「はぁ?」

上がった語尾を抑える事なんてできなかった。「ハチの声は馬鹿でかいんだよ」と友人らによく抗議されるそのボリュームは軽くマックスを振り切っていたと思う。ビリビリと窓ガラスが揺れるくらい、それくらいに大きく素っ頓狂な声を上げたというのに、だが、目の前のじじいは、瞼をぴくりと動かすこともなく、手にしたカップからコーヒーを啜っていた。体ごと、じいさんの方に乗り出したために、テーブルにぶつかる。そのせいで、たぷん、と、カップの中の黒が波立った。部屋中に染みついた煮詰まった酸味のある匂いが、つん、と鼻を突いた。大きく広げた水面上の波紋が収まってもなお、動じることなくちびちびとコーヒーを啜っている教授に、もう一度俺は声を荒げた。

「何だよ、それ」

もし、他のプライドのある大人が聞いたら眉を顰めるような口調だったろう。相手が目上だというのは分かっていたが、構ってられねぇ。理不尽な通達に、俺の頭はそれどころじゃなかった。声を荒げれば、相変わらず寝てるのか起きてるのか分からない、たっぷりとたるんだ瞼に隠れている目が光ったような気がした。

「じゃからの、このままじゃ、お主は留年じゃ」

 さっきと変わらぬ言葉を繰り返す教授に「はぁ? 何でだよ。集中のさえ取れれば、単位だって足りてるじゃねぇか。あの授業は出席したら取れるって話だし、足りねぇってことはねぇだろっ」と噛みつけば「留年といったら留年だ」と駄々をこねる子どものようにじじいは繰り返した。確かに単位はギリギリだったし、留年の危機を賭けたじじいの授業のテストが後期末にあったのは事実だ。だが「よかったのぉ、これで晴れて最終学年じゃ」と告げたのは目の前にいる大川教授自身だった。だから、痩せ細るような思いをしていた俺は、ほぉと息を吐いたものだというのに、

(呆けたんじゃねぇよな)

 まず第一に心配したことはそれだった。御年いくつかなんて聞いたことはねぇが、確か退官後に再招聘されて教授職に就いているとなると、それなりの年齢のはずだ。そういえば、「最近、物忘れが酷くなってのぉ」と愚痴めいた言葉を零していた。痴呆とまではいかなくとも、記憶があやふやになってるんじゃねぇだろうか。耄碌してしまったんじゃねぇの、と、ちょっと心配になって尋ねてみる。

「あの、忘れてるかもしれねぇんすけど」

そう切り出すとじいさんは「何をじゃ」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。慌てて「いや、先生、お忙しいだろうから、もしかして、と思っただけで」と継ぎ足した俺の言葉に満足げに頷いているのを見て、さらに俺は「や、あの、その、前に『無事最終学年じゃ』って、言ってたじゃないですか」とごにょごにょと語尾を濁しながら続ける。すると、じいさんは、「あぁ」と理解の色を滲ませた声を上げた。よかった覚えてた、ってホッとしたのも束の間、

「あー、そのことなら、なしじゃ」

 意味の分からない宣言に俺は「はぁ?」と今度は盛大に声を突きあげた。じじいが「そんなに怒鳴ると耳が悪なるわい」と手で耳を押さえているのも構わず、喚き散らす。だって納得いかねぇだろ。急になしだなんて。

「何だよ、それ」
「まーなんじゃ、大人の事情ってやつじゃのぉ」
「意味が分からねぇんだけど。何でだよ」
「わしが決めたからじゃ。ともかく、お主は落第じゃ」
「意味不明なんですけど」

 沸騰する血は今にも皮膚から飛び出そうだった。捲し立てる俺に対しても、暖簾に腕押し糠に釘。耳垢取ってねぇのか、かっぽじって聞けぇ、っていうくらいにスルーされる。あんまりにも腹が立ってきて思わずじじいの体を掴んで揺さぶろうかとも思ったが、さすがにそれはまずい。ギリギリの理性でセーブされている感情は、次に何かあれば簡単に着火してしまいそうで、俺は己の拳を堅く握りしめていた。

「じゃが、一つだけお前さんが留年を回避する方法がある」
「え?」

 思わず食らいついてしまった俺に、にやりとじじいは口の端を上げた。それが分かって、ふい、と視線を逸らす。そんな俺に構うことなくじじいは「アルバイトをするのじゃ」と高らかにのたまった。てっきり追試とか追加のレポートとか、あるいは、じじいの学会の資料閉じをするのだとばかり思っていた俺は予想外の言葉に顔を上げていた。

「アルバイト?」
「そうじゃ。わしの知り合いが一人暮らしをしてるんだが、お手伝いさんを探しておるんじゃ」

 まさか、と思いつつ、恐る恐る「それで?」と尋ねる。じじいは、その神さびれた白さを携えた眉毛を大きく動かすと、笑みを浮かべた。童心に返ったような、たいそう楽しそうな笑みをして、そうして、その『まさか』を口にした。

「家政婦として……とは言わないのぉ、この場合は。ともかく、お前さんに行ってもらいたいんじゃ」

 あまりのことに思考が停止した。いきなり回避したと思っていた留年話が再浮上し、落第しないためには、アルバイトとして知り合いの家で働け、だんなんて。全くもって意味がわからねぇんですけど。そう叫ぼうにも、あんぐりと開いた口はすかすかの空気しか通り抜け出ない。黙っているのを了承と取ったのか「異論がないようじゃの、先方に連絡しておく」とじじいが告げられ、やっと俺はフリーズ状態から溶かされた。

「はぁ、マジ、意味が分からないんっすけど」
「単純な話じゃぞ。留年するかアルバイトをするかじゃ」

 そんなことも分からないのか、とでも言いたげに呆れた溜息を吐かれてしまい、何で俺がそこまでして行かなきゃいけねぇんだよ、と心中で毒づく。だいたい、留年しそうな輩は俺だけじゃねぇはずだ。じじいの授業は単位を取るのがクソ難しいことで有名だったし、実際、テスト直前までひぃひぃ言っている同級生もいたし、すでに諦めて「今年は無理だ」と留年決定したゼミの先輩もいた。むしろ、そっちの方が適任じゃねぇのか、と思い、じじいに疑問をぶつける。

「何で、俺なんっすか?」
「お主は責任感が強い男だからじゃ」

 さらりとした口調に明らかに心から思ってもいないことが伝わってきて、「何、適当なこと言ってるんっすか」と辟易する。そんな俺の気持ちが伝わったのだろう、じじいが「飼った生き物をは最後まで面倒を見るのがお主の信条じゃろう」と付け足したが、ますます薄っぺらさに拍車が掛った。つい「で、本当のところは?」と畳みかければ、じじいはあっさりと白状した。

「他に引き受けてる奴がいなかったのじゃ。いや、まぁ、お主の前にすでに他にも何人か当たって、あやつの家に行ってもらったんじゃが、ちょっと色々と難しい奴でのぉ。すぐに逃げ帰ってきて『やっぱり辞めます』なんて言われてしまっての」
「お断りします」

 光の速さできっぱりと断った俺は、続いて「そんな気難しい相手、俺にどうこうできるわけないじゃないですか」と捲し立てる。脳裏に浮かぶのは目の前のじじいのような偏屈な老人。そんな奴の世話を務められるわけがねぇ。だが、じじいは「大丈夫じゃ」と根拠のない太鼓判を押そうとして来て、俺は慌てて「何が大丈夫なんだよ」と反論する。するとじじいは、訳の分からないことを口にした。

「何でもじゃ。何せ、お主の名前は『八左ヱ門』だからの」

 関係ねぇのに、名前のことを持ち出されて、俺の苛立ちは最高潮だった。

「はぁ? 何、意味不明なこといってるんっすか。とにかく、嫌ですからね、俺は」

怒鳴りに近い言いようだったが、じじいは、ふむ、と相槌を返すだけに留まり、ワザとらしく顎に手を当てて考えるふりをしていた。この部屋から出て行く口実を探し、辺りを見回す。部屋にこもった生ぬるい空気と外との温度差のせいで窓はすっかりと白く曇っていた。目の前にあるカップのコーヒーからは湯気が失われつつある。ちらり、とじじい越しに見えた古ぼけた時計は、あと十分くらいで授業が終業することを示していた。ラッキー、と「あの、次、授業なんで」と逃げようとすると、

「残念じゃのぉ。引き受けてくれたら留年の取り消しを掛けあうんじゃが」
「……教育者がそんな恐喝まがいなことを言ってもいいんすか?」
「ほほぉ、お主に言われても痛くもかゆくもないわい」

老獪な笑みを浮かべる教授に、この狸じじいめ、と心の中で罵ってみるが、事態がそれでどうにかなるわけじゃねぇ。この教授のことだ。本気で俺を留年させるくらいのことをやってのけるだろう。それでも最後の抵抗を、と思っていると、不意に教授は声音を変えた。

「なら、ゲームで決めるというのはどうじゃ?」
「ゲーム?」
「そうじゃ。今からやるゲームでお主が勝ったら今の話はなしじゃ。単位をくれてやろう。じゃが、もし、わしが勝ったら、さっきの世話人をするという話を引き受けてもらおう。単純な話しじゃ。どうじゃ、この勝負受けてみんかのぉ」

 勝負、と言われて、少しだけ心がぐらついた。どうせ、どれだけ言ったってじじいを説得してこの話を白紙に戻すなんて無理だ。けど、ゲームとかでこの話をなかったことにできるんだったら、そっちの方がいい。じじいから言い出したのだから、本当に俺が勝ったら、この話は立ち消えるはずだ。

「どんなゲームっすか?」

***

 テーブルに残されたのは銅褐色のコインが一枚。どっかの国のお偉いさんの横顔が刻まれているのだが、その表情は俺を馬鹿にしているかのように見える。しわくちゃな手がそのコインを俺の方に押し出した。俺の名を「ほりゃ、ほりゃ竹谷の番じゃぞ」と嬉しそうに呼ぶじじいに、くそ、っと毒づきながら、「わかってますって」とそっぽを向いたが、「ほりゃほりゃほりゃ」とじじいはしつこくて。それでも無視していると、

「この勝負、わしの勝ちじゃな」

誇らしげに言い放ったじじいに、んなこと言われなくても分かってますって、と内心で愚痴りながら、俺は掌に貯まっていた何枚かのコインをテーブルにぶちまけた。甲高い金属音が響き渡る。とじじいに投げつけなかった自分を褒めてもらいたいぐらいだ。

「ぜってぇ何か裏があるだろ、これ」

天板を滑ったコインの残響は俺の雄叫びによってかき消された。あの後、教授が提案してきたのは簡単なゲームだった。コインを交互に取って最後の一枚を取った方が負け。ただし、コインを取る枚数は一枚から三枚まで自由に選べれる、という単純なルール。最後の一枚を取るかどうかだなんて、運次第じゃねぇか、と俺はゲームをやることに同意したのだが、結果は見事にじじいの勝ちだった。

「裏のぉ……まぁ、あるにはあるが」
「やっぱりっ、イカサマだったんじゃねぇか」
「けど、残念ながらイカサマでも何でもないわい。ちゃんと法則があるんじゃ」
「法則ぅ?」

 こんな単純なゲームにそんなことがあるのか、と信じれず、素っ頓狂な声を上げてしまっていた俺に、「そうじゃ。よぉーく考えれば分かるんじゃがのぉ」とテーブルに広がったコインを集めていたじじいが「まぁ、ゲーム自体は単純な数学の知識があれば解けるんじゃがな。けれど、法則にすると結構美しい法則なんじゃ」と笑った。じじいの口から美しい、なんて似合わねぇ言葉が出たことに寒気を覚えつつ、さっきのゲームのことを思い出す。けど、

(法則って何だ? 全然、分からねぇ)

 単に運だけの勝負と頭から決めつけていたせいで、じじいの手どころか、自分がどんな数を取ったかも記憶にねぇ。覚えているのは、先手必勝だろ、と先にコインを取ったといったことぐらいだ。まぁ、実際、自分やじじいがいくつずつ取っていったのかを覚えていたところで、法則なんて分からないだろう。数学は俺の大嫌いな教科なのだから。

(んなもん、分かるわけねぇよな。考えても無駄だ)

何となく苦手だった算数が中学の数学になって嫌いになり、高校になって大嫌いへと進化した。数字と記号の世界は、理解できねぇことが苦痛で、そのうちに分かろうと努力することもしなくなった。それより、大学受験に必要な部分の公式を暗記して、そこに数を当てはめて解く方が早い、と気づいたからだ。-------分からねぇことを考えるなんて無駄だ。だから、

「で、俺はどこへ行けばいいんっすか?」

 分からねぇことを考えるより、さっさと了承した方が楽だと考え、そう告げた。だが、じじいは、コインをかき集めていた手を止めて、「なんじゃ、随分、諦めが早いのぉ」と呆れたように俺を見遣った。それから「なんなら、さっきの勝負は無効にして、もう一回ゲームをしてやってもいいんじゃぞ。三本勝負とかどうじゃ? それぐらいしたら、見抜けるかもしれんしのぉ」と提案をしてきたけれど、もう端から分かろうとする気をなくしていた俺は断った。

「や、どうせ、考えたってどうせ分からねぇんで。言われた通りバイトした方が早いし」

***

中略

***


(やっべ、もうこんな時間かよ)

 俺が出てきた時のままなのだろう、玄関の鍵は開いていたから、今度はノッカーで知らせることなくスーパー袋を両手に提げて家の中に入った。左手の大きな袋には昼と夜の分の食材が、もう片方には自宅に持ち帰る予定の豆腐。朝に案内されたとおりに廊下を通り抜け、さっきまでいた部屋に戻る。時計の長針と短針は重なり掛けていた。

(あれ、いねぇ?)

 さっきまで兵助が齧りついていた机にその姿はなく、マグカップだけがぽつねんと残されていた。どこか出掛けたのだろうか。見渡せる範囲には、兵助はいなかった。もし遠出でもするのならメモか何かを置いていくだろう、と辺りを見回したが、兵助が書いて貼ったであろう付箋紙が部屋中にあって、その中から探すのは骨が折れそうだった。

(まぁ、そのうち、戻ってくるだろう。昼飯は食べるような雰囲気だったし)

季節的にすぐに食材がどうこうなるということはないだろうけど、とりあえず食材を冷蔵庫にしまおうと、を背後にふいに人が立つ気配がして、兵助以外の顔ぶれが思いつくことのなかった俺は彼を背に「ちょっと待ってろ、今から作るからな」と話しかけ、そして振り向いて、

「お前、誰だ?」

(え、誰って、どういう意味なんだ?)

 猫が毛を逆立てた時のような、不信感が詰まりきった眼差しで睨みつけられ、意味が分からなくなる。つい、数十分前の、春の陽のような穏やかさなどどこにもなかった。触れたら切れそうな、そんな空気を纏っている彼に「何、冗談、言ってるんだよ」と茶化すこともできなかった。キリキリと咽喉を搾りられるような緊迫感に息を吐く場所すらないような気になる。混乱する頭に言葉は思考回路を巡るのみで、口から出すことすらできねぇ。今にも追い出されんばかりの雰囲気に圧倒される。
張り詰めて今にも弾けそうなまでに膨張した空気に風穴を開けたのは、電話のベルの音だった。「あ」と兵助が視線を向けた先に俺も目をやる。今どき目に掛かることのない、ダイアル式のそれは、単なる黒電話とも違って、女性的な丸みの帯びたラインを描く腕の先にある受話口は金色の暈に覆われていてアンティーク調の装飾が施されていた。だが、彼はそれを取ろうとはしなかった。すぐさま戻された彼の眼光は、俺の一挙一動までも逃さないとでもいうかのように鋭い。そのまま、向こうが切るのを待つつもりなのかもしれねぇ。けれど、相手も相当粘っているのか、電話は煩いくらいに鳴り響き続いている。彼は一つ溜息をついて、ようやく手にした。

「……もしもし?」

 俺の方に視線を固定したまま兵助は受話口に話しかけた。次の瞬間、彼の口から出てきた名前に、ほっと、安堵する。「あぁ、大川先生」と。彼が発したじじいの苗字に、普段ならば感じることのない心強さを覚える。じじいに、今置かれている状況を話したら何か原因が分かるかもしれねぇ。問題はどうやって電話に代わってもらうか、だ。あんな風に不信感を剥きだされては頼みづらい。どうすっかなぁ、と何かいい方法がないだろうかと思案する。がしかしと頭を掻きながら、ない脳みそで必死に考えてていたが、思ったよりもチャンスはあっさりと転がりこんできた。

「ん」

 唐突に、俺の目の前に現れた美しい花柄の彫刻に、一瞬、何を差しだされたのか分からなかった。驚きに「え?」と見下ろせば、それはさっきまで兵助が握っていた電話だった。

「何か大川先生がそこにいる学生に代わってくれ、って言ったんだが、お前のことだろ?」

やけに他人行儀な言い回しだったが、今はそれどころじゃねぇ。「あぁ」と相槌を打つと、俺は電話の子機を奪い取るように受け取り、それに縋り付くようにして耳を当てた。混乱していた俺は、普段は腹立たしいばかりのじじいの「おー竹谷、上手くやっとるかのぉ」というのんびりした声にですら安堵を覚えた。

「上手く……さっきまでは、やってましたよ」

 じ、っと、冷静に観察するような兵助の眼差しから逃れるように俺は半身を返し、背を向けた。そう、ほんの少し前までは会話の合間に笑顔を見せてくれてたというのに。なのに、この変わりようはいったいなんだというのか。注がれている視線は明らかに不審者を見るようなものと同じだった。初対面の時の、あの、半開きのドア越しに見せられたきつい光が宿されている。そりゃ、三十分足らずで、親友みたいな仲になれるとは思ってもいないけど、けど、少なくとも、こんな目で見られる覚えはない。明らかに変わりすぎた態度に、どうすればいいのか分からなかった。

「さっきまで、じゃと?」

 不思議そうなじじいの声音に、本当は兵助の豹変ぶりを説明したかったが、すぐ横に彼がいるのだと思うと、口を大にしては言えそうにねぇ。じっと、俺に注がれる視線は何かを分析するように無機質で硬い。少しでも兵助に聞こえない様に、と受話機に口を押しつけるようにして、さらにぐっと声を抑え、「あぁ、さっきまで」とその言葉を繰り返した。

「……あぁ!」

 思い出した、とばかりに一度沈んだじじいのトーンがすぐに跳ね上がった。耳元で繰り返される、そうじゃったそうじゃった、という、どことなく楽しげな呟きに嫌な予感が脊髄を奔る。反射的に電話を切ろうとしたけれど、「今、切ったら、単位なしじゃからの」と鋭い読みが入った。ますます募る不安感は「おぬしに言い忘れたことがあったんじゃ」という言葉で最高潮へと盛り上がっていく。じじいに「何だよ、言い忘れたことって」と張り上げた問いは、けれど、強がりでしかなかった。

「おぬし、今日は何時にその家に来た?」
「え、言われたとおり、九時半過ぎに来ましたけど」

 突然、意味不明な質問をされ、じじいの考えていることはさっぱり分からなかったが、とりあえず答えた。それと言い忘れとどう関係があるのか。続きを待つ受話口からは「ほぉ、竹谷が遅刻せんかったとは、珍しいのぉ」と、答えとは関係のねぇ驚きが漏れてきて、心の中で悪かったなと毒づき、代わりに「それが?」と別の言葉を問い投げた。だが、

「ずっと、その家にいて兵助とおったかのぉ?」

 質問を質問で返され、おまけにその内容がさっぱり繋がらないものであったために、俺は「それが何か関係あるのかよっ」と、ちょっと苛立ちを含めて捲し立てた。(もちろん、兵助に気取られないように、受話器の部分を手で覆っていたが)だが、じじいはそんなことなど構う様子もなく「関係があるもないも、関係は大ありじゃ」といつもの口調のままで。いいかげん、腹を立てるのが馬鹿らしくなって、茹っていた俺の頭は少しだけ落ちついた。

「え、いや、途中で買い物に」
「何時くらいじゃった?」
「えー? 確か、十時過ぎくらいだったかと」
「今はー、あー、あと十五分もしたら正午じゃから、ちょっと遅かったかのぉ」

 じじいの言葉につい振り向けば、壁に掛けられた時計は確かに長針が頂上よりもやや戻ったところにあった。静かに時を刻む秒針が耳に突く。じじいが告げた時刻を指し示していた。確かに今は十一時四十五分を回ったなのだが、それが何だというのか。っと兵助の穿つような眼差しを再び浴びていることに、はっ、と気づいた俺はまたさりげなく彼に背を向けながら、「今が十二時前だと何か問題があるのかよ?」と苛立ちをぶつける。

「問題ってわけじゃないんんだがの……兵助の様子がおかしくなってないかのぉ? 急に態度が変わったとか、何か怪しいヤツを見るときのような目つきになってるとか」

 まるで俺たちのことを見ていたかのように言い当てられ、一瞬、エスパーかと思わずには言われなかった。何で分かるんだよ、と突っ込む前に、間髪入れずに「わしはエスパーじゃないぞ」とじじいの言葉が耳を打つ。本気で心を読まれたんじゃないか、ってくらいのタイミングに絶句していると、じじいがまた意味が分からないことを言い出した。

「そこにいる兵助は、さっきおぬしが出会った兵助じゃない」
「はぁ?」

 思わず声を上げて、勢いのまま振り向こうとした己の衝動を、あからさま過ぎる、とギリギリの所で何とか抑えて。体は反転させず、首だけを少し回してちらりと視線を彼の方に流した。そこにいるのは胡散臭そうに俺を見遣っているのは兵助だった。そう、彼が俺に真向けている冷たい眼差しは、最初に半開きの扉から対応された時のと何一つ変わらない。どう考えても目の前にいる人物は、兵助以外の何者でもないだろう。なのに、じじいは、こいつがさっき会った兵助とは違うと言う。

(さっき会った兵助じゃねぇ、ってどういう意味だ? でも、同じ顔なんだけど。もしかして双子とか? いや、だとしても、同じ名前ってのはねぇだろうし)

 どれだけ考えても答えが見つからず、混乱する頭に考えるのを投げ出したくなった俺は「どういうことだよ、それ」と、受話器越しにじじいを詰め寄ることにした。すると、思いも掛けぬことをじじいは口にした。

「兵助はのぉ、九十分しか記憶が持たないんじゃ」