※シリアス展開ですがハッピーエンドです。
※雷蔵の彼女が出てきます。



封をした過去が届いたのは、式を挙げようとしていた冬の、その始まりのことだった。

***

(ふぅ、疲れた)

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。思い出したように時々、足下の影が同化していたアスファルトの黒から別れて浮かび上がってくる。とっぷりと暮れた闇を、佇んでいる街灯が辛うじて照らし出しているからだろう。男の僕でさえもちょっと怖さを覚える夜道だけに、今夜遊びに来たいと言っていたカノジョに断りを入れて正解だった、と思う。駅から徒歩十五分。繁華街を通り過ぎれば、灯りがぐっと少なくなり、夏は痴漢が出たりすることもある。

(何かあったら嫌だし。……でも、怒ってるんだろうなぁ)

 カノジョからハートが乱舞しているメールが届いたのは昼休みのことだった。最近、会ってないから会いたいという。だが、僕の方はといえば、ちょうど仕事が山場に差し掛かっていて、正直な所デートする暇なんてなかった。朝、コンビニで買ったサンドウィッチをくわえながら、開いている右手で忙しくて出かけることができないことを率直に返信すれば、一分も経たないうちに携帯が震えた。マヨネーズに入っていたマスタードの粒に詰まる喉をお茶で宥めた後、携帯をいじれば、私がアパートに行くよ、と前向きな捉えのメッセージがやっぱりハートと共にそこにあった。彼女の気持ちは嬉しかったけど、残業が何時に終わるか分からないが、終電に間に合うかどうかの時間になるのは予想が付いた。それまで待たしておくのもしのびない。第一、彼女自身も仕事があるだろう。この時期、暗くなるのは早い。大通りから外れていて寂れた所にあるアパートにひとりで向かわせるのは心配だった。自分が迎えに行けたのなら問題ないのだろうけど、それはできないわけで。僕の指は自然と『今日は止めておこう』という文字を選んでいた。さっきは速攻で返信が来たというのに、待てども彼女からの返事は来なかった。結局、携帯は沈黙を貫いたまま、昼休みは終わってしまって。

(あとで、フォローの電話した方がいいかな? まだ起きてると思うけど)

 何とか間に合った終電から駅に降り立った頃には、とっくに日付を越えていたけれど、普段の生活から考えるに彼女はまだ寝ていないだろう。コートのポケットがやけに重たく感じるのは、そこに入れてある携帯電話の重量だけじゃないだろう。今から電話をするのは面倒だな、という想いが無意識に浮かんできた。きっと悪くなっているであろう機嫌を取るために、三十分は掛る。みしみし、と歩くだけで軋みを感じるような、疲れ切った体と心には酷なことだった。じゃぁ、彼女の気持ちが落ち着いてから、と、明日にでも電話するか、と後延ばしにすればしたで、朝起きたらきっと『何で電話くれなかったの』ってメールが届いているのは目に見えていた。余計、厄介なことになるに違いない。

(いやだな……あ、)

さっきから、厄介だとか面倒だとか、そんな負の感情ばかりを抱えている自分に気がついて、口の中で苦笑いをすり潰す。これから先、パートナーとしてやっていくというのに。付き合って二年と半年。セックスをする時にあった恥じらいの感情もそろそろ消える頃、僕たちは結婚を決めた。でき婚とかではなかったけれど、僕も彼女も年齢が年齢だったし、周りの友人たちも家庭を築くようになってきていて、別に独身貴族でいたいという感情もなかったし、そのうち彼女と結婚するんだろうなと、ぼんやりとは考えていたから、たぶん、自然な流れだったと思う。

(なのに、何なんだろう……)

 もやもやとした霧が掛っている心がある。マリッジブルーに男でもなるんだろうか、なんて笑えるくらいだから大したことはないのだけど、何となく結婚に対していまいち前のめりになることができない自分がいた。ちらり、と古くからの友人である竹谷にそのことを漏らしたら、「家庭を持つってことが初めてだから不安なんじゃねぇの」と笑われて、そうかもしれない、と納得させたけれど、式場の手配をして、衣装を選びに行って、案内状を出して……結婚の準備が整っていくにつれて、心の中で誰かが言う。これでよかったの、って。

(……うん、これでよかったんだ)

 問いかけに答える僕の内声を、甘ったるい音楽が遮った。このメロディは、カノジョからだ。専用に、と彼女が選んでダウンロードした曲は僕が普段あまり聞くことのないもので、一発で彼女から掛ってきたことが分かる。コートの中にあるせいか、どこか息苦しそうに聞こえるそれを取り出せば、サビの所にきたのか一際メロディが盛り上がった。少しだぼついた手袋で畳まれた携帯を広げる。迷いなく、通話ボタンを押せば、耳に一瞬の静寂が押し寄せた。

「もしもし」
「……もしもし」

 いつもより数段低いトーンの彼女の声はがさがさと揺れていた。ノイズのせいなのか、それとも泣いて咽喉を嗄らしたのか。よく分からないけれど、とりあえずは友好関係を築きなおすのが先決だ。もしもし、と言ったっきり、彼女は話を展開させようとはしなかった。僕の靴が闇に着地する音だけが耳に届く。このまま沈黙に閉ざされそうな気配に、慌てて謝罪の言葉を継ぐ。

「今日は、ごめんね」

 何が、とは言わなかった。彼女も、何が、と尋ねてくることはなかった。少なくとも、相手が何を言いたいのかなんて、二年半も付き合えば想像に難くない。実際、彼女もすぐに思い当たったのだろう。何秒と待たずに「いいよ。仕事、忙しいんだから」と当てつけなどではなく、心の底からそう思っているような温かな声が戻ってくる。そして、耳に当てた携帯から、「今、帰り?」とこちらを心配するような声音が続いた

「うん。ちょうど、電車から降りて歩いているところ」
「そっか。気を付けて」
「うん」

 ぽつ、ぽつ、とした言葉のやり取りだけで、それ以上、先をうまく紡げない。ぱっと思いつくだけでも、「最近、仕事はどう?」だとか「」だとか、それこそ「お昼、何食べたの?」とかそんなのでいい。会話の種はたくさんあるのに。なのに、どれも芽吹かせる気にはなれなかった。代わりに、「昨日、DVDでね……」と話しだす彼女に相槌を打つことに専念する。

「あ、ねぇ、明日は会える?」

 そろそろ会話が終息に向かっているんじゃないか、という頃になって、彼女がこっちを覗うような、そろりそろりとした言い回しで、話を戻した。明日、と頭の中でスケジュールを確かめる。きっと今日みたいな一日になるだろうと予想できた。でも、ここで「ごめん」と言えるような気の強さもなく、「遅くなってしまうから、ゆっくりはできないかもしれないけど」と、曖昧に返事をする。すると彼女は、「明後日お休みだから、泊っていくよ」と変化球を投げてきた。確かに、明後日(いや、もう日付は変わっているから明日か)は土曜日で、僕も会社は休みだ。どこか甘えるように「いいでしょ」とねだる彼女を断る理由がなく、「いいけど」と僕は了承した。

「やった。お泊り、久しぶりだね」
「遅くなるだろうから、そっちの家まで車で迎えに行くよ」
「えー、いいよ。そんなの大変でしょ」
「うん。でも夜道、心配だから」

 僕の言葉に、彼女はふふ、と柔らかな笑いの息を漏らした。僕が「どうしたの?」と尋ねると「だって、心配してくれるんだなー、愛されてるんだなって思ったら嬉しくなっちゃって」と率直な言葉を並べた。その言葉に、ざわり、と胸が騒ぐ。理由は分からないけど、心臓に爪を立てられたような、そんな感じだった。上手く切り返せずにいると、

「あ、そうそう。その時に相談したいことがあるんだけど」
「相談? 式のこと?」
「うん。披露宴の席順を決めたいなーと思って。まだ全部じゃないけど、みんなから返事が届いたから。だいたいの数とかは分かるだろうし。いい?」

 彼女にそう言われ、ポストを最近見てないことを思い出し、少し焦りつつも「あ、うん」と了解する。できるだけ手造りの式にしたい、という彼女の要望で、ウエディング専門店で真っ白の紙やら封筒やら、それを彩る可愛らしい飾りを買ったのは数週間前のことだった。結婚式と披露宴の案内文を二人で考え、プリンターで印刷し、リターンアドレスを入れて手分けして友人や会社の上司などに送ったのだった。仕事も私生活もメールなどのネット媒体で済んでしまうこの時代、新聞でも取らなければポストを覗くことなんて習慣になくて、すっかり忘れてしまっていた。

「じゃぁ、けってーい。明日、私の分、持っていくから、そっちも準備しておいてね」

 朗らかに謳い上げる彼女に押されつつ「あ、分かった」と答える。ちょうど、角を曲がった先、茫洋とした闇の中に自分のアパートが見えた。家賃が安い、という理由だけで学生時代からずっと棲んでいるアパートは、一部屋一部屋ではなく、外階段の下に銀色の集合ポストが設置されていた。感知式センサー、なんて洒落たものはないため、一晩中、点きっぱなしの蛍光灯が白っぽい光をそこに落としているのが遠目でも分かった。二階に上がる前に寄らないと、と頭に叩き込みつつ、耳元の彼女に「じゃぁ、また明日」と告げる。掛ってきた当初とは全く違う明るい声が響く。

「うん。……あ、雷ちゃん」

 切ろうとしていた指先を彼女の声が引きとめた。なんだろう、と思い、訊ねようとする僕よりも先に、「あのね、」とちょっと抑揚が舞い上がった。さらに耳を澄ますと、なぜか笑っている息遣いが伝わってきた。笑いといっても面白がる、というよりは、ひとりでツボに入っているだけ一向にこっちには事訳がこないものだから「どうしたの?」と改めて聞く。すると、彼女はくすくすと空気を揺らしながら、それでも、まっすぐ僕に告げてきた。

「雷ちゃんのこと、あいしてるよ」

それでようやく彼女がさっき照れ隠しに笑っていたのだと気がついた。耳に熱が溜まる。これが電話でよかった、そう心底思う。あまりに唐突な台詞で、しかも、普段言われない、言わないようなことを言われてしまい、驚いてしまった。僕は「えっと」とその言葉だけを繰り返すしかなかった。だって、どう返事をすればいいか分からない。壊れたレコーダーみたいにそれだけを言っていると、じれったそうな声が耳で弾けた。

「もー、雷ちゃんは?」
「え?」
「雷ちゃんは私のこと、愛してる?」

 疑っているとか不安に思っているとかじゃなく、純な質問だった。僕が「うん」と頷けば、彼女はもどかしそうに「うんじゃなくて、愛してるって言ってよ」とぶうたれた。可愛いだとか好きだとかは言うけれど、さすがに何でもない場で「愛してる」なんて使った事がなくて、照れだけが先行する。またもや「えっと」のオンパレードになる僕に彼女は「照れ過ぎ」と笑った。それでも「もういいよ」っていう言葉はなくて。誰に聞かれているわけでもないのに、受話器に口を寄せると「愛してるよ」と何とか囁いた。それで満足したのか「私も。じゃぁ、おやすみ」と弾んだ声に続いて、ぶち、っと電波が途絶えた、

(愛してるよ、か)

 心の中でその言葉を転がしてみる。けれど、何だかしっくりこなかった。音と感情が繋がらないような気がしてならない。愛してる、愛してる、愛している。その響きがぐるぐると回りだしかけるのに、ストップを掛けた。迷いのどつぼに入りたくない。自分に言い聞かせる。僕は彼女を愛してる、それだけで、いいんだ、と。

(っと、忘れない様に見ておかないと)

 銀色の鈍い光に、はっ、と思い出した。いつものようにポストが背景の一部となっていたために、そのまま通り過ごしそうになっていた。普段なら足を踏み入れない、階下の共有スペースに身を置き、さっと視線を走らせる。自分の部屋のポストがどれだったか、一瞬、見分けがつかないほどに、久しぶりだったのだ。プラスチックのカバーで保護された部屋番号と苗字が書かれている紙は、すっかりと黄ばんでしまったものもあれば真新しいものもある。ようやく見つけた僕の部屋のそれは、昔から棲んでいるからだろう、日焼けしてほとんど文字が見えなくなるほどに紙の色が濃くなっていた。特に鍵も何もないために、そのまま横開きの扉を力任せに開ければ、どさ、っと溜まりに溜まっていたらしい郵便物が勢いよく落ちてきた。

「わっ」

 まさかこんなにも、と、慌ててコンクリートの床に散らばったそれらを拾い集める。大半は、見覚えのある封筒だった。僕が出した結婚式の招待状の返信だった。数週間前に僕の手によって印刷されたのだ。見覚えがあって当然だろう。蛍光灯の光を吸った真っ白の封筒に伸ばした僕の手の翳が淡く落ちる。宛名の下の方に書かれた『行』だけに別の筆跡があるが、それ以外は、全く同じで。それさえなければ、そのまま手紙が返ってきたのだ、と言われても違和感がないくらいだ。それにしても、自分で出した手紙がこうやってまた自分の元に戻ってくるのは不思議な感じだった。

(自分で自分に宛てて手紙を書くことなんて、あんまりないし……ん?)

 爪に、かちり、と一枚の封筒が引っ掛かった。真っ白のそれは僕が作った他の封筒と何ら変わりはない。けれど、どこか違和感を覚えた。コーヒーの匂い。ふ、とひっくり返してみて---------------息が止まった。宛先は『不破雷蔵様』、僕で、それも他の封筒と同じだった。ただ、違うのはそれが印刷された字ではなく、手書きだったということだ。そして、その字を僕は知っている。

(これ……)

見覚えのある筆跡は角が僅かに丸っぽくて、どこか幼さが残っている。封筒はやたらと白くて、まるで昨日今日、封をしたばかりのように感じるけれど、もう十年以上も前の手紙だった。-----------彼の声が聞こえる。三郎の声が。

「雷蔵」




ハッピーエンドの少し前