【八月十一日】

チリン

鈴の音がどこからか聞こえた気がした。

(ん?)

思わず、足を止め、辺りを見回す。涼しげな音色に風鈴か、と思った。だが、辺りにあるのは鬱屈とした緑ばかりで、風鈴が掛かるような軒先なんぞどこにもない。あるのは、たった数日で見慣れて飽きてしまった自然。その袂に包み込まれるように私はいた。

(誰かの杓杖についている鈴だろうか)

場所が場所だけに、そんなことを思う。
何となくあの家に居辛くて「ちょっと出かけてくる」と言ったのはいいが、土地勘の無い場所にいつしか自分の所在が分からなくなっていて、気がつけばこの場所に迷い込んでいたのだ。神社へと続く木立に囲まれた参道に。本来ならば射るような日差しも、層をなして重なり茂る枝葉に遮断されていて。少し薄暗さの残る中、ただらと伸びる道には人っこ一人だっていなかった。意識を磨ぎ澄ませ、音の気配を確かめようとしたが、蝉の合唱は止むことはなく、耳が焼けつきそうだ。気のせいか、と思い直し、歩を進めようとした瞬間、

チリン

また聞こえた。背後から、今度は、はっきりと。ばっ、と音のした方を振り向く。だが、やはり誰もいない。雑木林に包まれ色彩は深い緑一色に染められる。その中だからこそ、一段と目立つ朱色。上方へと伸びる石段を囲うようにして九十九と続く鳥居はまるで格子のようだった。もしくは牢屋。それを目で辿る。最後の一つ、最上階にある鳥居だけが色を抜かれたように白く浮かび上がっている。緑と赤と白。そのコントラストに圧倒される。ぐらり、と視界がぶれる。煩かった蝉の叫びが遠い。ホラー映画のワンシーンのようだ。自分がいる場所を改めて思い返し、薄ら寒くなった。真夏だというのに、半袖のシャツから伸びる腕には鳥肌が立っている。

(気味、わりぃ)

得体の知れねぇものに対する恐怖を許容できず、早くこの場を立ち去ろうとすることにした。変に近づかない方がいい、そう思ったのは本能的なものだ。防衛本能。厄介事になる前にさっさと離れよう、と心に決め、踵を返して鳥居に背を向けた瞬間、

チリン

(っ)

痙攣をおこした喉が、ひっ、と吐き出した息を震わせた。けど、それ以上叫び声を上げなかったのには、我ながら頑張ったと思う。振り返る瞬間まで誰かがいる気配なんて一つだってなかったはずなのに、人がいた。さっきまで誰もいなかったはずの、そこに少年が立っていた。真っ白のシャツ。そこからすらりと延びた手首には、赤。混乱のあまり、一瞬、血を滴らせてるのか、と思ってしまった。だが、その褪せ具合にすぐに違うと気が付く。驚きはそこじゃねぇ。
もう一回言う。悲鳴を上げなかった自分は偉い、と。ついさっきまでは、影すらなかったというのに人がいる。それだけでも、心臓が止まるかと思ったのに。

------------その少年は自分とそっくりな顔立ちをしていたのだから。

***

(助かった……)

こんな姿、誰かに見られたら、情けねぇ、なんて笑われっかもしれねぇけど、それどころじゃなかった。もう、どこをどう走ったのか、全く覚えてねぇ。気が付けば、私は、祖母の家の馬鹿でかい門扉をくぐり抜けていた。この『ど』が付くほどの田舎町に滞在して5日目。出歩いてないために、ほとんど、道も分からないままだっていうのに、よく無事にここまでたどり着けたものだ。無我夢中で全力疾走したために、見覚えのある黒壁と焦げ茶色の門を越えたところで、へたって座り込んでしまっていた。

(何なんだ、あいつ)

 整わない呼吸に肺が痛い。爆発した鼓動。足りない酸素に、ぐらり、と視界が眩暈う。思わず目を瞑れば、そこに光がちかちかと瞬いた。蹲踞したまま、ぎゅ、っと手の丘を押し当て、ぜぇ、と込み上げてくる咳の熱を押し殺していれば、ようやく、少しまともになってきて。まだ打ち付けている心臓は馬鹿みたいに煩いけれど、呼吸の方はようやく酸素を体に送り込むことができるようになってきた。

(何なんだ、ってまぁ、『視てはいけないもの』の類なんだろうけど……同じ顔はさすがにびびるな)

息が整えばちょっと余裕も出てきて、少しだけ冷静に考えることができるようになる。さっきまで閉じていた瞼を上に押し開けた。太陽の熱で白っぽく霞んだ地面は照り返しが強い。それでも、己が敷く影は目を休ませるには十分な薄暗さを持っていた。

「まぁ、すごい汗やねぇ」

足下にできた短い影が色濃さを増した。と、同時に降ってきた声。屈んだままに視線だけを上げれば、案じるような面持ちの祖母が私の方を覗き込んでいた。ほっかむりをした手ぬぐいの白や祖母が持っている籠の中にある野菜の原色が目に痛い。顔を伏せたのは、けれど、そのせいだけじゃなかった。----------祖母の顔が、ちゃんと見れない。

「走ってきたん? それにしては、ずいぶんと顔色が悪いわねぇ」
「別に」
「別に、って顔色じゃないで」

暑さに当てられたんやろか、と目を曇らした祖母に、「大丈夫だから」と短く答える。それでも尚、口を募らせようとする祖母に何となく鬱陶しさを感じながらも、振り払うこともできなかった。黙り込んだ私の頭を幼子を扱うみたいに撫でる祖母の掌からは土の匂いがして、とても温かかったから。

「そうや、西瓜が冷やしてあるから、切って来るわな。早ぉ、手ぇ洗っておいで。縁側に持っていくから、そっちから回ってもええでな」

 日だまりみたいに笑った祖母は、私と目を合わせようとしたために曲げていた腰をしゃんと伸ばすと、私をその場に残して家の中へと入っていった。置いていったのではない。付いてくるだろう、という確信に満ちた背中だった。

(どうして、こんなに優しくしてくれるのだろう、この人は)

***

一時間に一本しかないローカル線の駅からさらに古びたバスに揺られること一時間半。四方八方見渡しても山しかない、超が十個ぐれぇつくほどのど田舎に、齢十四にもなって何も好きこのんで遊びに来たわけがない。ここに私が来なくてはならなかったのは、所謂、家庭のじじょーってやつだった。

(ったく、糞親父め)

急遽、出張が決まったものの子どもを一人にはしておけない、幸いにも夏休みだから、という理由によって私は父親の母親、つまり私からは祖母にあたる人物が住むこの地に閉じこめられた。盆明けにある学校の課外までの間。

(ったく、頼みにくい相手だったんなら、ほっといてくれればよかったのに)

 最初は私を説得するために目の前で祖母の家に電話を掛けて頼んでいたが、祖母の土地を売るだのどうだの引っ越しがどうだのこうだの、という話になって、途中で親父は自室に引っ込んでしまった。何となく親父の仕事からどういう意味なのかは推測できたが、ちゃんとは聞かなかった。ただ、預けるのに気まずい場所っていうのが、ますます、私の気を重くさせた。

(だいたい、いなくたって、普段と変わらねぇじゃねぇか)

これまでだって、家に帰ってきたとしてもほとんど顔を合わせることのない生活を送っていて、ひとり暮らしに近い物があって、父親がいようがいまいが、そんなに変わるとは思えなかった。ちゃんと今までやってきて実質的な問題としては何もなかったのに、どうやら世間からの目が気になるらしく、有無を言わさず田舎送りにされた。家出とか一瞬、色々考えたが、まだ義務教育を終えてない、ケツの青いガキにはどうしようもできなくて。己の無力感を引きずりながらこの場所に放り込まれて、今に至るというわけだ。

(あー、あと5日間もここにいねぇといけねぇとか退屈すぎる)

本当に何もないのだ。交通事情もそうだがテレビは某国営放送の他に2局ばかり、しかも電波の関係か時々映像が乱れる。携帯もまた然り。外はともかく家の中じゃ、繋がるといえば繋がるが、とりあえずアンテナを立てなければメールすら受信がままならない。当然、コンビニなんて便利なものはないし(車で十五分も掛かるなんて、コンビニじゃねぇ。しかも夜の九時には閉まるし)唯一の娯楽は持参した携帯ゲーム機器だった。とはいえ、そんなにソフトを持ってきている訳じゃないから、それだっていつまで持つかは分からねぇし、一日中しているとちょっと飽きる。折り返し地点の5日目にしてもうやることがなくなってしまって。祖母に勧められ、とりあえず、外に出たはいいが、外は外で厄介なことに巻き込まれる確率が増える。

「はぁ」

裏口にある流しの水道の蛇口を大きくひねり、流れ出した水に溜息を洗う。手に触れる水がとても冷たいのは井戸に直結しているからだろうか。さっきまで走ってきたせいか、からからに干されている喉にはその冷涼さがうってつけだった。首を捻って勢いよく下垂し続ける水に口を横付け、そのまま飲むことにした。潤う涼やかさに生き返る心地がして、貪るように喉を鳴らし続ける。

「三郎、準備できたからいらっしゃい」

縁側から呼ぶ声に、私はようやく口を水道から離した。

***

しゃくり、かじれば透いた甘みが歯の裏側から広がった。しゃくり、しゃくり。噛む度に繊維が引きちぎれる音が脳と骨との間を舐めるようにして響く。指先から緩慢に垂れ伝わる赤が痒くて、べろりと舐める。けど、絡め取るようなむず痒さが引くことはない。

「もっと、たんとお上がり」

盆いっぱいに盛られた西瓜に「いや、ばあちゃん、多すぎだろ」と突っ込むこともできず、かといって期待いっぱいの眼差しに食べないわけにもいかず、両の手に西瓜を二つも抱え込むようにして私は食べ続けた。一度、食べるのを止めてしまったら、もう一度、西瓜を手にすることができない気がして、ひたすらにかぶりつく。絶対に、明日、腹をこわす。そう思いながら。だが、ようやく山が四分の一に減った所で、さすがに腹が水っぽくなり、限界を訴えてきて、私は手を止めた。

「遠慮せずに食べてええんよ」

 そうやって、にこにこと笑う祖母に「もう無理なんで」と断れば、ひどく残念そうな面持ちに顔を曇らせたのが見て取れて、さすがにちょっと申し訳なくなってしまった。思わず「あの」と声を掛けたけれど、その先が続かない。特に用があって言ったわけじゃねぇからだ。だが、これまで答えるばかりの私から話しかけられたのが嬉しかったのか「なぁに?」と、ぱ、っと明るく表情を切り替えた祖母を見ていると「何でもねぇ」なんて口が裂けても言えなくて。何か話題がないだろうか、と必死に考え、辺りを目線だけで見渡す。

(暑いな……なんて今更だし、向日葵がすごいな、なんて私の柄じゃないし)

鮮やかな風景は目に痛い。視界に映る範囲ではどうにもならなさそうで。少しだけ背を反らせれば、ちょうど縁側に面した仏間の欄間に飾られた古びたモノクロの写真が見えた。ふ、と思い出したことがあって、それを口にする。

「一郎って、じいちゃんの名前だよな」

黒い額縁の中に収められた顔は、若かりし頃の祖父だった。先の大戦で無くなったという祖父とは、当たり前だが一度だって会ったことがない。だから、どんな人物なのかも、よくは知らなかった。知っているのは、この写真一枚と、それから、ちらりと聞いた話だけだ。穏やかそうに微笑んでいる、この一枚からはあまり想像のできない、話。

「そうやけど、それがどうしたん?」
「……いや、別に」

私の視線を辿るかのようにして目が遺影に行き着いた祖母は、ふふ、と口を綻ばせた。

「本当に三郎は一郎さんにそっくりね」

祖母の言葉に心臓がぎゅっと縮み、すぐに跳ね上がった。どっ、と血流が壁を叩く音が聞こえたような気がした。黒に縁取られたモノクロの写真は、私にそっくりだった。前にも祖母に言われたことがあるような気がしたけれど、こうやって改めて眺めれば、まるで自分が死んで奉られているような気にすらなる。

(あの少年は、いったい、誰だったんだろう?)

逃げだそうとした瞬間、あの少年は確かに私に向かって言ったのだ。「一郎?」と。

***

思い返すだけで不可解な薄ら寒さに背筋を覆われ、それを追い払うかのように再び西瓜にかぶりつく。がつがつと食い進めていると、「おほー! いいもの食べてんじゃん」と賑やかしい声が背の低い垣根を乗り越えて届いた。声のした方を臨めば、髪の毛を芸術的に跳ねさせた少年が立っていた。----------------竹谷八左ヱ門というずいぶん古風な名前を、私はこの地に来て二日目に覚えた。

「あら、はっちゃん。ちょうど良かった、はっちゃんも食べてく?」
「いいんすか? おほー!」

遠慮、なんて言葉、端から知らないというくらいにずかずかと家の敷地内に入ってきたこの竹谷という男は、この家から数軒離れたところに住んでいる、この辺りでは数少ない自分と同世代の男だった。名前の通り八男坊で上には姉が5人、兄が2人。そこに祖父母と父母、でかい犬と猫が3匹の大家族。……なんで、そこまで詳しくなったかっつうと、やたらと人なつこいこの男が、出会った初日にぺらぺらと喋り掛けてきたからだった。

「おー、めっちゃうめぇ。やっぱ、ばあちゃんの作った西瓜は天下一品だよな」
「あらあら、そんなに褒めてもーても、何も出てこんよ」
「俺がお世辞なんて言わないの、ばあちゃんが一番がよく知ってるだろ」
「そうだったわねぇ」

自分を置き去りにしてポンポンと進んでいく会話に、自分には関係ない、と西瓜を囓って聞き流していると、不意にやつの会話の矛先がこっちに向いた。

「なぁ三郎、この辺りはもう回ったか?」
「……少しだけな」

初対面からさも当然、とばかりに呼び捨てをされても嫌悪とか呆れすら湧かなかったくれぇに竹谷ってやつは自然と私の心の内にするりと入り込もうとしてくる。ノーと答えれば、きっと竹谷は「じゃぁ、俺が案内してやるよ」と言うのが想像に難くなく、「もう見て回った」と答えようと思ったけれど、あまりに自然に尋ねてきたものだからつい本当にことを口にしていた。

「ならさ、俺が案内してやるよ」

想像通りの展開に、すぐさま「いい」と拒否しようと思った。

(もう誰かと深く関わるなんて、まっぴらごめんだ)

冷たい物を一気食いした時のとも違う、黒板を爪で引っ掻いた時のとも違う、軋むような耳鳴り。ぎゅ、っと瞼を瞑れば、今度は瞼裏で赤い光がちかりと弾けた。眩暈。ぐらり、と奥の闇が歪む。目、目、目。嘲るような、怖がるような。祟られる、気味が悪い、近づくな。つきまとう過去は亡霊みたいだ。振り払っても振り払っても、決して消えることのない-----------。

「三郎? 大丈夫か?」

途切れていた蝉時雨が、耳をつんざいた。ぱ、っと目を開ければ、そこにあるのは過去ではなく現実で。竹谷と祖母が案じるように私を見遣っていた。口に運んでいたやつの西瓜からは、ぽたぽたと赤が落ちていっていた。地面には甘さに惹かれた蟻がいつしか群がっている。ざ、っと引いていた血の気が戻ってきて、額から嫌な汗を噴出させていた。それを拭いながら「大丈夫だ」と心配そうに覗き込むやつの視線を躱した。

「本当に大丈夫か?」
「あぁ。何でもねぇ」
「ならさ、今から、行こうぜ。この辺、結構、おもしろいところあるし」

表面上のつきあいはともかく、それ以上、深入りされたくない。だから竹谷の提案を撥ね退けるはずだったのだ。だが、私が口を開くよりも先に、祖母が嬉しそうに「いいわねぇ、行ってらっしゃい」と竹谷に返答をしていた。いそいそと立ち上がった竹谷は「じゃぁ、ちょっと母ちゃんに言ってくるな」とこっちが止める暇もなく飛び出していった。

***

「まぁ、こんな所か?」

川魚を釣ることができる清流、岩場から飛び込んで遊ぶ岩ヶ渕、早朝に行けば山ほどクワガタやカブトムシが見えるという雑木林、村で唯一の生活雑貨屋、廃校になった小学校……暑いさなか、ありとあらゆる場所を巡り体は布一枚みたいにくたくたになっていた。へろへろになっている自分とは違い、竹谷はまだまだ元気そうだ。昼間よりもぐっと長く伸びつつある影のうち、やつの袂の足取りは楽しそうに弾んでる。

「何もないっちゃーないけど、実は色々あるんだぜ」

確かに竹谷が案内してくれた場所はどこもかしこも都会では決して経験することのできないようなものだった。田舎の夏休み、という言葉にこれほど相応しい場所を知らない。けれど、それは純粋にそういった夏休みを体験しようと思える人にとってであって、私のように閉じこめられた人間にとっては魅力を感じることはできなかった。

「そろそろ帰るか。もうすぐ暗くなるし、最初からあんまり連れ回しちゃ、ばあちゃんが心配するからな」

焼き殺すかの勢いだった太陽も、いつしか力は衰えて山の向こうへと沈んでいっていた。山際がほんのりと黄緑色に照らされ、その稜線がくっきりと描かれていた。その上方には淡い紫雲が腰を落ち着かせている。まだ明るさが残っているとはいえ、土から昇ってくる微かな冷たさに夜の気配を覚えた。やつと解放される、という安堵に浸っていた私の希望を竹谷は打ち砕いた。

「あっと、あと一カ所、忘れてたな」

***

「ここ……」

竹谷に連れられて来た場所は、あの神社だった。「ついでにお参りして行こうぜ」と言った竹谷は、ずんずんと鳥居をくぐっていく石段を登っていってしまい、「ちょっと待て」と声を掛ける間もなかった。あの時は宮の中までは入らなかったが、急な斜面に設置されている階段は、かなり上まで延びている。これを登るのかと思うと、辟易してしまうが、さっきのことを思い出すと、このままこの場所にいるのも嫌で私は彼の背を追った。

(本当に気味が悪いよな)

朱色の鳥居には蚯蚓が張ったような字面の護符のようなものがべたべたと貼られている。もう風雨風雪に曝されて文字がほとんど見えなくなってしまっているような、かなり古いものもあった。横ばかりを見ていると、不意に、欠けていた階段に足をとられ、視線を下に落とす。苔むす石段にできた蟻の行列を辿れば、その先に落ちているのは蝉の死骸。気味が悪い。ぱ、っと顔を上げれば、延々と鳥居が並んでいて、急な坂のせいか先は見通せなかった。九十九と続くそれに、竹谷に騙くらかされているんじゃないか、と不安になってきた頃、まるで骨のような白っぽい鳥居をようやくくぐることができた。

「三郎、こっち」

その最後の鳥居をくぐった私を待ち受けていたのは草場が刈られ土が平らに盛られた空間と、やたらと大きな石碑、その奥に鎮座する社、それからそれを守るがごとく据えられた狐の石像だった。ぜぇ、と途絶えそうになる呼吸を整えていれば、社の前にいた竹谷が私を手招きした。息一つ見出してないやつに、化け物か、って思う。

(まぁ、それはないだろうけど)

祖母にも竹谷が見えるのだから、そんなことはないだろう、と分かっていた。化け物であるはずがない、と。それでも、そう思わずにはいられなかったのは、あれだけのスピードで上がっていったにも関わらず、汗一つ掻かず、肩で息をしていることもなかったからだ。やつの体力が信じれなかった。そんな私の思案など露知らず、竹谷はそれまでの場所と同じように嬉々としてここを紹介しだした。

「ここで毎年、夏になると祭りをするんだ。三郎もちょうど見れるんじゃねぇかな」

そう言われて、私はもう一度、辺りを見回した。鬱蒼と茂っていた木々の中にあるそこは、ごくごく一般的なの宮社のように思え、変わったところは特になかった。だが、たった一つだけ異端だった。----------普通ならば対をなす石の狐が、一匹しかいない。もう一匹の場所には下の土台となる石柱があるものの、上にはぽっかりとした空間があるだけだった。

「この狐……」
「あぁ、こいつは雷蔵狐って言うんだ」

目を細めて唇をゆるめ、あたかも飼い犬を可愛がるかのような表情で竹谷が教えてくれた。

「雷蔵狐……」
「そう。この地はさ、昔から狐が人を化かすって伝説があるんだけど、この雷蔵狐は人に化けるのが下手くそで。それでも、人が好きだから、とよく里に下りてきて、ここの人々に愛されていた狐なんだろうな。まぁ、奉られてるっていえばそうなんだけど、もっと親しまれてる感じだな。ここで開かれる夏祭りも、一部は雷蔵狐のためだし」
「一匹だけなんだな」
「あー、そうなんだよな。本当はもう一匹いたらしいんだけど、ほら」

竹谷が指をさした先には台座だけがあったのだが、よくよく目を凝らしてみれば、その石天板は何かが抉られたような痕が残されている。一段下げた声音で「ずいぶん前に壊されたらしい」と竹谷が呟いた。それからやつが視線をもう一方の台座の雷蔵狐に移したのを見て私もそっちを見遣った。

「ほら、こいつもさ、赤い布を巻いてるだろ」

竹谷が指した指先を辿っていけば、台上に座った雷蔵狐の左前足には確かに赤い布が巻かれていた。雨に打たれて色褪せてしまったのだろうか、鮮やかさが抜けているそれは、ちょっと弛みかけているようだった。そのまま置いておいたら解けてしまいそうだ。

「あぁ」
「こいつもひびが入っててさ。それで、巻いてあるんだ」
「へぇ。……何か、布が解けそうだな。ボロボロだし」
「あー、さっき言ってた、夏祭りで、この布を年に一回、取り替える以外は触らないからな」

 そっか、と相槌を打とうとして、何かが私の中で引っかかった。

(ん? この布どこかで見たような……っ)

はた、と気付いた瞬間、背筋が粟だった。この雷蔵狐と同じような赤布を巻いていたやつを私は知っている。そいつも、確か左手首に巻いていた。血と最初は見間違ったそれ。包帯やリストバンドだったら気にも留めなかったかもしれない。けれど、そいつは赤い布を巻いていた。改めて思い出すと、ものすごく違和感を覚える。

-------私とそっくりな、私のことを「一郎」と呼んだ少年が頭に浮かび上がった。

***

中略

***


(僕、何やってるんだろう……)

 完全に夜に落ちた世界は、二分される。淡い橙色に光る団欒の灯りの周り集まる人の世界と、『視てはならないもの』が悠々と時を過ごす深い黒とに。普段ならば、全然、気に留めることのないその境界が、今日はやけにはっきりと見えるのは、さっきの三郎の言葉が僕の中で灼きついてしまっているからだろう。

(僕らのせいで、か……)

 分かっていたはずだった。三郎が僕らを避けている地点で『視てはいけないもの』を三郎は嫌っているのだろう、そう考えていたのに、いざ、三郎の口から言われてみて、初めて痛感した。きっと、僕らは三郎にとって『視たくないもの』なのだろう、と。打ち込まれた彼の感情が痛い。存在を毛嫌いされることは今までも幾度かあったのに--------------心が哭きそうだった。

「雷蔵」

 瞬きすらない闇が不意に歪み、そこを溶かすようにして二つの影が僕の前に現れた。体はちゃんとねぐらに戻ってきていたらしい。いつもと変わらない神社の景色が辺りに広がっている。す、っと目を細めた兵助は辺りを暗視し終えると、影から形あるものに姿を変えた。続いて、勘右衛門も「今、大丈夫?」と本来のなりに戻る。聞かれたけれど答える気力がなかった僕は、頷くだけが精一杯だった。

「……雷蔵、何か、あった?」
「え?」
「あぁ。ちょっと元気がないように思うが……」

 きゅ、っと眉間の皺を真ん中に集めて僕を見遣る二人に「何でもない」と首を振る。それから、筋肉を総動員して、「大丈夫だよ、ほら」と口の端を上げて見せた。僕の空元気は見抜かれているだろう、それでも言及してこない二人に感謝しながら、訊ねる。

「それより、どうしたの?」

 もう一回来るとは言っていたけれど、まさか、同じ日に来るとは思ってもいなかった。二人もそのつもりだったのだろう「あー」と言い辛そうに勘右衛門は言葉を濁し、兵助に目線をパスさせた。受け取った兵助の方も言い淀んでいるのが分かる。しばらく、視線のやり取りをしていた二人だったけれど、そのうち、意を決したように兵助が口を開いた。

「……主様がさ、怒ってるって噂を耳にしたから」
「え? 主様って、あの?」

 人に『視てはならないもの』と称される僕たちだけど、それぞれ生き様が違う。僕たちなんかは人が信仰するため場に宿っているのに対し、元々の土地に宿っている方もいる。闇の中でしかいることができないようなものもいれば、その土地の全ての『視てはならないもの』を統べて僕たちなんかよりもずっと大きな力を持っている、なんてこともある。統べていることに敬意を込めて『主様』と呼んでいるのだ。

(その主様が怒ってらっしゃる……)

この辺りの主様は、元々は、蛍ヶ沼にいらっしゃった水神様だ。蛍ヶ沼に河童がいるという噂は、どうもこの辺りから出ているらしいが、実際はもっと力のあるお方だ。昔、僕がこの地に降り立った頃に、一度だけ挨拶をしにいったことがある。とても穏やかな方で、怒るなんてちっとも想像がつかなかったけれど、僕よりも様々な地の主様と関わりのある兵助と勘右衛門のことだ、きっと本当のことなんだろう。

「ダムが出来るのもあるし、近いうちに移動されるって話らしい」
「それに巻き込まれる前に、この場所を離れた方がいい」
「というか、即刻、離れるべきだよ」

 主様が移動すれば、この辺り一帯の『視てはならないもの』も同じように移り変わっていくだろう。均衡が崩れることで、地割れをしたり大雨により川が氾濫したりと厄災が引き起こされることもある。確か、前に蛍ヶ沼から少しだけ奥にある泉に移動された時は、水が完全に枯れてしまったのだ。

(あの時は、本当に悲惨だった)

ただ、それ以来移動もなく、そういった話もすっかりと記憶の彼方にあるくらい昔のことだ。今回、何が起こるのか分からなかった。二人の言う通り、今すぐにでも離れた方がいいだろう。ほら、とこちらに伸ばされた兵助の手は、ゆらゆらと闇に溶けかけていた。これを掴めば、すぐにこの地を離れることができる。

(けど……このまま、この場所を棄ててもいいのだろうか? 約束したのに)

 そう考え出すと、どうしても足がその場から動かなかった。刻一刻とそれが近づいているということは重々承知だったけれど、僕の指は頑なに己の拳を握ったままで。誘う手を差しだしたまま兵助は「雷蔵?」と不審げにこちらを見つめていた。

「こうやって雷蔵に言いに来るのって三度目だよね」

 諭すような物言いの勘右衛門に「そう、だっけ?」とすっとぼけたけれど、通じなかった。

「うん。一回目は、相方の像が壊された時。あの時はさ、雷蔵、言ってたよね。僕の力が及ばなかったから悪いんだ、って」
「そうだった、ね」
「二回目はさ、あの戦争の時。同じように雷蔵が壊されそうになったけど、その時は『視る』ことができる人がいたからさ、俺たちも静観してた」
「うん」
「……けど、今度は誰も助けてくれないだろ?」

 ただ真実を突きつけられているだけなのに、息の根を止められたかと思った。

(あの時は、一郎が助けてくれた。-------------でも、今は誰もいない。僕、ひとりなんだ)

 寂しいことだけれど、誰も神社が水の底に眠ることに興味を持っていない。寄り合いでのおじさんたちの話を聞いていれば分かる。皆、自分たちのことで精一杯なのだ。先祖代々住んできた場所から新しい土地に移らなければいけないのだ、不安でたまらないに違いない。きっと、一郎みたいに僕の存在を、神社の事に気を留める余裕なんてない。それは仕方ないことなのだろう。

(今、この場所を棄てなければ、水に閉じこめられるんだ……永遠にひとりになる)

 ぎゅ、っと目を瞑る。脳裏に浮かぶのは、あの約束。けど、一郎はもう帰ってこない。逢いに来ない。三郎が言っていた。一郎は死んだのだ。もう果たされることのない約束になってしまったのだ。僕がここにいる意味は、もう、きっとない。

「この地に愛着があるのは分かるけど、自分のことも考えてよ、雷蔵」
「あぁ。何も、この先の時間を全て賭す必要はないんじゃないのか」

 切々と訴えてくる二人に、僕は目を開け「……分かった」と同意を告げた。ぱ、っと二人に安堵が輝く。じゃぁ、と、さっそく準備に取りかかろうとする勘右衛門と兵助に「でも、もう少しだけ待って」と願い出た。怪訝な面持ちの二人に事訳をする。

「夏祭りがあるんだ。その夜まで、お願い」

***

後略

***