「よぉ、ハチ、今度は何やらかしたんだよ」
「今度はって何だよ、今度はって」

肩に肘をのせて体重を掛け、からかってきた三郎に文句の声を上げていると、傍らにいた雷蔵が「でも、今回は違うんじゃない?」と掲示板の貼り紙を指差した。学園長からの呼び出しを示す朱印が押されたそれは、この学園に在籍する者なら誰もが「関わりたくない代物」と口にするだろう。つまりは厄介事が降りかかってくるということだった。(この点、人災と言うべきか、避けれない点では天災といってもいいんじゃないだろうか)

「今回はって、雷蔵も何気に酷くねぇ?」
「仕方ないだろ、前科が多すぎるんだから。にしても、今回は違うって?」

どういう事だ、と尋ねる三郎に雷蔵は「ほら、ここにもう一人名前があるじゃない」と目配せした。それにつられて俺も再度貼り紙をじっくりと見直す。達筆な文字は今時珍しく、パソコンではなく手書きのようだった。それが、また、妙に迫りくるような豪気な字面だけに、なんか気が重くなる。

『以下の者は指定の時間に学園長室まで来るように。ピアノ科竹谷八左エ門、バイオリン科久々知兵助』

「あー、久々知ってあの久々知か」
「だろうね」
「なら叱責じゃなさそうだな」

そんな二人に「とりあえず、行ってくる」と告げると雷蔵は「がんばれー」とのほほんとした笑みを浮かべ、一方の三郎は「骨なら拾ってやるよ」など無責任な言葉で俺を送り出した。



学生課や事務部が入った棟の一番奥にある学園長室にはどっしりとした扉が構えてあった。いかにも金を掛けてます、っつう感じの、ごてごてと趣味の悪い装飾がなされているそれは、けれども来たものを威圧するには十分すぎるもので。やっぱり何か叱られるんじゃないか、って、過去何度かお世話になったことがあるだけに、ますますテンションが下がってく。

(はぁ、あながち三郎や雷蔵の言葉を否定できねぇのが空しいよなぁ)

ため息を一つ飲み込んで、一応、曲げた人差し指の山で分厚い扉をノックをする。振動と共に古木を割ったような鈍い音が響く。即座に「竹谷じゃな」と野太くしゃがれた声が戻ってきた。「入りなさい」という言葉に恐る恐る重たい扉を開ける。「すみません、遅くなって」とへこへこ頭を下げながら入ると、ふ、と鋭い視線を感じた。穿つようなそれに、つい、こちらもその視線を辿る。と、そこには、線の細そうな黒髪の人物がいた。呼び出し状のことから、こいつが久々知か、と見当を付ける。少年というには大人びていて、大人というにはどことなく頼りない様相の彼。ぱり、っと糊の効いてそうな真っ白なシャツと、僅かに襟足が掛った黒の短髪。くっきりとしたコントラストは、ピアノのようだった。黒曜石のごとく澄んだ双眸には何の感情も読み取ることができない。

「竹谷。もっとこっちに来なさい」

学園長の言葉に、彼に見とれていたことに気付き、慌てて視線を部屋の中央にでんと置かれた机へと向ける。学園長という文字が刻まれた札が置かれた机に供えられた椅子にふんぞり返って座っている老人は少し苛立つような表情を浮かべていた。(まぁ、年寄りってのは、気が短いわけで)適当に愛想笑いを浮かべながら近づき、さっきの彼の隣に並ぶ。ちらり、と久々知の方に目線を送るが彼はもう俺を見てはいなかった。ごほん、とわざとらしい咳に、俺は再び学園長に向き直った。「さて」ともったいぶったように学園長は俺と彼とに交互に見遣った。

「今回、お主たちを呼び出したのは他でもない。二人にこのコンクールに出てもらいたいんじゃ」

学園長が机に滑らせたのは名のあるコンクールの申込書だった。一応、俺もプロになりたい、という夢はあるわけで、いつかは出てみたいと思っていた。若手の登竜門と言われるそれは、当然のことながら学校推薦がいる。年齢なんて関係ない、下剋上の世界と言ってしまえばそれまでなんだろうけど、いくらピアノ科の学年首席とはいえ、俺以上の腕がある先輩らを差し置いて2年次で出れるなんて夢にも思ってなくって、つい「はぁ」と気の抜けた返事を返していた。

「なんじゃ、竹谷は不満か?」
「いや、そんなわけじゃ」
「ならよろしい。まぁ、お主らなら金賞、は無理でも入賞はできるかもしれぬぞ」
「いや、やるからには金賞を狙いますって」
「ほほぅ。そりゃ、頼もしい限りじゃ」

なら申込書にサインを、と炭酸が弾けたような楽しそうな鼻歌を交じえながら俺にペンを差し出してきた学園長を「一つ、いいですか」と氷柱みたいな鋭い声が遮った。それまで一言もしゃべっていなかった彼だった。「もちろんじゃ、久々知。一つでも二つでも三つでも」と冗談を飛ばす学園長を無視して久々知が問いかけた。

「なぜ、ソロじゃないのですか?」

その言葉に、改めて申込書の記入欄をまじまじと見てみると、既に記入されている参加者名には俺の名と久々知兵助という文字が連なっていた。申込の部門を確かめれば、明らかに連名なのを見てとって、俺も慌てて抗議の声をあげる。

「え、ちょ、まって下さいよ」
「なんじゃ、竹谷」
「俺、ソロ向きっつうか、ソロしかできないっていうか」
「俺もです。ソロの音づくりを中心にしてきたので。しかも、これ、開催まで時間があまりありませんよね。普段からよく知っている奴ならともかく、急にコンビを組んで上手くいくとは」

俺を援護してくれた久々知に「ほぉ、そりゃ残念じゃのう」と学園長はわざとらしいため息を吐いた。

「ピアノ科とヴァイオリン科のトップならできると思ったんじゃがのう。わしの見込み違いだったか」
「見込み違いもなにも」
「こんなにも優秀な生徒を海外に送り出す機会を失ってしまうなんて」

よよよ、としなだるのは学園長の演技だとわかっていても、ついつい「え、海外っすか?」と食らいついてしまうのは性だろう。海外進出の機会なんて、そうそうあるもんじゃねぇ。「そうじゃ、留学の審査も兼ねておるしのぅ」と、ずぃ、と身を乗り出してきた学園長のしわくちゃな手を握る。

「やります! 俺、出ます!!」
「もちろん国内のコンクールとはいえ賞金も出るし、あぁ、昨年度の金賞者は学費免除にした覚えが…。のぉ、悪いことは言わん、出てみないか? ただし、条件は、二人で参加じゃぞ。どうじゃ、久々知?」



(中略)



「お前、ありえない」

初見と譜読みが苦手なことを告げると、兵助はばっさりと斬り捨てた。元々、珠のように透いた黒い瞳がさらに冷えた色合いになったような気がして、心臓が捩じられたように痛くなった。

「じゃぁ、曲、どうやって覚えてるんだよ」
「えーっと、耳はいいもんで」

それで聞いて覚えるんだけど、って言葉は、ごにょごにょ、と、だんだん小さくなるしか術がなかった。ただでさえ迫力のある目はますます鋭くなっていき、太刀打ちできない。自然と頭が垂れさがっていく。それでもなんとか最後まで口にして顔を上げれば、兵助の唇は硬く結ばれて下がっていた。

(あきれられた、よ、な)

楽譜通りに引けない。俺の、そしてこの道を志す者ならば致命的な課題。ソロの音づくりしかしてこなかった(というか、させてもらえなかった)のは、相手と合わすことができないから。前に授業でしたけど、そりゃ、散々な結果だった。別に、それでもいいって、思ってた。そういうタイプの奏者だっているわけだし、コンクールで馬の合う審査員に評価されることだってある。一緒に組んだ相手からも師事する先生からも、無理、って思われるのは慣れてる。だから、兵助にコンビを解消する、って言われても全然、珍しいことでもなんでもねぇのに、

(----------コイツと、兵助とやりたい)

その思いだけがどうしようもなく渦巻いていた。彼の音を聞いた瞬間から、増幅していく熱を抑えきることができなかった。けど、それは、こっちだけのものだろう。兵助が俺と組むメリットがない。彼の唇がうっすらと開き、「止めよう」という言葉が紡がれるのを凝視して待って、

「金賞、狙うんだよな」

予想してなかった言葉に、頭がついてかない。その時の俺は、相当、マヌケな顔をしてたと思う。ようやく事態を呑みこんで「あぁ!」と反応できた俺に、仏頂面だったそれまでとは一転、「口開けすぎ」と、笑いを堪えたような緩んだ表情を向けた。それから「ほら、時間ないから、音取りするぞ」と下ろしていた楽器を構えた。

その後は、地獄の特訓だった。音を跳ねかしたり、テンポを勝手に作ってしまう度に「だからさ」と兵助の目がカッと見開く。休憩一つなく、時間も延長して、ようやく一通り弾き終わった頃には、へろへろで意識がぶっ飛びそうだった。帰ったらもう寝よう、と鉛みたいに重たい体を何とか動かし、布団に飛び込むことだけを考えながら片付けていると、兵助がさらりと言った。

「あ、明日は朝の9時からな。第1楽章、暗譜してこいよ」






***

「僕も君に嘘を吐いてるんだ」
「嘘?」
「僕、いつか三郎に髪を洗ってもらうのが夢だったんだ」