ちょうど窓側に面した席から見える外は、少しだけ霞んで見えた。それがこの季節特有の砂埃のせいなのか、それとも窓ガラスが汚れているせいなのか、あるいはその両方なのか。ガラス一枚で隔たれている世界は、どことなく偽物のように感じる。
ふ、と視線の高さを少しだけ下げれば、ちょうど春物の薄手のコートをはためかせた女性が通り過ぎていくところだった。首を竦めている姿にまだちょっと早いだろうに、と他愛のない感想を抱いた。

だが、それも一瞬だろう。すぐに雑踏に流されていく彼女が俺の記憶に残ることはない。数分後には忘れているだろうし、同じような光景を見てまた同じような感想を持つのだろう。別に彼女に限らず誰に対してもそうだろう。タールのような色合いの山高帽を被った老人を見かけるのはもう何度目か忘れてしまったし、親の足下を縫うようにして走り回る子どもにそのうち転けるぞとさっきも思った気がする。

(そんなもんだよ、な……)

まるで河の流れのように滔々と過ぎ去っていく人々が俺の印象に残ることはない。逆もまた然りだ。出会いがあれば別れがある。出会いを奇跡と喩える歌が世の中にありふれているが、その奇跡以上にたくさんの人とこうして交差しているのだと思うと、少しだけ不思議な気持ちになって、どうしようもない昏さを覚えるのだ。

「何だ、緊張しているのか?」

馴染みの歌をハミングするような愉しそうな口調に滲む三郎のからかいに、俺は窓辺から視線を剥がした。にやにやとあからさまな茶化しに、いつもだったなら俺も「するわけないだろう」と軽口を叩き返したかもしれない。だが、しこりが突然現れたかのように喉の硬さを何故か覚えて。別に、としか出てこなかった。

「別に、ねぇ」

上がっていた彼の口角が、さらに数ミリだけ上昇した。ちらりと投げかけられた鬱陶しい視線から逃げるために、俺は俯こうと、既に十分手に届く範囲にあったカップをソーサーごとさらに手前に引き寄せた。
静謐から無理に目覚まされたかのような水面は抗議するように大きく波立った。だが、紅茶独特の舌をわずかに痺れさせるような芳醇な匂いが、カップの中から昇ることはなかった。安物の茶葉なんだろう。どうせ水のような味なんだろうな、と考えれば手を付けたくなくなったが、かといって三郎の皮肉にこのまま付き合うのも、正直面倒だった。

(三郎が想像しているものとは違うけど、まぁ、緊張してるのは事実だしな……)

放っておこうと結論づけたのは、喉だけでなく全身が突っ張っているような感覚を朝からずっと引きずっているのもまた事実だったからだ。緊張してないといえば嘘になる。何せ、大切なものを得ることができるかもしれない、またとないチャンスなのだ。この機会を逃してしまえば、二度と手に入れることはないだろう。そう分かっているだけに緊張もする。

(全ては、これに掛かっているのだ)

意識してしまえば煩い心臓。耳に宿り続けているざわめきを気にしないように、と思考を切り替えようとすればするほど、まとわりついてきて離れてはくれない。
そう緊張してはいるのだ。ただ、三郎の思い描いている理由とは違うだけで。----------おそらく、三郎は相手がどんなやつか、と思って俺が緊張していると思っているのだろう。


 
今日、俺は結婚する。ただし、偽装結婚だ。



『相手は、元々、役者目指してこっちの国に来てて。んで、観光ビザが切れるだか何だかの関係で、永住権が欲しくて結婚したいんだと』

三郎に教えてもらった前情報はそれだけで、どんな人なのかというのは一切伝わってこなかった。でも、まぁ関係ない。あくまでも偽装結婚なのだから。しかも偽装結婚といっても、実際に一緒に生活する訳じゃない。書類上だけの話だ。だから、どんな相手でも別によかった。
そう、緊張しているのは、相手と初めて会うからどんな奴か気にしてる、とかそういったことではない。別のことだ。偽装結婚そのものというよりも、その先にあるチャンスのことだ。だが、そのことをわざわざ三郎に告げる必要はないだろう。

そう考え、カップに口を付けたのだが、想像通り不味かった。どこの水道水で薄めたのかと思うくらいに、すぐさま飲むのを止めたくなる。けれど、これ以上三郎と応酬する気になれなかった俺はカップを少しだけ傾けて、ゆっくりと飲むことにした。
こちらの意図に気づいているんだろう、ちらりと視界にはいった三郎の口角はますます緩んだものだった。にやけた表情のまま「まぁ、分からなくはないけどな」と、そこで一度言葉を置いた三郎は、わざわざ俺の顔を覗き込んだ。

「結婚だなんて、一生に一度の出来事なんだから」

偽装結婚の相手に会うためにこの『アフリカ』というカフェに呼び出されたわけなのだが、少しだけ後悔していた。こんな風にからかわれると分かってたなら、三郎に仲介なんて頼まなかっただろう。

(一生に一度、だなんて、三郎のやつ完全に楽しんでるな)

一生に一度だなんて仰々しい言葉を使っている割に、そんな風に全く思ってないのだろうというのが、その表情からありありと伝わってくる。偽装結婚をする俺が言うのもあれだが、結婚に神聖さなど欠片も感じてない三郎は、子どもが新しいおもちゃを見つけた時のような目の輝かせ方をしている。

「……そうだな」

これ以上、こいつのおもちゃにはなるまい、と俺は適当に流し、再び、カップに口を付けようとした。その瞬間、「お、来た来た」とひょいと俺を越して窓ガラスの向こうに視線を投げた三郎に、俺もつられて振り向いて---------衝撃が貫いた。

「はっ?」

素っ頓狂な声が店内を突き抜けた。妙な声がそれが自分から発せられたのだ、と気づいたのは周囲の怪訝そうな視線が俺に集まっていたからだ。何でもないです、という風に会釈を適当に流せば、すぐに眼差しは散っていったけども。

「何だよ急に変な声出して」

周りに見られて恥ずかしいじゃねぇか、とぼやいた三郎に、恥ずかしいじゃないだろ、と俺はにじり寄った。正直、持っていたカップを落とさなかっただけでも、自分を褒めたい。それくらいの衝撃があった。

「え、ちょ……だって……あいつ男だろ?」

そこにいるのは、やけにくっきりとした笑顔を浮かべた、男、だった。

「あれが女に見えたら病院に行くことを私は勧めるよ」

そう冗談めかして笑った三郎は「よぉ」とガラスの向こうに軽く手を振った。いつの間にか、そいつが窓辺まで寄ってきていた。すこんと抜けた青空を映したかのような眩しい笑顔を浮かべたそいつは、どこからどう見ても男だ。だが、俺が言いたいことはそんなことじゃない。

「そうじゃなくって……だって、結婚相手を紹介するってお前言ってたじゃないか」
「誰も女とは言ってないだろ」

この町は男女関係なく結婚できるんだから、と続けた三郎は「自由の国だからな」と嘯いた。確かに性別に関係なく結婚はできる。法律上にも道義上にも宗教上にも何ら問題はない。そう何ら問題はない。
だが、だからといって「じゃぁ、あの男と結婚しろ」と言われて首を縦に振ることができるかといえば、それは別問題だ。

「言ってないけど……けど、だいたい、お前、結婚相手について何も教えてくれなかったじゃないか」
「お前だって聞かなかっただろ」
「っ……そりゃそうだけど……」

確かに聞かなかった。話を持ちかけられた時に、偽装結婚できるんだということに安心してしまったから。相手について何の要望を出さなかったのは俺の方だし、聞かなかった自分にも非があるのは認める。だが、あまりに騙し討ち過ぎやしないだろうか。いくらなんでも、相手が同性だとは思うまい。

「いくら何でも、男はねぇだろ」

こちらの文句に三郎は少し不満げに俺を見遣った。

「だって、どうせすぐに離婚するんだから必要ないだろ」

そう。どうせすぐに離婚する。-------------所詮、偽装結婚なのだから。

「そうかもしれないけど……」
「だったら、別にいいじゃないか」
「……だいたい何で男なんだよ?」
「まぁ、理由は二つ」

一つ目。と、彼はぴっと人差し指を立てた。

「男同士だと、本当に好き合っているから結婚したんだって思われて、疑われにくい」
「……二つ目は?」
「二つ目は、男だったら情が湧くこともないだろうから、後腐れなく別れることができるだろ」

確かに、新たに指を立てた三郎の言うとおりだろう。本気で好き合っている人たちには申し訳ないが、確かに一理ある。男同士でわざわざ偽装結婚しようだなんて考えもしないだろうし、少なくとも相手を好きになることもないだろう。そう、一理はある。一理はあるが、どうも納得がいかない。

「……他にいいやついなかったのかよ?」
「いないね。あいつと結婚するか、諦めるかの二択だな……おい、ハチっ! どこ行くんだよ、こっちだ」

言いかけの文句が三郎に届くことはなかった。いつの間にか店の中にそいつが入ってきていたから。手招きされたそいつは、ほ、っとしたように笑みを浮かべ「お、何だそこか」と三郎に応じた。

「そこか、じゃねぇし。どこいくつもりだったんだよ」
「しゃーねぇだろ、中、入ったらどこにいるか分かんなくなってさ」

そう言いながら駆け寄ってきたそいつをしげしげと観察する。さっき窓の向こうで見せていたのと同じくっきりとした笑顔とは対照的に、ぼさぼさに乱れた髪に薄汚れたカーキのコート。一応、その中から覗いているのはスーツのようだが皺だらけだしネクタイはねじ曲がっている。それ以前に、あまりに似合っていない。まるで借り物が歩いているような、そんな感じだ。どことなく貧相な格好は、これから結婚を挙げるに相応しいものとは思えなかった。

(本気で結婚するつもりなのか?)

三郎に担がれているんじゃないだろうな、と疑いたくなる。質の悪い冗談が好きな三郎のことだ、その可能性を否定できない辺りが、俺と三郎との信頼関係の薄っぺらさを物語っている。

(まぁ、そんなこと三郎に言おうものなら『お前は誰とでもだろ』って言われかねないけど、な……)

誰かと深く関わるのは苦手だ。----------深く関われば、覚悟しなければならないから。

(っ)

思いを寄せるだけで痛む胸に、我ながら女々しいなと思う。けれど、傷は傷のままだ。時が経てば癒えるものでもなく、ただただ、古傷として残っているそれに、未だに誰かと深く関わる覚悟を持てずにいた。
最初から適度な距離を保っていた方が、ずっと楽だ。正直、今回の件だって三郎の手を借りるのは嫌だったのだが、他に伝手もなくこうして偽装結婚の相手を探してもらった訳だが、もはや後悔しかなかった。

「こんな狭い店で迷うとか、本当に馬鹿だな」
「うるせぇ……あ、こいつ?」

初対面だというのに『こいつ』呼ばわりされたことに、苛立ちが膨れ上がる。ふつりと浮かぶそれを、少しの間だけだから、と自分に言い聞かせる。必要以上に関わり合う必要なんてない。深く関わることなんてない。

(……どうせ、この数時間の間だけなんだから)

そう、数時間なのだ。結婚はするが、一緒に過ごすのは僅かに数時間だけだ。役所で書類をもらい、記入して提出するまでのその間だけ。腹を立てようが苛立とうが、とりあえず、この数時間さえやり過ごしてしまえば、後は何とでもなる。
そうは分かりつつも『こいつ』と言われるのは何か気分が悪くて。

「どうも。久々知です」
「くくち?」

名乗り出た俺の言葉に対して『ハチ』と呼ばれたそいつは明らかに首を捻った。俺が自己紹介をすれば、ほとんどのやつがこういった反応を見せる。まぁ、そうだろう。『久々知』が珍しい名字だという自覚はある。
まぁ、こっちではどちらかといえば『くくち』という発音に苦労している姿を見せられる方が多いが、おそらく同じ国にルーツを持つであろう彼の場合、頭の中ですぐに漢字を変換できなかったのだろう、もう一度「くくち」と彼は呟いて。それに対して反応を返すべきかどうか少しだけ迷ったけれど、俺は唇を引き結んだ。乾いた風が入り込んで、ざらりとした気持ち悪さを口内に残した。
普段、その後も関係を持つやつには「兵助」と名前も教える。『くくち』は言いづらいだろうという俺なりの配慮だ。『へいすけ』も言いやすいかと問われれば別だが『くくち』よりはましだろう、と。

(けど、まぁ別にこいつに教える必要はないよな)

あと三十分もすれば俺たちは連れ合いになるが、一時間もすればさよならだ。顔を合わせることもない。そして、数ヶ月後には再び、書類の上でも関係なくなる。その数ヶ月の間、会うことはないのだ。俺たちの関係性なんて、大通りの交差点ですれ違ったくらい人と同じようなものだ。別に名前を告げる必要はないだろう。

「じゃぁ、行くとするか」

伝票を掴んだ三郎に続いて俺も立ち上がれば、逆に隣に椅子を引いて座ろうとしていたそいつは、虚を突かれたかのような面もちを浮かべた。中途半端に腰を浮かしたまま「行くって?」と首を傾げた。一瞬、からかわれているんだろうかと思ったが、どうもそうじゃないようだ。きょとん、と見開かれた目には疑問符が映っている。

「結婚証明書を役所に出さないと、何も始まらないだろ」

ため息を隠しながらそう答えれば、ようやく行き先を理解したらしく「あぁ、そうだな」と相づちを打った。だが、そう頷いた割に、そいつはコートを脱ぎだした。あまりに突然のことに、いったい何をやってるんだ、と突っ込むことも忘れ、ただただ俺はそいつがコートを椅子の背に引っかけるのを見ているしかなかった。
呆気にとられている間に、その腰はすっぽりと椅子に納まっているし、体は背もたれに預けられてしまっていた。全然、今から出かけようという気配がない。むしろ、完全に居座るようにしか想えなかった。その証拠に、

「あ、それ飲まないならさぁ、俺にちょうだい」

そいつは俺の手元に置きっぱなしだったカップの方に手を伸ばしてきた。ようやく俺の止まっていた思考回路が動き出す。だが、あまりの馴れ馴れしさに戸惑いが口を突く。いや、戸惑いじゃなく苛立ちも混じっていたのかもしれない。

「は?」
「俺、すんげぇ喉渇いてるんだよね」

ここまでダッシュで走ってきたからさぁ、と続けるそいつに「そんなこと知るかよ」という言葉が飛び出しそうになる。慌てて、口を意図的に閉ざしてその台詞を飲み込み、少しでも冷静になろうとその場でゆっくりと深呼吸を繰り返す。すると、そいつは俺の方を見上げると不思議そうに首を傾げた。

「なぁ、何で立ってるんだ?」
「何でって」
「んなところに突っ立ってねぇで座れいいじゃん」

本当に状況を理解しているのか怪しい言葉に、さすがに流すことができなくて。

「……座れば、ってもう行くし」
「んな焦らなくても、役所は逃げないって」

だいじょーぶだいじょうぶ、とあまりにお気楽な態度に俺の中に溜まる苛立ちは増す一方だった。ふつふつと沸き立つ怒りを、ぐ、っと握りしめた拳の中に押し込める。そんな俺の様子になど全く感知してないのだろう、そいつは暢気にカップを俺の元から引き上げて。けど、

「あ、けど、それ紅茶か。ならいいや」

と、すぐに戻してきた。波立つ紅茶の面に思わず視線を寄せていると「おい、お前等、何やってるんだ? 早く行くぞ」と会計を済ませたのか、レシート片手に三郎が俺たちの方に戻ってきた。それを見てようやく「へいへい」とそいつが立ち上がった。

「早く行こうぜ、三郎のやつが煩ぇから」

まるで俺を待っていたかのような言い回しに、俺の苛立ちは沸きつつあった。

(何なんだ、こいつ)

第一印象は、とにかく最悪なやつ、だった。


(中略)


「……何やってるんだ?」

無理に押しだした言葉は、干上がった喉にはあまりに痛いものだった。振り向いて「何って写真見てた」と、見て分からないか、と言いたげに竦めた肩の先、そこからぶら下がっている彼の手には、写真立てがあった。

「っ……勝手に触るなって言っただろっ!」

押し殺していたものが爆発した。怒鳴ると同時に一気に彼に詰め寄ると、俺は殴りかかる勢いで、彼の手にあった写真立てを奪い返した。それまで、へらりとしていた竹谷は俺の剣幕に驚いたか、あんぐりと口を開くとそのまま俺を見つめた。数秒の後「悪い」と、少しばつの悪そうな声が届く。
その様子に、は、っと気づく。自分も大人げなかった、と。だが、それと同時に、それでもやはり竹谷を許せない自分もいて。「いや」と答えることはできなかった。ただただ目を伏せていると、沈黙に耐えかねたかのように、平然さを装ったような声音が降ってきた。

「これ両親?」

あぁ、と肯定をすればいいのだろう、そう頭では分かっていた。せめて頷くだけでも、それでも十分にこの気まずさを解消できるだろう、と。けれど俺にはどうしてもできなかった。他の物だったら、まだ苛立ちをぶつけるだけで済んだだろう。さっきの花瓶の時のように。

(けど、これは……)

そこに収まっているのは、一家揃って取った最後の写真だ。今思えば、笑い合いながら写っている両親は、もうその頃には既に離婚を決めていたはずだ。けれど、そんなこと微塵も思わせない笑顔。その中心に、まだ何も知らない俺がいた。

(っ……)

綺麗な、綺麗すぎる過去だった。それはまるでドライフラワーのようなものだ。綺麗なのに、触れてしまえば呆気なくバラバラに朽ち果ててしまうそれに、ここに写っている俺たち一家はよく似ていた。

「兵助?」

また沈黙を苦しく感じたのだろう、竹谷が俺の名を呼んだ。

「……竹谷には関係ない」

そう答えを振り絞る。三度の沈黙が落ちるだろう、そう想像しながら。だが、

「あ、そうだ」

すぐさまに返ってきた声音は、それまでの腫れ物に触るようなものとは違った。ごくごく普通に漏れ出てしまったかのようなそんな雰囲気に、意固地になっていたはずの俺の口から、するりと応答が落ちた。

「何?」
「その呼び方、不自然だろ。竹谷って」
「不自然?」
「結婚してるのに相手のこと苗字で呼ぶとか」
「あー、そうだな」

確かに竹谷の言うとおりだった。だが、急に下の名前を呼ぶのがどうも気恥ずかしくて「……お前の名前、何だっけ?」と、惚けてみる。

「え、それ冗談だよな?」
「八左ヱ門、だろ」

焦ったような表情に噴き出しながらそう答えれば、竹谷もまた笑った。それから、ふ、とその笑顔を柔らかなものに緩めて、俺の方を見た。

「長いからハチでいいよ。俺も兵助って呼ぶし」

最初からそう呼んでただろ、と突っ込もうとした瞬間、チャイムが鳴り響いた。

「っ……」

休日のこんな時間に訪ねてくるのは、こいつか移民局か。竹谷がこの場にいる以上、残される可能性は一つしかなくって。大きく跳ね打った心臓のざわめきが収まらない。だが、焦っているのは自分だけのようで。耳元に聞こえてきた声は信じがたいほどにのんびりとしたものだった。

「お、もう来たのか」
「もう、って、お前が遅刻してきたせいだろ」

悪い、と口にした竹谷はどことなく悪びれて見れて。ちっとも誠意の感じられない謝罪に苛立ちは絶頂だった。だが、ここで言い争っている暇は全くないのだ。このまま流すしかないだろう。
だが、完全に流すのは癪な気がして「全然打ち合わせができなかったし」と、わざとらしく聞こえるように竹谷にため息を吐きながら嫌味を投げることだけは忘れなかった。何か言い返そうとしているのか口を開いた竹谷に言葉を被せる。

「お前は喋らなくていいから」
「え、何で?」
「何でって、竹谷が喋るとボロが出る」

不服そうに少しだけ唇を尖らせた竹谷は「兵助だって、ボロ出してるじゃん」と文句を口にした。だが俺のいったい何が問題なのかが分からず「何が?」と尋ねたものの竹谷のやつは、にやり、と唇を愉しそうにゆるめるだけだった。

「おい竹谷っ!」

さっさと教えろ、という意を込めてどやしたのだが竹谷のやつは、意に介せずといったところだろうか。面白そうに「だから、それだって」と笑った。だが、それ、と言われても俺には何のことなのだか分からなかった。さっさと教えてくれればいいのに、と「それって何だよ」とさっきよりも強い口調で言い募った。

「だから、竹谷じゃないだろ。結婚したんだから」

してやったりという面もちの『ハチ』に苛立ちが爆発しそうになる。だが、その間にもずっと鳴り続けていたチャイムが俺を抑えた。こんなことで言い争っている場合じゃない。

「……ハチは黙ってろ」

そう踵を返して、玄関に出て行こうとする俺を竹谷のやつが引き留める。

「とりあえず、これ、どこかに隠してきてくれ」
「へ?」

ばさ、っと差し出されたのは、あのボロボロのコートだった。休日にコート着て家でくつろいでいるなんておかしいだろ、という言に仕方なく受け取る。鳴り続けるチャイムにせき立てられる。今は、考えている暇はない。とりあえず、自分の寝室のクローゼットにでも押し込めることにする。

「あ、あと兵助、指輪忘れるなよ」

自室に向かう俺に届いた言葉に振り返れば、ひらひらと手を振る竹谷の薬指には淡い光が灯っていた。同じデザインのそれを、いったいどこに仕舞っただろう、と一瞬悩んで思い出す。
あの夜に、帰る場所を失った夜に抜き取ったそれ。もう二度と使わないだろう、と思いつつも、クローゼットの引き出しに放り込んだはずだ。
急かすチャイムに寝室に飛び込んだ俺は、くしゃくしゃなままコートをクローゼットに突っ込み、引き出しを開けた。片付けの際に整頓して入れたタオルは相変わらず整然と並んでいる。だが、肝心の指輪が見つからない。タオルやら何やらで埋もれてしまったのだろうか。

(くそっ、どこだ? ……あ、あった)

焦りばかりが募った指先に引っ掛かる固いもの。引っ張り出したそれを、薬指に付ける。久しぶりのそれに違和感は拭えないが、今はそんなことを言っている場合じゃない。

廊下に戻れば竹谷が「はい、はーい」と扉を開けようとしていて。慌てて合間からすり抜けるようにしてドアノブを奪う。ちょ、っと言いかけた竹谷を目で制し、俺は扉を開けた。

「こんにちは」
「すみません、遅くなってしまって」

ドアの向こうにいたのは穏やかそうな青年がいた。勝手な想像だが、もっと厳格ないかにも役人といった感じのやつが来ると思っていただけに、そのおっとりとした表情に気が抜ける。

「いえいえ。いないのかと思ってもう帰ろうかと思ってた所だったんでよかったです。あ、調査員の不破と言います。よろしくお願いします」
「本当にすみません。ちょっと部屋が片づいてなくて、わたわたしてしまって」
「そうなんですね。すみません、引っ越してきたばかりの新居にお邪魔してしまって」
「いえいえ」

のんびりとした会話はどう考えても、偽装結婚を取り締まりにきたようには思えなかった。柔らかな微笑みを携えた彼は、すっと、俺の隣に視線を靡かせた。

「素敵なバラですね」
「え?」

いつの間にこっちに持ってきたのだろう、玄関の脇にある棚にはさっきのバラが挿してある花瓶があった。

「あ、さっき、たけ」
「たけ?」
「あ、いえ、ハチのやつが買ってきてくれて」

それ以上、どう続ければいいのか分からず「なっ」と助けを求めるように竹谷の方を向けば「この花、買うときに花屋のおばちゃんが『恋人にプレゼント?』って聞いてきたんですよ」とさっきの嘘を繰り出した。ペラペラと喋る竹谷だが、逆にその流暢さが怪しまれないだろうかと不安になる。だが、一通り喋っている間、不破さんはその穏やかな笑みを崩すことなく、ずっと聞いていた。

「本当に仲良しなんですね。羨ましい」
「そりゃ新婚ですから。ラブラブなんで」

今時そうそう使わない言葉につい「ラブラブって」と突っ込めば竹谷のやつは「いいじゃん。本当のことなんだし」と笑った。はいはい、と応じつつ、視線の内側だけはそっと不破さんを盗み見る。

(騙せた、か?)

全く変わらない微笑みが、ここまで来ると逆に怖かった。

「ラブラブなお二人とお見受けしたのですが、もう少々、質問したいのですが、よろしいでしょうか?」
「あ、はい」

では、と言うなりそのまま中に入ろうとした不破さんに「え? あの、ちょっと」と思わず声を漏らしていた。ぱ、っと頭に駆け巡る部屋の様子。偽装結婚を匂わすようなものもないが、逆を言えば、結婚しているような様子も感じられない部屋だ。そこに上げても大丈夫なのか、という不安が声になってしまっていたようだ。

「え? あぁ、すみません。部屋に上がらせていただきますね。なにせ、込み入ったこともお聞きしたいものですから。何か僕が部屋に上がると問題でも?」

す、っと鋭くなった目差し。それまでの穏やかそうなものとは一転した表情に、言葉が詰まる。急いで何か言わないと怪しまれる。そうと分かっているからこそ、焦りが焦りを呼んで声が出ない。どうしよう、と不安に駆られている内に拳を握りしめていたようだ。薬指の違和感が強まる。

「問題っていうか、うち、土足厳禁なんで」

ふわり、と温もりが頑なに閉ざされた掌に滑り込んできた。ハチの手だった。大丈夫、とでも言うかのように握りしめてきたその温もりを握り返す。
「あ、それは失礼しました」
す、っと険しさが溶けた不破さんは、さっきと同じような穏やかな表情に戻っていた。
「ただ、単刀直入に言いますと、僕たち移民局は、あなた方お二人の結婚について疑問を持っています」
「疑問?」
「えぇ。偽装結婚ではないか、と」
「偽装、結婚……」

自分の声が震えてしまったような気がして思わず竹谷を見上げる。少しだけ強ばったような表情をしていた彼は、けれども俺の視線に気づくと笑った。大丈夫だ、と強く握りしめてきた手が言っているような、そんな気がした。

***

居間に通した不破さんは「疑ってすみません。一応、これが僕の仕事なものですから」とおっとりとした口調で詫びてきた。だが、さっきの鋭さとのギャップを考えると、彼の真意がよく見えない。油断は禁物だな、と彼が繰り出す質問に、できるだけ丁寧に答えることにする。
とはいえ、込み入った質問、と言った割には当たり障りのないものだった。付き合ってどれくらいだ、とか、プロポーズの言葉は何か、とか。口裏を合わせなくても、どちらかが喋ってもう片方に「そうだったよな」と振って相槌を打つ。そんな流れ作業で進んでいく尋問に、これだったら上手く騙せそうだ、と安堵が胸を占める。

「じゃぁ、最後に」

そう言いかけた不破さんの言葉を遮ったのは、よく知った電子音。俺の携帯だった。ソファの下に転がっているそれ。ディスプレイには『鉢屋三郎』の文字。

「どうぞ」
「え?」
「お出になってください」
「え、あ、でも大丈夫です。そんなたいした事じゃないと思うので」

ここまできたら先に尋問を終わらせたかった。しバラくすれば、ぷつ、っとメロディが途切れる。ほ、っとした俺は、心配そうに見遣る不破さんに「急用だったらまた掛かってくると思うので」と告げる。そうですか、とまだ携帯から視線を離さない不破さんに「それで最後の質問っていうのは?」とこちらから投げかけた瞬間、また電子音が鳴りだした。

「あ、やっぱり急用みたいですね。どうぞ」
「いえ、大丈夫です」

思ったよりも大きくてきつい声になってしまった。竹谷をこの場に一人残していく不安の方が大きくてそう断ったのだが、頑なになってしまった響きに、不破さんが眉根を寄せたのが分かった。
探るような眼差し。不審に思われた、と相手の心証を考えるだけで心臓が変に痛い。どう取り繕うかと言い訳を頭に昇らせるものの、いいアイディアが思いつかない。

「兵助、出てこいよ」

不意にソファの揺れが消えた。竹谷が掴んだのは、俺の携帯だった。竹谷の手の中で僅かに空気を震わせているそれを、彼は俺の方に差し出した。まだ消えぬディスプレイの文字。
これ以上ごねて心証が悪くなってしまうのもまずいか、と俺は「分かった」と立ち上がった。竹谷や移民局の連中らの様子を少しでも覗けるよう、居間の奥にあるキッチンへと向かう。ここなら、簾越しに気配を伺うことができるはずだ。

(にしても、本当にタイミングが悪いな)

さっさと電話を切ってしまおうと苛立ち紛れに「もしもし」と取れば「お、兵助か」とやたらと呑気な声が耳元で響いた。腹立たしさに声を荒げそうになるが、不破さんに聞かれていたら、と必死に声を落とす。

「用がないならさっさと切るぞ」
「用がないって、そっちが掛けてきたんだろうが」
「あー、それならもう解決した。竹谷のやつが時間になっても全然来なかったから、どうなってるのか聞きたかっただけだから、もういい」

忙しいから切る、と告げたにも関わらず「今、来てるのか?」と訊ねてくるのはわざとなのだろうか。あぁ、と不機嫌さを押し出したのだが三郎には伝わらなかったらしい。いや、伝わっているけど逆撫でしたいのかもしれない。「で、どうなんだ?」と聞かれる。

「どうって今のところはまぁ大丈夫だと思う。付き合ってどれくらいだとか、」

当たり障りのないことしか聞いてこないし、と言おうとした瞬間、

「えっと、トイレ、トイレなートイレの場所はー」

俺の耳に飛び込んできたのはハチの困った声だった。慌てて簾を掻き分ける。がしゃっと、ウッドビーズが携帯にぶつかってしまった。その音が伝わったのか、携帯の向こうから「どうした?」という声が聞こえてくるが、それどころじゃない。

「竹谷っ」

思わず叫んでいた。その手に握られていたドアノブの先にあるのは、俺の部屋だったから。

***

「とりあえず、一緒に棲むしかないだろうな」

俺が話している間、ずっとスティックシュガーのゴミを弄って遊んでいた三郎は、それでも一応は聞いていてくれたようで。一通りこちらの話を終えると、俺たちをそう交互に見遣った。

「無理」
「無理って、兵助、ひでぇなぁ」
「無理なものは無理。こんなデリカシーのないやつと一緒に住めるわけないだろ。絶対無理」
「うわ、そこまで拒絶されると、傷つくわー」

よよ、とばかりに、わざとよろめき、しなだれかかるようにしてテーブルに突っ伏した竹谷を無視して、俺は三郎と向かい合った。竹谷の遊びに付き合ってる暇なんてないのだから。

「他に方法はないのか?」
「ないな」

そう言われるだろうとは分かっていた。一緒に棲むしかない、と。けどそれがしたくないから、こうやって三郎に相談を掛けているというのに。どことなく投げ遣りな言い方をした三郎のやつに、もう少し真剣に考えてくれ、と言いたいのをどうにか抑える。

「本当に?」
「あぁ。あれだろ、今度は移民局に呼び出されたんだろ」
「来週にな」

自宅なのにトイレの場所が分からないのはおかしな話ですね、と俺たちの結婚に疑問の余地があると判断した不破さんは、俺たちに移民局への出頭を命じた。
当然、選択の余地などない俺たちは「分かりました」と頷くことが精一杯で。対応策を講じようとこうして三郎をあの喫茶店に呼び出したのだが、彼の提案は想像していた通りのものだった。

「今度はもっと突っ込んだことを聞かれるだろうな。テストみたいなものを受けるからな」
「だからって一緒に棲む必要はないだろ」
「だって、お前、こいつの鼾がすげぇ煩いとか知らないだろ」
「俺、そんな煩くねぇって」

名指されなかったものの、こいつ、と視線を寄越された竹谷がそう噛みつく。溜息混じりで「阿呆、喩え話だ」と竹谷に呆れた目を浴びせた三郎は俺に向き直ると「寝相のこととか、歯ブラシの色とか、まぁ要は一緒に棲んでないと分からないことを聞かれるってことだ」と

「まぁ、諦めるんだな」
「っ……」

もうあの部屋を、あの庭を手に入れたとしても、あの頃に戻れる訳じゃないのだ。どのみち、あの頃に帰ることができないのなら、わざわざ竹谷のやつと一緒に棲まなくてもいい。
一瞬、そう思ったが、そんな単純な事態じゃなくなっている。もし、これでテストに合格できなければ、俺は偽装結婚の罪で逮捕されるだろう。それだけは避けたい。

「一緒に棲むったって来週だけなわけだし、それくらい我慢すればいいだろ」
「……分かった」

数日だけ耐えれば、安寧の日々を過ごすことができるのだ。あの部屋で。そのためなら仕方ない、と腹を括ってそう頷く。隣で「え、ちょ、俺の意志は?」と戸惑っている竹谷を無視して、俺は冷めかけた紅茶のカップを手にした。どことなく重たげなアンバーの色合いにひっそりとため息を落とす。


(数日間の、我慢だ)




Life is not all roses. But…