があれば、まだ、いくらか不安な気持ちを誤魔化せたのに。俺が抱えているのは、もう二度とハチに会えないかもしれない、という恐れだけだった。

(あのまま地面に落ちてなければいいけど……ハチ、本当にどうしただろう)

たくさんの警官に取り囲まれ、後ろを振り向くこともできなかったために、ハチの消息は不明だった。バンクハウスの方に戻っているだろうか、なんて思案していると、ふ、と目の前の警官の一人が笑い声を上げた。

「犯人も間抜けだよな、まさか戻ってくるなんて」
「だよな。いったんは逃げたって話だろ?」

まぁおかげでこっちの仕事は楽になったけどな、なんて響きが耳に留まる。

(え? 犯人ってどういうことだ……?)

鼻を膨らませ自慢げな面もちで語る警官たちの話の意味が分からない。あまりの勢いとこれからのことに意識を奪われていて、さっきまでは警官たちの話を聞き流していたが、そうも言ってられなさそうな状況だ。

「にしても、よかったな、坊主。命拾いして」
「確かに、誘拐って割に身代金の請求もないから、てっきり、殺されてたかと思った」
「もう大丈夫だからな。君と一緒にいた誘拐犯は捕まえたからな」

黒人にがしがしと撫でられた俺の頭は、けれど、その温かさを感じている場合じゃなかった。

(誘拐犯!?)

自分と一緒にいた人物はハチ以外にはいない。どうしてそうなったのかは全く不明だが、とにかくハチが誘拐犯にされてしまっているようだった。どうにかしないと、と、目の前にいる制服の袖を引っ張れば「大丈夫だからな」とあやすような口調で言われてしまって。そうじゃない、と首を必死に振る。すると、一番年上らしい白髭のおじさんが「何だ、声が出ないのか?」と尋ねてきた。通じたことが嬉しくて、何度も首を縦に振る。

「ショックで口が利けなくなってしまったんだな」
「そりゃ可哀想になぁ」

いやそうじゃなくて、と叫ぼうとするけれど、唇から出てくるには必死な吐息ばかりだ。このままじゃハチが誘拐犯にされてしまう。どうしよう、どうしよう、どうしよう。その言葉ばかりが頭の中をぐるぐると巡る。とにかく違う、と説明しないと。必死に「違うんだ」と声を刻もうとするけれど、出てくるのは無声ばかりだ。

「どうした?」
「嫌なことでも思い出したのか?」
「無理しなくていいぞ」

ひたすらに訴えている俺の方を三人は見てくれているが、俺の言葉は届いていない。

(くそっ)

この一週間、声がなくてもやってきた。声を失ってもそれほど不便を感じなかった。別にこのまま声がなくてもやってける、そんな錯覚に陥るくらいに。----------けど、違った。喋れなくてもやってこれたのは、周りが辛抱強く俺のジェスチャーや筆談に付き合ってくれたりしてくれたからだ。そして、何よりもハチが俺の想いを理解してくれていたからだ。

(けど、今、ハチはいない……)

噛みしめた唇でどれだけ想いを綴っても、気づいてもらえないのだ。

(ハチ……)